第2話:丹下聡二、7-11公開株取得

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 そこで、丹下哲彦が、自分の分と丹下聡二の分として、2口ずつ、手に入れるように、依頼した。1979年、セブンイレブンの公募価格は1300円と決まり、新規公募株の価格が高いので、手に入りやすいと聞かされ、父の丹下哲彦と丹下聡二の2人で2千株260万円ずつ、合計4千株、520万円で購入した。もちろん丹下聡二は、株の資金は、父に借りた。

 丹下聡二は、小さいころから父の仕事を見ていて、農機具、電気のこぎり、トラクターなどメカが好きで、自分もスーパーカブで、野山を駆け回っていた。中学時代からの友人、友部輝一、川松修二、生島次郎に小さいころから勉強を教えてもらっていた。この勝沼は、晴天率が高く、日照時間が長いので、この地区でも最初に母屋と離れに太陽熱温水器を取り付けて使っていた。

 そんな、ある日、友部輝一が、丹下の家に来て、太陽熱温水器を見て、実に合理的な生活で素晴らしいとほめた。1979年11月、証券会社の担当者から松下電器が買いだと連絡が入り、父が聡二に、お前も買うかと聞くので買いたいと言うと450円で父が5千株225万円、聡二が2千株90万円で買った。そして1979年、12月、やがて1980年となった。

 冬は、農家も暇なので、農家の小作人たちと、近くの石和温泉に、泊まり込みで出かけ、温泉で疲れをほぐした。丹下一家は、その他に、家族だけで、甲府の湯村温泉に行って、豪華な食事と温泉を楽しんで、帰ってきた。酒を飲んだ、父が、息子の丹下聡一と聡二に、何か浮いた話はないのかと聞くと、聡一が笑いながら、俺女にもてねえからと言い、頭をかいた。

 丹下聡二は、俺は、車と株投資が面白いから女の尻を追いかけてる暇はないと語った。それを聞いて変な女に引っかかるくらいなら自分の好きなことをやって、生活を楽しんだ方が良いと笑顔で言った。実は、勝沼でも2代目になって都会で知り合った美人の奥さんを連れてきて結婚した近所のブドウ農園の若主人がいた。その奥さんが派手な会社を亭主に買わせた。

 更に、ブランドのバッグ、洋服を何着もそろえて一生懸命稼いだ金が、彼女の持ち物になると、もっぱらの噂が立った。そのためか母は、変な恩安易引っかかるんじゃないよと言うようになった。その点で、今の所、女っけなしの方が、よっぽど安心だという訳だった。丹下家の男たちは、お酒が弱くて、日本酒のお燗も1合、飲めば、真っ赤になって、すぐ眠くなるのだった。

 その当時、太陽電池と言えば電卓用のバッテリーとして普及し始めた。国内メーカーで最初に太陽電池搭載電卓を発売したのはシャープで、1976年の頃。シャープが太陽電池の開発に着手したのは古いが、単結晶シリコン型で、高価で商業的には成功しなかった。一方、三洋電機では、単結晶ではなくアモルファス型の研究を進めた。

その後、1980年に世界で最初のアモルファスシリコン太陽電池搭載の電卓「CX-1」を製品化、実用化の波に載せた。当時の日本は第二次オイルショックに見舞われ、省エネが本格的に政策として実施された時代である。コスト的にも電池式電卓と対抗できる価格となり、これ以降電卓の普及とともに太陽電池は、世の中に広く認知されていく。

 このアモルファス太陽電池を開発した桑野幸徳氏がのちに三洋電機の社長に就任し、以降三洋電機をエネルギー開発企業として引っ張っていくことになる。友部は、甲府南高校をトップの成績で1980年3月、卒業して東京大学理工学部電気科に合格。その他、川松修二と生島次郎は、甲府西高校を卒業し、山梨大学理工学部電気科を卒業。

 東京で、下宿生活をしたが、毎週、地元へ帰った。1981年になると丹下聡二は、日曜、秋葉原へ早朝、出かけるのを楽しみにした。1982年10月、NEC9801と言う本格的なパソコンが発売された。

 そのマイコンで使われるコンピューター言語「BASIC」で、ゲームソフトを自分で作れるのに興味を持った。当時は、いろんな雑誌に、そのプログラマが載っていて、それを打ち込むだけで、簡単なゲームを作ることができた。
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