第3話:友人たちの将来の希望と風雲児・横井英樹

文字数 1,746文字

 そして、1981年5月20日、富士通・マイクロ8が新発売された。このパーソナル・コンピューターは、モトローラ社のCPU・MC6809をメインCPUとグラフィックを独立制御するディスプレイサブシステムへそれぞれMBL6809を2個搭載する2CPUのアーキテクチャを採用。サブプロセッサが、グラフィックス処理など大きな処理を肩代した。

 これによりメインCPUの処理を軽減し、全体としてのパフォーマンス向上を目指した。富士通の発表によれば世界で初めてパソコンに当時の大型機並みの64KビットDRAMを採用し、640×200ドット8色の表示機能、アナログ入力やRS-232Cの標準装備など、当時としては、画期的な機能を搭載し、218000円という戦略的価格で発売した。

 この機械を見て、丹下聡二は、喉から手が出るほど、欲しくなったが、父に株で借金しているの、買うわけにはいかず、株のもうけが出れば、パーソナル・コンピューターを買おうと真剣に、考え始めた。その後、お腹がすくと、11時過ぎに、「肉の万世」のビーフ・ステーキを食べるのが楽しみだった。ランチだと、割安で、ご飯を大盛にして、おなかを満たした。

 そして、いつものオーディオ・ショップへ行き、視聴室に入って好きなモールモーリア、ヘンリーマンシーニの映画のテーマ曲を素晴らしい、アンプとスピーカーでじっくり聞いた。気に入ったレコードLPがあれば、たまに購入した。そして、15時には秋葉原を出て17時過ぎには、実家に帰った。翌日から、また、農園の仕事が待っている。その繰り返しの生活。

 そして、暑い夏が過ぎて、秋風、木枯らしが吹き、12月を迎え、大学の授業を終え、地元に帰ってきた。友部輝一、川松修二、生島次郎に電話して、忘年会を開いた。忘年会では、大学での出来事、流行の話、恋愛の話、将来の夢などを語った。友部は、電気が人間生活を豊かにするには、どうしたらよいかと言うテーマで勉強していると語った。

 川松は、便利で庶民でも買える電化製品を開発する仕事をしたいと話した。生島次郎は、電気を通じで社会にとって役立つ製品を開発したり、日本人の生活を少しでも便利で豊かにできるように電気、機械を作るにはどうしたらよいか、勉強していると言った。意外だったのは、若い男性のわりに、女の子の話題が一つ持て来ない事だった。

 彼女がいるという話もなく、持論を語り、食事し、酒を飲んで盛り上がり、忘年会が終了した。やがて1982年を迎えた。2月8日に東京都千代田区永田町、国会の近くのホテルニュージャパンで火災発生し33人死亡。彼は、行きすぎた合理化を画策。徹底的な迄に改修費用を節減し、スプリンクラー設備等の消火設備を整備せず、内装も耐火素材にしてなかった。

 こうした数々の違法運営により横井英樹は、1987年、東京地裁で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受け1993年に最高裁で確定。1994年から八王子医療刑務所で服役したが1996年に仮釈放となり1997年には刑期を終了。なお、ホテル火災があった1982年、中村鋭一参議院議員は国会にて横井が10年間税金の申告をしていない事を取り上げた。

 横井ファミリー全体で一千億円を超えるという財産形成をしていると発言。一方、横井は焼けたホテルを放置し、敷地を担保に巨額の融資を引き出した。最大の債権者だった千代田生命がバブル崩壊後の1995年に自己競落し、火災から14年後の1996年に解体した。その後千代田生命が破綻してプルデンシャル生命が買収、跡地にはプルデンシャルタワーが竣工した。

 1998年11月30日、日課であった自分の所有するダイエー碑文谷店と池上のボウリング場を巡回していたが、急に気分が悪くなり、そのまま昏睡状態に陥り病院に運ばれた。その日の午前11時42分に虚血性心疾患「85歳」で死去。火葬された遺骨からは襲撃事件で撃ち込まれた弾丸が発見された。

 白木屋乗っ取り事件、富士屋ホテル事件、ホテルニュージャパン火災事件、1991年、秘密裡にニューヨークのエンパイアステートビルを買収。愛人の娘、中原キイ子にプレゼントすると横井が言った言わないで裁判おこすなど、いろんな意味での風雲児であった。
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