第21話:自然エネルギー教育と、戦後まもなく電気自動車があったの?!

文字数 1,441文字

 この頃、村井次郎の息子の孝一は、自然エネルギー教室を開催。子供たちに地球環境の大切さを知らせる自然教室の先生として教えた。他の講師は、風力発電が、清水さん。自然エネルギー蓄電して使う方法を山下さん。太陽光発電は、佐藤さん。太陽光発電の補助金と収益性は下地さんが担当。東京、横浜のカルチャースクールで講師として参加し始めた。

 地域は、横浜、三浦、横須賀、川崎市、神奈川県内、東京都内のカルチャースクールで、そのおかげで、マンションの屋上での太陽光発電、風力発電を使って売電したいという人が増えた。その後、太陽光設備の設置、販売、メンテナンスの仕事が入った。しかし先行投資回収型の商売なので、地球温暖化防止の気持ちがないと収益性だけでは、メリットが少ない。

 2007年から2008年は、地球温暖化防止のの講師として呼ばれる人も出てきた。そして2009年、風力発電の会社の清水さん以外、全員、定年を迎えて村井産業の社員となった。こんな時、村井次郎が、電気自動車の歴史を勉強している時、世界初の電気自動車が、日本で、つくられたという資料を見つけだした。その名前は、「たま『E4S-47- I』」。

 「『たま』は、戦前の立川飛行機から派生した『東京電気自動車』が開発した電気自動車」
 「東京電気自動車」は、中島飛行機から派生した「富士精密工業」と合併し「プリンス自動車工業」となり、さらに1966年に「日産自動車」と合併。「たま」が登場した1947年の日本は、終戦直後で物資や食糧だけでなく、深刻な石油不足に見舞われていた。

 一方で、家電製品は、まだ、ほとんどなく、また工場も破壊され、大口電力需要者もいなかったため電力供給は余剰気味だった。この様な状況下で、政府も電気自動車の生産を奨励し、未経験の領域ながら「日本を戦災から一日も早く復興させたい」という情熱で、同社の技術者たちは持ち前の技術を新時代の移動や物流を担う「自動車」の開発にした。

 早くも1947年には乗用車タイプのE4S-47型とトラックタイプのEOT-47を発売。「たま」のブランド名、多摩地区で使ったため名付けられた。「たま電気自動車」は、グループ会社の「高速機関工業」の「オオタ」ブランド車のフレームを改造して中央下部にバッテリースペースを設け、動力源のモーターをミッドシップマウントにレイアウトされていた。

 パッケージの強度と重心の計算から出発している点が、いかにも航空技術者らしい。モーターは、日立との共同開発であった。調速機で高速になるとフィールドコイルが直列から並列になり、速度が上げられる構造になっていた。バッテリーも湯浅蓄電池との共同開発で硫酸液をしみこませたグラスマットを極板の間に挟む、小型で大容量のものが搭載された。

 車両のスタイリングにも流線型で後ろヒンジ・前開きのエンジンフード、主翼に取り付けたエンジンフードのような形状のフェンダー埋め込みヘッドランプ。固定脚のタイヤカバーを連想させるフロントフェンダーなどに、やはり航空技術者ならでは設計と言える。

 先端技術を搭載した「たま」は、1948年「昭和23年」、商工省主催の第1回電気自動車性能試験でカタログ性能を上回る航続距離96キロ、最高速度35キロ。戦後間もない時期、当時トップクラスの性能を記録し注目を集めた。翌年1949年「昭和24年」に「中型の『たま・セニア』、EMS-49I型」を追加。1951「昭和26」年頃までタクシーで活躍した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み