第22話:終戦直後の電気自動車「たま」の話

文字数 1,536文字

 この話を調べていた村井次郎は、電気自動車を作った「たま」を作った、横須賀の日産自動車に電話すると、以前、電気自動車の開発に携わり最近退職した元日産の技術者、木村さんが横浜に住んでると教えてくれた。2008年4月12日、木村さんとの面談の約束を取り付けた。場所は、ホテルニューグランドの海の見えるレストランで18時、開催とした。

 村井次郎と孝一、下地君と清水さんと山下さん、佐藤さんの村井産業が6人が、木村さんを招待し、電気自動車のお話を聞く会として開催。もちろん村井産業が、食費、交通費、講演料3万円を支払った。開口一番、村井次郎が挨拶し、自然エネルギーの大切さを訴えた。その後、電気自動車の開発に携わった木村さんに、今までの歴史やエピソードをお願いしますと言った。

 すると、木村さんが、入社した1960年代、立川飛行機の作った東京電気自動車の加藤公彦さんから聞いた話から始めると言った。この東京電気自動車の技術力が、その当時、日本の自動車会社の中で群を抜いていた。東京電気自動車とは、あの名車、スカイライン2000GTとフェアレディZを作ったプリンス自動社の前身ですというと、みな、驚いた。

 1947年「昭和22年」当時、第二次世界大戦終結後、進駐軍に占領された日本には物資や食料だけではなく石油の輸入も滞って経済そのものが沈滞していた。そんな状況で唯一供給過剰となっていたのが電気。その理由は、大口の需要者であった大規模工場のほとんどが破壊された。一方で、発電所「当時は水力発電所が主流」は山間部にあり戦災を免れていた。

 また家電製品も普及しておらず、電機の需要は、少なかった。そのため水力発電による電力は余剰ぎみ。そこで、復興のために立ち上がったのが、航空機製造会社にいたエンジニアたちだった。その中のひとつ、元立川飛行機のエンジニアが中心となって1947年「昭和22」に設立されたのが東京電気自動車「のちのプリンス自動車」。

 エンジニアたちは終戦直後から、当時、だぶついていた電気に注目し、ガソリンではなく電気で走る自動車の研究を開始。新会社設立の直前に発表された電気自動車は、会社所在地の多摩にちなんで「たま」と名付けられた。当時は、他社からも多くの電気自動車が発売されていたが、その中でも「たま」の性能は群を抜いていた。

 1回の充電当たりの航続距離は、約100キロ、最高速度35キロ。当時はその性能が評判となりタクシー等にも大量に採用された。ところが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって、鉛の価格が暴騰し、バッテリー価格も高騰。一方、ガソリンの供給が安定したのに伴い、ガソリンエンジン車の需要が急激に高まった。

 これらを背景として、たま電気自動車は電気自動車の生産を終了。車名を「たま自動車」と改めた。このため国も電気自動車の製造を奨励した結果、市場には新興メーカーの電気自動車が多数存在した。この中で、「たま」は政府主催の第1 回性能試験でカタログ値を上回る航続距離、でトップ成績で注目された。「たま」はその後も改良を続けた。

 1949年に発表した「たまセニア号」では、1回の充電で200キロの航続距離と最高速55キロを実現するまでに、進化した。さらに1952年には、社名を「プリンス自動車工業」に変更。ちなみに、プリンス自動車は、日本の名車、スカイラインとフェアレディを生み出した会社である。

 こ話のを聞いて、そうか、スライラインGTR、フェアレディZかと、村井次郎がうなった。その後、話が、盛り上がり、スカイラインGTRが、レースカーとして、R380になり、日本グランプリで1,2,3位を独占したんですよねと、聞くと、その通りですと誇らしげに答えた。
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