文字数 1,692文字

 次元の狭間から去る時、手招きした次元の狭間の主が近寄ったサファイアの手を取って小さな石を握らせた。
 手の中に落ちた石と相手を交互に見る彼女に対し、優しい声で語りかけてくる。
「そなたが向かう精霊の森にはそなたを傷つけるものはない。だが念のためだ」
 首にかける用らしい長めの細い紐のついたその石は綺麗な緑で、宝石ではなさそうだったがエメラルドの目の色のように綺麗だった。或いは、次元の狭間の主の目の色のような。
「何かあったらその石を握れば良い」
「そしたらどうなるの?」
「此処に戻る。それは解決にはならぬかもしれぬ。だが、私に話すことで落ち着く気持ちもあれば、見いだせる結論もあるだろう。肝要なのは不必要に思いつめないこと。自分を一人と思わぬことだ」
 言いながらその人は慣れない手つきだったけれどサファイアの頭をそっと撫でてくれた。
 父の手ともクリアの手とも異なるその大きな手の不慣れな動きがくすぐったくて、でも不思議と嬉しいと思う。父よりは若いように見えるけれど何歳かわからない次元の狭間の主はとても落ち着いた空気があって、ほんの少しの時間一緒にいただけなのにすっかり心が馴染んでしまったような気がする。
 この人は信頼していい。サファイアの中でそういう結論が出ていた。
 母やクリアの上司だからというだけではない。この人を見ていると、まるでずっと前から知っているような気持ちすらする。
「ありがとう。大事にするね」
 だからだろうか、遠慮する言葉も思い浮かばずそのまま受け取ってはにかんだ彼女に、心なしか嬉しそうにその人は頷いた。


 来た時と異なり呪文もなくエメラルドが転移術を使った後。
 三人が立っていたのは真っ白な世界から一転、見るからに深い森の中だった。
 今回はどうにかふらつくことなく立っていられたサファイアを確認してからクリアが腕を掴んでいた手を離してくれる。
 見回しても道すらなく、目印もない。どこに向かっていいのか出口がどこかもわからない場所で、ざわざわとした梢の揺れる音や鳥の鳴き声が聞こえる。真昼なのに木々の葉に遮られたせいで周りは薄暗い。少し湿った森独特の匂いがする空気に突然包まれて、嫌悪感などなくサファイアは言葉にならない感嘆を漏らした。
「師匠、呪文いらないんじゃないですか」
「普通に使うならそりゃそうでしょ」
「じゃあさっきのは何です」
「転移と同時に痕跡を消したり色々効果をつけてたら、さすがの私だって呪文なしで使うにはちょっと不安が残るのよ」
 彼女が周りをきょろきょろと見回している間にエメラルドとクリアが何か話している。
 それはあまり気にならず、むしろ彼女は慣れない森の空気というものに圧倒されていた。生まれてからずっと皇国の城からあまり出たことのない王女暮らしである。城の庭にも植え込みなどはあったけれど、今目の前に広がっている森のように規則性もなく自由にのびのびと草木が伸びている様など見る機会は殆どなかった。
 本や絵などで森を見ていたし行き先が精霊の森という場所だと聞いていたからここが森だろうとすぐ思い至れるけれど、実際に見る森は絵や文章から想像するよりもずっと存在感があってわくわくする。
 奥の方が薄暗く良く見えないところすら、何だかドキドキした。
「これが森」
「そうよ。此処は精霊の森。位置は適当に出ちゃったけど、まぁ案内してもらえるでしょ」
「案内? 誰か来るの?」
 母の言葉にことっと首を傾げるサファイアに、エメラルドはくすっと笑ってかぶりを振った。
「姿を見せるって意味じゃないの。私たちが行きたいところに到着させてくれるって意味」
 そう言うと「ほら行きましょ」と前に進み始める。
 迷わず一歩踏み出したように見えるが、エメラルドが進む前後に道はなく、人が通った形跡なんか全くない。そのまま進んでも迷うだけなんじゃないかと一瞬思ったけれど、母がそんな非合理的なことを始めるわけがないなと思い直して後を追いかけた。クリアも黙ってサファイアの後ろをついてくる。
 初めて歩く森の中、これから何処につくんだろうなと思うと、不安よりも好奇心が刺激されて胸が高鳴った。
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