第14話:丹下聡二と絹ちゃんの沖縄旅行

文字数 1,850文字

 1996年は、薬物エイズ問題の判決が出た。薬物エイズ問題とは、1989年5月に大阪で、10月に、東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して、損害賠償を求める民事訴訟が提訴された。その後原告団は早期解決を求め、和解勧告の上申書を地方裁判所に、提出。

 1995年10月、東京地方裁判所・大阪地方裁判所は原告一人あたり4,500万円の一時金支給を柱とする第一次和解案を提示した。しかし、厚生省は救済責任は認める一方、加害責任は否定した。1996年2月9日、厚生大臣菅直人は自身が独自に名付けた通称「郡司ファイル」が1月26日に自分が探して発見されたことを発表。

 2月16日に原告団に謝罪。3月7日、東京・大阪両地裁は発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し、5社が3月14日、日本国政府も翌15日に和解受け入れを発表。原告側も3月20日に受け入れを3月29日に両地裁で和解が成立。この時、製造販売で提訴された製薬会社は、ミドリ十字と化学及血清療法研究所。

 輸入販売で提訴された製薬会社は、バクスタージャパンと日本臓器製薬、カッタージャパンを合併承継したバイエル薬品。また、カッタージャパンの該当非加熱製剤を発売元として大塚製薬と同じくバクスター製の同種製品の輸入発売元として住友化学の2社も非加熱製剤を発売していた時期があり無関係ではなかったが両社とも提訴されなかった。

 1996年4月以降、丹下ブドウ園も忙しくなり、暑い夏が過ぎ9月を迎えると、ブドウの収穫期で、まさに猫の手も借りたいほどの忙しさになる、そのためアルバイト募集をする年もある位だ。それが終わると一段落し、来年のぶどうづくりの為の作業の開始。地味だが、この冬場にどれだけ手を入れてやれるかが、来年のぶどうの味を左右する。

 しかし、やり方を知っている者は、交代して休みが取る。そこで、今年の1996年11月下旬から3泊4日の日程で、丹下聡二は、絹ちゃんと一緒に沖縄旅行へ出かけることにした。丹下農園では、沖縄の旧友に会いに行くという名目で、女連れでの旅行とは、決して言わないし、気づかれてもいないようだ。

 11月22日、早朝、家を出て、11月25日に帰ってくる予定表を丹下農園に提出し、出かけた。11月25日、5時半に勝沼駅に絹ちゃんと待ち合わせた。しかし、待合所では、素知らぬ顔して、来た列車に乗り込み、途中で特急に乗り換え東京からモノレールで8時過ぎに羽田空港へ行き、9時過ぎの飛行機で那覇へ向かった。

 そして、那覇空港12時前に到着。昼食を食べてタクシーで県庁近くのホテルに13時にチェックイン。一休みして首里城、見学に出かけた。紅色の素晴らしい姿を見て感激。その他、守礼門を始め、多くの門があった。城の高台からは、那覇の町の全景が見え、北の城壁に行くと、うるま、名護の方まで見渡せた。

 夕方は、市内の老舗ステーキハウスに入り、丹下聡二は、大きなステーキ、絹ちゃんは、小さめの和牛ステーキを食べた。翌日は、レンタカーを借りて、沖縄平和祈念公園、ひめゆりの塔、夕方、泊港へ行った。第二次大戦の犠牲になった人の情報を見ると涙を流した。その後、気を取り直し、糸満の素敵なホテルで昼食をゆっくり食べた。

 そこから北上して城壁だけしか残っていない、中城城跡を見学して高台の城壁からの那覇の町や海の景色を多くの写真に収めた。最後に泊港へ行き、離島から那覇に行き来する多くのフェリーが見られた。その中には、若い男女の出会いと別れ、涙で抱き着く、映画のシーンの様な素敵な場面も見られた。

 ホテルの最上階から東シナ海を夕日が沈む素敵な景色を見た。その後、おいしいディナーを丹下と絹ちゃんの2人だけで、十分に堪能した。そしてホテルに帰ると、フロントの若い人が、お客さん2人なら、今晩、ケントスと言う、ポップなアメリカンショーの店に行くと良いよと、パンフレットをもらった。21時にショウガ開始なので一休みし、20時半にタクシーをお願した。21時に、ケントスに着くと、つまみと泡盛サワーのセットが出た。

 その後、キュートな女の子がボーカルで男子のギター2人、ドラムの3人構成のバンドがプラターズの煙が目に染みるから始まり、懐かしのオールデイズ、メドレーを1時間続けた。その後、男女ボーカル、男子のギター2人、ドラムの4人構成のバンドに交代して、朝日の当たる家、ビートルズ、監獄ロックなどを歌い続けると、多くの客が、フロアーで踊りだした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み