第1話:丹下聡二の誕生と免許取得

文字数 1,792文字

 勝沼で、昔からブドウ農家を営んでいる丹下聡一は、1959年4月12日生まれ。大きなブドウ農園と桃農園を持つ家柄で、地元の農業高校出身。子供達には教育とつけさせねばと考えていた。丹下聡一は、映画でも音楽、珈琲、紅茶でも凝り性であり、元祖オタク系だった。女っ気もなく映画館に入り浸っていた。

 その後、1975年、地元中学を卒業後、近くの農業高校へ入り、丹下農園の跡取り息子と呼ばれていた。一方、丹下聡二は、機械いじりが好きで、ステレオ・アンプ、ラジオ、バイク、自転車、を分解したり、ヒューズを取り替えたりしていた。1977年5月になると原付の免許を取り、父に、ホンダ・スーパーカブを買ってもらった。

 そして土曜の早朝、同級生の仲間3人と一緒にバイクで2時間かけて小田原、箱根へ行ったりして夜遅く帰ってくることも多かった。しかし高校に入ると勉強が忙しくなり、丹下1人で出かけた。そのバイク仲間は、同級生の友部輝一、川松修二、生島次郎で、小学校時代からの幼なじみだった。そして1977年、丹下聡二は、山梨県立甲府工業高校機械科に入学。

 友部輝一は、甲府南高校、川松修二、生島次郎は、甲府西高校に進学した。友部輝一は、中学でも、ずば抜けた成績で、将来、東大に入るだろうとうわさされていた。川松修二、生島次郎は、中学時代クラス・ベストテン5で、よく勉強していた。高校に入ると、丹下、以外は、大学進学のため予備校に通い始めた。

 友部輝一、川松修二、生島次郎、丹下聡二は、年に1,2度、忘年会か、クリスマス会を開き会う程度になった。父は、多くの小作人を食事つきだが安い給料で雇っていた。そのため自分は、大事な時だけ顔を出し、息子の聡一に農作業を指示していた。空いている時間は、ラジオ短波で株の情報を聞いては証券会社に電話して売買していた。

 一方、丹下聡二は、甲府工業高校を卒業し、学校の仲間と車も見に行くのが好きだった。その中でも、フェアレディZ,セリカXX、RX-7,スカイラインGT、そこで、1979年、4月には、人目のつかない所で川松修二の兄さんの修一さんに、彼の車、カローラ・レビンで練習させて欲しいと依頼した。

 そこで、日曜の朝、陽が上がってから、1日、1人5百円で教えてもらうことにした。丹下の家に7時前に、迎えに来て、すぐに、川松修一さんの車に乗って、40分かけて、人通りのほとんどない、峠の南側の平原で運転の練習をした、最初、クラッチ操作がうまくできず、すぐにエンストしたが、30分足らずでコツをつかむとクラッチ操作を思えた。

 その他、左折、右折、歩行者の確認動作、バックミラーの位置、座席の位置、エアコンの使い方など教えてもらった。毎週日曜の早朝、練習し、1979年5月8日、火曜日、川松修二と丹下聡二が、学校を休み、運転免許試験場へ行き、直接、実地試験を受けて合格し、ペーパーテストも合格して、その日のうちに、普通免許を取得した。

 その後、講習料と500円と合格のお礼500円の1000円を川松修二のお兄さん、修一さんに渡すと、気を付けて運転しろよと言い、受け取った。それから、丹下聡二は、父のブルバードSSSで、川松修一と6月に、富士五湖から富士周遊道路をドライブに行った。真夏になると韮崎から清里、野辺山、八千穂からメルヘン街道を走った。

 そして、涼しい所で休んで、帰った。その後、休みの日は、ブドウ園、桃農園の仕事を手伝い、アルバイト代をしっかりため始めた。父が、長男の聡一と次男の聡二、株投資に興味があるかと聞くと、聡一は、ないと言い、聡二は、儲かるならやりたいと言った。聡一の趣味は、映画で、土日は1人で甲府の映画館に行き1日中映画を見て家に帰った。

 その後、映画の主題歌、洋楽を部屋で歌った。その音楽を聞きたいと思い小遣いを貯め、オーディオを買って自分の部屋で好きに時間楽しんだ。その他、珈琲、紅茶も凝った。丹下家は、証券会社にとって、古くからのお得意様のなので注目する企業が上場する際は、優先的に新規公開株を分け与えてく入れた。

 そのため甲府のN証券に行くと、好待遇で、お茶、珈琲、紅茶、茶菓子を出してくれるのだった。その後、1979年5月14日昼過ぎ、丹下聡二は、父、丹下哲彦にN証券甲府支店で証券口座を開設した。その後、セブンイレブン株が新規公開すると聞いた。
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