第2話:横浜国大進学と投資成功と北海道旅行

文字数 1,786文字

 4月から横浜駅近くの進学塾に通い始めた。塾が遅くなると、腹が減るので、近くの店で夕食を食べて帰るようになった。やがて1987年12月の進学塾の一斉テストで横浜国大経済学部の合格確立75%との判定。80%以上が安全圏なので、もう一息。そこで年末年始も継続して横浜国立大学経済学部の過去5年間の問題集を夜遅くまで解いていた。

 やがて1988年が明け、。2月中旬、横浜国立大学経済学部を受験。受験当日、両親がついて来て、おちついて、実力を出し切れと父に、言われ、受験会場に入っていった、出てくると晴れ晴れした表情でベストは尽くしたと語った。その2週間後、老親と妹の俊美と合格発表を見に行くと、妹が、兄ちゃんの受験番号があるよと一番先に見つけた。

 その時の孝一の顔は、今まで見たことのないような笑顔となった。その後、合格したとわかっるとお腹がすいて、横浜駅ビルのステーキ屋で、大きなステーキをお腹いっぱい食べ、孝一は、上機嫌。俊美も進学塾に入りたいと告げると、父が、了解と答えた。その後、孝一は、横浜国立大学経済学部に通い始めた。

 その後、株投資研究会というサークルに入会し、日本の株式市場の実践的な勉強を始めた。2,3年生の先輩は、バーチャル株投資で利益金額を競う大会に出場。一方、俊美は、進学塾で、遅くなるので、近くの素敵な喫茶店で数人の友人と共に夕食を食べた。そして、おしゃべりして、遅くなる日も増えた。

 そして1988年の4月の一斉テストで俊美の横浜国立大学の合格可能性が70%と判定され厳しいなと兄が言うと最低75%できれば80%欲しいねと言った。以前、使った横浜国大経済学部過去5年間の受験問題集を渡した。この頃、孝一は、翠嵐高校時代からの友人、横浜国立大学機械科の殿村啓介、建築学部の南健一郎、電気科の鮫島重利と5月、丹沢登山へ。

 夏休みに泊まり込みで上高地から唐沢カールを抜けて穂高縦走した。その後も食事したり、秋葉原へ行って豪華なオーディオセットで音楽を聞いた。パソコンNEC9801VMを触り興味を持った。やがて1989年を迎え3月には、CD-ROMを使って、良い多くのデータを利用できるFM-TOWNSが、新発売された。

 以前のパソコンの記憶媒体の2HDフロッピーが1.2メガバイトだったのが、一挙に640メガバイトと500倍以上になった。それにより多くのデータを取り扱いできた。この進歩は、画期的で、大量のデーターを瞬時に利用できるようになり、パソコンが、飛躍的に世の中で使われ始めるきっかけになった。

 7月初旬、村井孝一は、自動車学校に入り運転免許をとった。1989年8月4日、孝一は、殿村啓介、南健一郎と鮫島重利の3人で横浜駅近くの喫茶店で地図を見ながら北海道の旭岳を登ろうと計画をたてた。まず、千歳空港に8月6日に飛んで、札幌市街地を観光。1泊して、翌日の早朝、特急で旭川に向かった。

 そこからバスで旭岳ロープウェイを使い、登山して夕方下山し、旭川に1泊。翌日、レンタカーを借り、美瑛、富良野を観光。午後、千歳空港から羽田空港へ、夕方には横浜に到着と考えた。具体的に計画書を作成して殿村の家のパソコンとプリンターで旅行の計画書を3部プリントアウトして親に手渡した。

 8月6日、6時半に横浜駅の高速バスターミナルに集合し、バスに乗り7時過ぎに羽田空港に着き、9時発の飛行機で10時35分、千歳空港に到着、11時半に札幌駅に到着、宿に荷物を置いて昼食を食べに行った。その後、大通公園を散策。その後、地下鉄で北海道大学のキャンパスに入り、広い構内を散策してきた。

 歩き疲れたので、キャンパス内の喫茶店に入り、お茶して、店を出ると16時過ぎ、また、地下鉄でホテルの近くで降り、部屋で、少し休むと、寝てしまい、19時、すすき野へ出て、ラーメン横丁の店に入って、札幌ラーメンを食べた。その後、っす期のの繁華街を散策して21時誓にホテルに戻り床に着いた。

 翌朝、6時に起きホテルをチェックアウトして、札幌6時35分発、特急で旭川に8時に到着。駅前、8時半発の旭岳行きのバスに乗り込んで9時40分到着。そこから10分で5合目、標高1600mのロープウェイ頂上駅となる。五合目からの日帰りも多いが、山頂まで行く登山者も一番多い季節。夏とはいえ、麓との気温差が大きい。
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