第10話:土地バブルが白熱

文字数 1,786文字

 しかし、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強かった。1989年に所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられた。富裕層を中心に手取り所得の急増による資金供給があるとともに、インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴い土地や株式への投資を活発化させた。

それ以外に1986年初めに原油価格が急落した。これで1987年5月の緊急経済対策と、ほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされてる。経済学者のTNは「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している。1985年5月に国土庁は「首都改造計画」を公表した。

「東京のオフィスは2000年までに合計5000ヘクタール、超高層ビルで250棟分必要となる」と指摘。「当時のオフィス供給量は年間130ヘクタール」
。国土庁のレポートの意図は「地価高騰の抑止」であったが、その意図とは逆に不動産会社・ゼネコンは「オフィス供給は国策となった都心の用地を確保せよ」と一斉に飛びつき、やがて「地上げ屋」を生んだ]。このレポートはバブル一因となった。

1986年頃から日経平均株価は急上昇し始め、1989年12月29日の大納会ザラ場で38957円の最高値を記録、株価上昇は1985年9月の12598円と比較すると約3倍となり、上昇率で約200%の上昇。バブル期の日本株のあPERは、80倍以上。バブルが弾ける直前の日本株のPERは、100から200倍。株価に遅れて地価も1985年と比較し、1990年には約400%の上昇。

1986から1990年までの5年間で、日本国内の非金融法人企業は年平均142兆円のペース、家計は年平均、25兆円のペースで金融負債を増やした。バブル絶頂期の1990年の非金融法人企業の純負債は636兆円であった。1986から1989年に発生したキャピタル・ゲインは、資産価格の上昇により1452兆円。1989年に家計が得た土地・株式のキャピタル・ゲインは260兆円。

バブル景気では、中小企業の売上経常利益率は大企業を上回た。経済学者は「バブル景気で日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で安い輸入品が多く日本に入ってきたからである」と指摘。絶頂期の1989年頃には投資が活発となり、「平成景気」「ヒミコ景気」「高原景気」と呼ばれるこれまで類を見ない空前の超好景気。しかし、実体経済の成長では到底説明できないほどの資産価格上昇を伴うバブル経済で、やがて縮小となった。

株や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタル・ゲインを当てにし過大な投資をした企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。当時の日本は資産価格上昇により土地や株式などの収益率が著しく低下しため金融緩和の終了で持続可能性を喪失。

 その後1989年12月、友部から電話が入りソニー株を4300円で売り税引き後利益360万円を稼いだと連絡が入り、株の最初の利益だと喜んでいた。これで資産が1200万円を超えたと喜んでいた。何か、買える株はないかと、丹下が、もう既に上げ始めているので、ここから買うのはリスクが大きいと伝えると、確かにチャートで見ると、上げてるもなーと同意した。しばらくして1990年となった。

 1990年3月に大蔵省銀行局長土田正顕から通達された土地関連融資の抑制について「総量規制」と、日本銀行総裁三重野康による金融引き締めは急激なものとなり、信用収縮が一気に起きた。信用崩壊のさなかでも金融引き締めは続けられ、日本の経済を急降下していった。1989年5月から15ケ月の間に5回の利上げが実施され、公定歩合は、2.5%から6%台まで急上昇。

 マネーサプライの増加率は、1990年には約12%、1991年には3.6%、1992年には0.6%となった。政府は、日銀の公定歩合の急激な引き上げに続き、不動産の総量規制、地価税の創設、固定資産税の課税強化、土地取引きの届け出制、特別土地保有税の見直し、譲渡所得の課税強化、土地取得金利分の損益通算繰り入れを認めないなどの対策を打ち出した。
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