文字数 2,092文字

 城を出たその日こそ恐怖が強かったサファイアだったが、元々の好奇心の旺盛さは新しい環境を前にあっさりと勝つものだ。
 馬車で揺られ夜が明ける頃、御者席にいる母に声をかけられて窓を開ければ、そこには見たこともない大きな朝焼けの景色が広がっていた。それを見た瞬間に夜の時間に苛まれていた負の感情は消し飛んでしまったのだ。
 景色といえば多くが城からの光景、日帰りしかしない外出では城以外で夜明けなど迎えることがない。
 だから、眼前に広がっていた景色はサファイアの想像をはるかに超えていた。
「うわぁ……!」
「この辺はもう隣のシギウスだね。皇国はもう抜けてるよ」
 窓から乗りださんばかりに顔を出している彼女の体を後ろで支えているクリアが教えてくれる。走る馬車の上、絶えることなく流れ込んでくる風の向こう。朝日が登り始めた空はまばらな雲の隙間を縫うみたいに光が差していて、太陽の周りはやわらかな赤色をしている。
 とても綺麗な日の出。
 それより何よりサファイアを驚かせたのは、見たことのない空の低さだった。
「空、低い、すごい」
「低い? あぁ、確かに。この辺は高い建物とか木が無いから、そう見えるね」
 なんて言えばいいかわからないまま拙い言葉を零す彼女に、クリアが冷静に教えてくれる。
 空といえばその多くを城の高い建物の中から、あるいはその周囲からしか見たことのないサファイアにとって、全方位に地平線が見える程に真っ平らな地上の真ん中で見上げるそれは全く別物に映った。手を伸ばせば届いてしまうと錯覚しそうな程、低く近くに伸びている空に広がる朝焼けは、見たことのない美しさで。
「綺麗ね!」
 思わず両手を伸ばし、破顔した彼女をクリアがほっとしたような顔で見ているのに気づく余裕もない。
 そのまましばらく二人で空を見上げていたけれど、珍しくもずっと黙っていたエメラルドから「そろそろ街にさしかかるから準備しなさいよー」という指示が飛んできた事で我に返った。
 この時見た空が新しい生活の幕開けを示唆していたのだなと、後日サファイアは何度でも思い返すことになる。
 以降は、見える全てが彼女にとって新鮮なものばかりだった。
「馬車は此処までよ。これ以上離れたらこの子たちも自力で戻るのが大変だからね」
 街に着いてすぐ馬から馬車の荷台を外しつつエメラルドは説明した。身軽になった馬たちはしばらく母や彼女にその体を撫でられた後に自ら来た道を並んで走っていく。そういう風に調教されたかのように迷いのないその後ろ姿を三人で見送りながら、サファイアは尋ねた。
「あの子たち、大丈夫なの?」
「大丈夫よ。此処までは来たことあるらしいから迷ったりはしないわ」
「サフはそういうことを言ってるんじゃないと思うんですけど」
 我が事のように自慢げに説明してくれる母に対し、クリアが指摘を入れる。それには答えずにエメラルドは街へと歩き出したから、二人もその後を追った。
 初めての遠出にまだ慣れないサファイアと異なり、クリアも、そして母も何の動揺もなく普段通りに歩いている。
 皇国に来るまでは旅をしていたというクリアはともかく、母がこの状況に馴染んでいるのはとても不思議に見えた。城にいれば誰よりも綺麗で堂々とした美しい王妃にしか見えないのに、今こうして飾り気のない服装で颯爽と歩いている姿はそんな風に見えず、けれど驚くほどしっくりと素朴な景色に溶け込んでいる。
「お母様」
「なぁに?」
「お母様は、こういう風に出かけるの、慣れてるんですね」
 気になって問いかけたサファイアを振り返りエメラルドはにっこりと微笑んだ。
「そりゃそうよ。だって私、皇国に来るまではこうやって過ごしてた時間が結構あったもの」
「初めて聞いたよ!?」
「そうだっけ? 母様が生まれ育った家は、そもそも先祖代々みんなして何処かに定住することない生活をしていたのよ。だから貴方、私の方の親類には誰とも会ったことないじゃない。みんなもう皇国にいないし立ち寄りもしないからね」
 初耳な過去を教えてくれた母は、さらに初耳な親戚の存在をも教えてくれて、さすがのサファイアも絶句する。
 母方の親類縁者に関して今まで母から何も聞いていないし、確かに会ったこともない。でもそれは何か事情があってもう存在してないからなんじゃないかと何となく思っていた。生きているのに会えてないのはおかしいから自然とそういう思考になっていたのだ。
 だから話し辛くて教えて貰えてないのだと勝手に思っていた。
 クリアの方もなのだろう。こちらは絶句しないまでも驚きを滲ませた顔をしている。
「え、サフに師匠側の親戚がいるんですか?」
「いるわよ。ていうか私、貴方にだって天涯孤独なんて言ったことないでしょうが」
「そりゃそうですけど…………えぇぇ」
「何よぉ、その顔?」
「普通そういうの娘にまで隠します?」
「会いに来る予定もない親戚の存在なんて、言うだけ寂しいでしょう」
「うぅ〜ん……?」
 驚きを通り越して呆れを多分に含んだ声で唸っているクリアと、まだ言葉も見つからないサファイアを交互に見てエメラルドは楽しそうに声を上げて笑った。
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