文字数 1,561文字

 サファイアは旅なんてしたことがない。
 旅どころか、生まれてからずっと日帰りの外出しかしたことがなく、後宮以外で寝起きしたことすらなかった。まさに箱入り娘状態だが王女としては珍しくないことなので、そんな自分の生活に疑問を持ったことは一度もない。城から離れるのはそれこそ嫁ぐときだけだと思っていたけれど、その未来予想は見事に外れた。
 もう帰らない前提でと言われても何を持っていって良いかすらわからない中、今まで読んできた書物や想像力で必死に荷物を整える。途中で己の荷造りを終えたエメラルドにも手伝ってもらって、夜中には三人でこっそり城を出た。
 まるで逃げるように城の隠し通路に向かう中。
「お母様、お父様には」
「あー、ごめんなさいね。今会っちゃうと機会を失っちゃうわ。だから、会えません」
 せめて挨拶をと思ったけれど、母の返事はつれない。でも何となく予想が出来ていたのでそれ以上サファイアも言及はしなかった。本当は一言一目でもとは思うけれど、こんなことまでしている母の都合がそれによって壊れるのは望んでいない。
「近いうちにとは言えないけど、何時か必ず会えるようにするから」
「はい」
 また約束を増やす母に対し、頷くことしかできなかった。
 それ以降は黙って連れられるままに歩き続け、途中から用意されていた馬車に乗って母が手綱を握る中、荷台に揺られ続けた。明かりをつけていないせいで夜闇の暗さそのままの荷台にクリアと並んで座る。がたがたと絶え間なく続く音と振動に得体の知れない恐怖を感じていたら、それを察したみたいに肩を引き寄せられた。
 もう10年以上一緒に過ごしている青年は、何時だってサファイアの心に敏感だ。
 こんな、目も耳もまともに使えない場所ですら、異変に気づくほどに。
 頭を彼の肩に乗せて目を閉じる。
 慣れない状況でも、昔から知っているぬくもりと匂いがすぐそばにあるだけで落ち着くような気がした。
 こんな状態では何を言っても聞こえないだろう。ありがとうと言うのは後にして、暗い中で迷子にならないようにクリアの服の裾をそっと握る。
 どうして、と思う。
 何が、と思う。
 これからどうなるんだろう、と思う。
 それらがぐるぐる浮き上がっては不安を撒き散らし、恐怖を生み出し、足元から何かが崩れるような気持ちにさせる。母もクリアも一緒にいるとわかっていたって安心して思考放棄出来るわけがない。読んだことのある小説や歴史書の中に出てきた、様々な事情で国から逃げなければいけなかった施政者やその家族の行く末の文章が浮かんだ。皇国はずっと平和だと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。全てが悲しい結末ではなかったけれど、そのほぼ全てが、それまでの生活に二度と戻ることがなかったのを覚えている。
 怖い。
 本当は何処にも行きたくない。ずっと今までみたいに暮らしたい。
 口に出したら止まらなくなりそうだから、言わなかった。それが出来るならば、母だってこんなことはしてない筈だから。
「…………っ」
 熱くなった目頭を必死に堪えていたら、肩に置かれていた手が一度だけ強く握られた。
 やっぱりクリアは気づいてしまうのだ。
 そしてきっと、荷台の中にはいない母に至っては、馬を走らせながらだって気づいている。それでも二人が連れていかなければいけないと思っているのなら、それが何処であろうが行かなければいけない場所に違いない。
(こんなに怖いのは、今が真っ暗だから)
 そういうことにしよう。
 いつまでも怯えていたら母もクリアも心配するから。この感情は夜が明けるまで、皇国を出るときまでにしよう。この先もきっと大丈夫。少なくともひとりじゃない。だから、大丈夫。
 自分に言い聞かせて、真っ暗な今だけはと涙が一つだけこぼれるのをサファイアは自分に許した。
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