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文字数 2,732文字

 適当に歩いているように見えるエメラルドだったけれど、行く先の光景に変化が現れるのはすぐだった。
 さっきまで何処を見ても木々の向こうは薄暗いばかりだと思っていたのに、唐突に前方が明るくなってきたかと思えばあっという間に森を抜け出してしまう。
「ほら、着いた」
 楽しそうなエメラルドが片手で示す先、広く開けたそこには広い庭園と大きな屋敷が見える。周りの森の木々はその後ろや左右にも絶え間なく見えるから、どうやら此処はまだ森の中であるらしい。建物の大きさだけで言えばサファイアたちが暮らしていた後宮のそれよりもしっかりしていて美しい外見をした屋敷は、森の中にあるとは思えないほど豪奢な造りに見えた。
 家があるからには誰かが住んでいる、のだろう。
 こんな森の中にあるにしては朽ちる様子もなく美しい屋敷に、荒れることなく細部まで整った庭園は、明らかに人の気配がある。ほぉっと彼女は感嘆した。
「またすごいお屋敷ですね。森の中なのに」
「でしょう。まぁ建った当時はまだ森じゃなかったみたいだけどね」
 その敷地の中に躊躇なく踏み込んでいくエメラルドに引っ張られるようにサファイアとクリアも中へと足を踏み入れる。
 けれど母のように堂々と歩く気にもなれなくて進みながらも本当に入っていいのかなぁと思っていた矢先、屋敷の玄関と思われる大きな扉が開くのが見えた。同じくそれを見たのだろうエメラルドが足を止めたところで、開いた扉の方から二人の男が現れてサファイアたちの方へと歩いてくる。
 一人は珍しい緑の髪をした青年で、もう一人はよくある茶色の髪をしていたけれど、よく見たら目の色は珍しい赤紫色だった。どちらもクリアと同じくらい身長が高くて、緑の髪の人の方は年齢が分かりにくい雰囲気だったけれど、茶色の髪の彼の方は自分とあまり年齢が変わらない若さに見えた。
 なんとなく、赤紫の目の彼の方はすごく不機嫌に見える。緑の髪の人は、感情がわからない無表情。
「はじめまして。おじゃましてるわよ」
 その二人にエメラルドは堂々と初対面の挨拶をしている。何ら構えることも改まることもないその態度に対し、不機嫌さを隠すことなく赤紫の目を鋭くして相手が軽く手を振った。何かを追い払うような仕草。
 世間を知らないサファイアにもわかる。
 全く歓迎されていない。
「招いちゃいないんだけど」
「でも追い返されてもいないわよ。出てきたってことは話をする気はあるんでしょ」
「こっちから来なきゃ家の中にそのまま入ってくる気だっただろ」
「まぁねぇ」
 悪びれずに肯定したエメラルドを呆れたように眺めた後、その赤紫の目がクリアを見て、サファイアに移った。
 じっと見つめられて、なんとなくその視線をまっすぐに受け止める。何か言うべきかどうかもわからずに黙って見ていたけれど、ダイダルジニアの王子の視線と違って不思議と嫌だとは思わなかった。何かを探るような視線なのは同じなのだが、王子にあったような不躾さや冷たさ、まとわりつくような感覚が無い。
 王子の視線がべっとりと不快にくっつく粘液なら、この視線はちょっと眩しい太陽の光みたいだと思った。ついた瞬間にも拭き取りたい粘液と違って、晴れた日に注ぐ陽の光は届いて当然のものだ。
「勝手に来たからには先に名乗る気があるんだろうな?」
「私はエメラルド=リリア。こっちは私の弟子のクリアと、娘のサファイア=マリア。ほら、サファイアきちんとご挨拶して」
 母の言葉に驚くものの、言われるままにサファイアは相手の目の前まで歩み寄った。
 子どもの頃から挨拶の仕方に関しては、母から二通りを教わっている。一つは普通の王族としての挨拶。ある程度の距離でお辞儀をするもの。正式と略式二種類のお辞儀がある。一国の王女たるもの、外交の場であっても安易に相手に触れる距離に近寄ってはならず、淑女たるもの相手に頼まれた握手や友好の証のためであっても自分の手を差し出したりしてはいけないというものだ。他の王子王女が手にキスをされようが握手をしていようが基本的にダメらしい。
 もう一つがしっかりとした握手を交わすもの。とにかく触れてはダメだという言い分と真っ向から反するけれど、特定の相手などについては逆にちゃんと握手をすべきだという。その判断は大人になればわかるから、わからないうちは私が教えてあげるわと言うのがエメラルドの説明だ。
 さっきの「きちんとした挨拶」が、この握手をする方の挨拶に該当する。
 滅多に無い指示だったけれど、ずっと前に教えられた通りサファイアは相手に自分の手を差し出した。
「サファイア=マリアです。よろしくおねがいします」
「え? あ、うん。俺はアミル……」
 一瞬戸惑ったように片足を一歩下げた赤紫の目のその人が、けれど踏みとどまって名乗り返しつつ手を握り返してくれた。
 両親とクリア以外では他人と触れ合う機会がほぼ無い生活をしていたサファイアにとってはかなり久々の接触でものすごく緊張していたが、手を握った瞬間に相手の方が酷く驚いた顔をしたから何か粗相をしたかと心配になる。
 アミルと名乗ったその人は、驚いた顔でサファイアを見て、すぐ視線をきつくしてエメラルドの方を睨んだ。
「おいあんた! ここに来てるってことは俺が魔術士だってのはわかってんだろ、何こんな無防備に握手させてんだ!!」
 手を握ったままなのも忘れた様子で母に怒りの声を上げるアミル。
 エメラルドの方は動じる様子もなく肩を竦めた。
「誰とでも握手させてるわけじゃ無いわよ。貴方だから、握手を許してんじゃない」
 つまらない質問を投げかける子どもに説明する親のような、分かりきった事を改めて教える面倒臭さすら滲ませたエメラルドがそう言い、何か言い返そうとしたアミルが硬直した。ものすごく嫌な何かを見つけた、みたいな表情でエメラルドとクリアを交互に睨み、唸る。
「まさか、あんたらどっちかが」
 はっきりと内容を言わないその言葉に、けれどエメラルドが満足そうに笑う。
 どうやらそれは母にとって欲しい反応だったらしい。
 初対面の相手に対しエメラルドがこんな風に満足げな様子を見せることはあまりなくて、その多くが誰もエメラルドの思考についていけてないからこそだった事を思えば、目の前のその人はどうやらかなり頭が良い人のようだ。
「惜しい。両方とも、よ」
「…………はぁ!? 師弟揃って?」
「すごいでしょ〜」
 発言こそ自慢げな、でもからかうような表情をして胸を張ったエメラルドに、アミルが今度こそ言葉を失う。
 その間ずっと手を握られているのだけど、なんとなく振り払う気も起きなくて。サファイアはそのまま、とても久々に感じる自分より大きな手の感触を確認していた。
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