文字数 2,906文字

「お出かけするわよ! 準備なさい」
 帰ってくるなり唐突にそう宣言した母を見て、サファイアは首を傾げた。
 城仕えの家庭教師はつけずに全ての勉強は後宮で母が独自に雇った青年に見てもらっている彼女は、その日も彼に勉強を教わっている真っ最中であったが、そんなこと関係なく部屋に入ってくる母の行動には慣れているので今更何も思わない。教えている青年の方も王妃とは娘のサファイアより前からの付き合いだけあって呆れた顔をしているが苦言を零すことすらなかった。
 が、王妃の一人でありながらいつだって天衣無縫な言動をする母ことエメラルド=リリア=ソーラレイスも、こんな風に強引に娘に何かを突きつけることは案外少ない。
 だから突然の宣言に対し、彼女が真っ先に感じたのは不安だった。
「どうしたの? お母様」
「本当ですよ」
 不安を抑えなんとか尋ねたサファイアに同意するように、彼女の勉強係も引き受けている近衛のクリアも頷く。
 一国の王妃でありながら周囲に侍従や護衛を置くことを極端に嫌がるその人が、一時期伏せったのをきっかけに王の説得もあり仕方なく増やした唯一の近衛が彼だった。娘であるサファイアは彼が母の弟子であるらしいことを知っているけれど、エメラルドとクリア双方の希望で周囲にはエメラルド側の親族として通している。
 弟子だからこそ、表向きはともかくお互いしかいない場所では近衛らしくない振る舞いをする彼は、サファイアにとっては近衛というよりも年の離れた兄のような存在だった。
「いきなり言われたって困るんですけど」
「何言ってんの。サフならまだしも貴方が困ることなんてないでしょうに」
 呆れたように言い募ったクリアの言葉をあっさりと斬って捨てるエメラルド。
 母娘でよく似た外見を持っている中、唯一明らかに異なる緑の目をきらきらと輝かせて母はにっこりと微笑んだ。結い上げてはないけれど、それ自体が装飾品とでも言いたげに肩から腰へと美しく流れる金糸に年齢を感じさせない美貌と均整のとれた身体は、十七になる娘がいると思えないほどに若々しい。見慣れない人間が見れば数秒どころではなく見惚れてしまう程の外見を持つ母であるが、すっかり見慣れてしまっている弟子は見惚れるどころかじっとりした視線を向けている。
 母や自分とは少し異なる、茶色味の強い金の髪をしたクリアは、髪と同じ色をした目を眇めた。
「そうですけどね。そのサフの勉強を見てるのは僕なので。そういうことはもっと前もってですね」
「関係ないわよ。だって貴方も行くんだから」
「は?」
 動きを止めたクリアとは対照的に、母は二人が勉強を進めていた机まで歩き寄ってくると、黙って見守るサファイアの目の前でクリアの頭にぽんっと手を置いた。まるで子どもにするようにその金の髪をぐりぐりっと撫でる。
「というか、貴方ねぇ。私とサフが行くのに自分が行かない可能性があるなんて思ってるの?」
「……無かったですね」
 そう言って肩を落とすクリアは、立場こそエメラルドとサファイア双方の近衛であるけれど、実際にはやってきたその日からずっとサファイア専属の状態だった。何しろエメラルド=リリアという女性は、娘あるいは弟子の欲目など抜きで誰かに守られる程に弱さがない人だったのだ。クリアが来る前までずっと誰もそばに仕えていなかったのも、元を正せばエメラルド自身が自分よりも強いことを側仕えの条件に掲げ、『審査』と称して実際候補者を全員倒してしまっていたから。
 なおクリアといえば「エメラルドに勝てないまでも、負けない戦いができる」というよくわからない評価らしい。
 評価を下しているのは母自身で二人が勝負しているところはサファイアすら見たことがなかったが、クリアがやってきて以降『審査』は全部クリアが代理をし、全員に勝ち続けているのだから間違った評価ではないのだろう。
 ずっとサファイア専属になっているのは母の意向である。
「そうよ。だから貴方も準備なさいね。もう帰ってこないつもりで全部まとめなさい」
 いつにない母の強引な話の進め方に不安がさらに膨れ上がって、サファイアは持っていた筆も置いてしまった。
 もう勉強どころではない。
「お母様、私も、ですよね?」
「えぇ、そうなるわ。貴方には悪いと思っているけれど、この理由は必ず説明するから今は私のお願いをきいて貰えないかしら」
 弟子には強気に出ていたエメラルドも、娘の方を見る視線は弱い。
 わがままで誰の手にも負えないことで城内でも有名なエメラルドだったけれど、サファイアにとっては何時だって頼りになって優しく、必要なことは教えてくれるし無意味に強引な押し付けなんかしない最高の母親だった。己の子どもだからといって極端に甘やかすことも突き放すこともなく、何時もサファイアのことを考えてくれている。それを疑ったことは一度もない。
 だから突然であっても、いや突然だからこそ、この母がここまで強引に話を進めるのなら相応の事情があるのだろうとサファイアもわかる。まだ理由を言えない事情もあるのだろう。
 普通の家庭とは全く違う。
 何名もいる王妃の一人であるとはいえ、一国を統べる王族の一員だからこそ、普通ならあり得ないことも起こりうる。
(もう帰ってこない、って言った)
 生まれてから今日までずっと暮らしていた場所。
 王女であるからこそ将来的に何処かへ嫁ぐ可能性はもちろん理解していたし覚悟だって何となく出来ていたつもりでいるけれど、こんな風にある日突然に理由もわからず城を出る覚悟まではしていなかった。だから例えクリアが一緒だと言われたって不安は消えない。
「お母様は?」
「もちろん、私は一緒に行くわよ」
 即答されてほっとする。もう結婚だって可能な年齢なのだから親に依存するべきでないのはわかっているけれど、それでも一緒だと言われれば不安がかなり和らいだ。
「わかりました。すぐ準備してきます」
「いいの?」
 素直に頷いたサファイアにクリアが戸惑った様子で確認してくる。いつだって自分に甘い教育係は、ここでサファイアが本気で抵抗すればきっと協力してくれるのだろう。こんな状況ならもっとごねたり、理由がわかるまでは嫌だと拒否したり、そういうことをしても許されると自分自身もわかっている。
 でもそれ以上に母親が何の理由もなく自分に何かを強いたりしないのも、わかっていた。
 ここまでするとして、それは本当に危急のことなのだろうことも。
「お母様は、何時か説明してくれるんですよね?」
「約束するわ」
 エメラルド=リリアは約束を違えない。
 それは太陽が必ず昇るのと同じくらいに絶対の事だ。約束を違える人ならば、それはもうエメラルド=リリアではない。
 だから彼女は仕方ないなと諦めた。日常の終わりの気配に対する不安で、ちょっとだけため息が溢れてしまったけれど、このくらいは許して欲しいと思いつつ立ち上がる。
「少し、時間をください。出発はいつ頃ですか?」
「遅くとも今夜中。明日の夜明けまでには国を抜ける」
「わかりました」
 簡潔な母の返事に頷いて自室に向かう王女を、近衛の青年は物言いたげに、母は悲しげに見送った。
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