文字数 1,392文字

 隣国に入って数日。
 街から街へ徒歩移動を続け、初日に皇国から馬車で急いで出てきた割には妙にのんびり移動しているなとサファイアですら思い始めた頃。
「さて此処からは一気に行くわよ」
 ある街に入ってから突然そう言い出したエメラルドに彼女はクリアと二人顔を見合わせた。
 そもそもこの時点においてもまだ何処に向かっているのか揃って全く伝えられていない現状であるけれど、それ以上にエメラルドが言うところの「一気に行く」の意味がわからない。物語の中の世界ならまだしも、この世界において普通に移動する場合に馬以上に早い移動手段は存在していないから、今からどこかへ一気になんて言うくらいなら初日の馬車をずっと使っていればよかったのでは、と思ってしまう。
「というか今日までのんびり過ぎてますけど、そっちは大丈夫なんですか?」
 クリアの言葉に母の緑の目が片方ばちっと瞬いた。
「私を誰だと思ってんの」
「お師匠様です」
「たまにはエメちゃんと言いなさい」
 城でも時々していた噛み合わない会話をしながら、母が誘導する人気のない方向へと着いていく。周囲に誰もいなくなった頃合いを見計らって長い髪を綺麗に靡かせながらエメラルドは二人の方へ振り返った。
「此処までは追っ手に対する撹乱。こっからが目的地への移動よ」
「お母様、移動って」
 その場でびしっと指を一本立てて姿勢を正し教えてくれるものの、娘のサファイアですら母が何を言おうとしているのかわからない。三人が今いる場所は隣国の小さな街の片隅。皇国の首都の十分の一にも満たない広さのそこは、外に出たって周囲の見える範囲に他の街がある訳でもなく、此処から突然何処かに行けるとは思えなかった。
 きょろきょろと周りを見回してクリアも同じような感想だったのだろう。
「此処からと言われて……もっ!?」
「えっ?」
 言いかけたクリアがぎょっとした顔になるのとほぼ同時、三人のいる場所の足元が光ってサファイアもびっくりして声を上げてしまう。これってなんだろうと思っている間にも、いつもと違う母の声が聞こえた。
「跳ねる銀の星 繋ぐ果ての時 終わる前の幕を上げて覗き見よ」
 呪文。
 魔術士である母が魔術を使うのは今更不思議ではないけれど、この母がわざわざ声に出して呪文を唱えてることは珍しくて凝視してしまう。まるで歌うみたいに独特の抑揚がついた声で言葉を繋げていくエメラルドが何をしようとしているか魔術士ではないサファイアにはわからなかったけれど、ただ妙にぞわっと『重い』感じがするなと思っていたら、横から急に腕を掴まれた。
 見ればクリアがひどく焦った顔をしている。
「師匠、本気で何処行くつもりなんですかっ」
 普段になく強い感情の混じった声でエメラルドのことを師匠と呼ぶクリアも魔術士だ。どうやら何をしようとしているのかもう把握したらしい。それには答えず母はまだ呪文を続けている。
「せめて呪文唱えるならもうちょっと丁寧に省略を」
 不満そうに言い募るクリアがびくっと震えたのが、掴まれた腕から伝わってきた。
 母を見れば、もう呪文を止めている。
 何が起こるのかと注目している娘の視線をどう思ったのか、エメラルドは小さくうなずいて指を鳴らした。
 視界が真っ白になる。
 突然の変化に思わず目を閉じるのと同時、ぐらっと体の感覚が狂ってふらついたけれど腕を掴まれていたせいで倒れずに済んだようだった。
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