第24話 K先生

文字数 1,964文字

 当時、大検の受検科目は十三教科だった。定時制に約一年通っていた私は、その間に単位習得した三教科が受検を免除され、残りの十教科を受けることになる。
 試験は毎年夏に実施され、その年は七月末日からの四日間が試験期間だった。予備校の講義は四月の半ばから始まり、実質あと三ヵ月半後、本番の試験となる。

 予備校で、私は勉強するしかなかったのだが、毎日通う教室で誰とも喋らず、ひとり黙々と机に向かうことはできなかった。そばに座る人に話し掛けたり、話し掛けられたりするうちに、四、五人の人達と仲良くなり、一緒に講義を受けるようになる。
 この「大検コース」は、高校を一、二年で中退した人がほとんどだったが、中学を卒業して最初から高校に行かず、ここに「入学」した人もいた。親の事情で海外の高校に行っていたが、帰国することになり、大検を受けて日本の大学に行こうとする「帰国子女」の人もいた。

「こんなの、中学の時にやったよね」隣りに座る人が、テキストを見ながら言う。大検の試験は簡単だとする人が多いようだった。私は、うまれて初めて教科書を開く科目もあり、簡単なのか難しいのかも分からなかった。
 それでも模擬試験を受けると、40点前後の点数がとれた。定時制の時も、先生の言うことをよく聞いて勉強をすると、平均点以上を取れていた。テストを、不思議なものだと思った。
 仲良くなった人につきあって、「数学I」に出席した。数Iは、定時制で既に単位を取っていたので、私には関係のない科目だった。

 だが、その数Iを受け持っていたのが、K先生だった。講義に入る前に、K先生はマイクのスイッチを切り、
「君たちが高校を辞めたりしたのは、全然悪いことではないんだから、コンプレックスなんか持たないように」
「学校に行かないことを選んだんだから、それだけ自分の好きなことができるということ。予備校に来るも来ないも、君たちの自由」
「他の人の迷惑にならなければ、ここで他の科目の勉強をしてもいい」
 と、そんなことを言っていた。いい先生だなあ、と思った。他の講師達に、こんなことを言う人はいなかった。

「『脱学校の会』というのを世田谷でやっているから、興味のある人は手伝いに来て下さい」とも言っていたので、とても興味をもったが、勉強最優先の私は、興味をそのまま置いておく。
 ただ、このK先生という人への好意と興味が強く残り、関係のない数Iにも関わらず、毎回出席し、後ろの方で英語の勉強などをしていた。
 時々、数学に関係のない話をするので、それを聞くのも楽しかった。
 五階の教室で授業をしていた時、黒板横の非常階段の扉が開いていた。するとK先生は下界の景色をジッと眺め、「なんか高い所にいると、吸い込まれそうになるね」と言い、「この中に自殺したい人、いる?」と、われわれ生徒に訊いてきた。そして、「いたら、教えてね。…見ててあげるから」と言った。生徒達の中から、失笑が漏れた。

「木の上に住む虱(しらみ)って、その下を人間が通過する、その一瞬に落下して、人間に取り付くんだってね。虱にとっての空間認識は、上から下への直線だけなんです」
 そんな話をする時、私は勉強の手を止めて、わくわくしながら聞き入った。(これが「一次元」という数学の話だったことは、あとから知った)
 私は、勉強の空間に一直線というわけではなかった。仲良くなった人達と、予備校近くのファミリーレストランで一、二時間、冗談話をして笑い合い、たまに息抜きをした。
 しかし、そうして「遊んでいる」間も、自分は本当は勉強をしなければいけないんだ、との意識が頭の隅に残っている。だから皆とわいわいやった後は、その遅れを取り戻すべく、勉強に余計に集中することができた。

 だが、化学の設問にとりかかった時、自分が分数の計算が全くできないことが分かった。モルの計算だったと思う。化学の先生に質問するレベルの問題ではない。講師室で休憩中のK先生を訪ねた。
「きみ、どうして分数ができないの?」不思議そうに聞かれた。
「小学校、行ってないんです」正直に答えると、
「へえー、えらいねえ」K先生は、真っ直ぐ私を見て、ほめたのだった。
「勇気が要ることだよなあ、みんなが行ってる学校に行かないなんて」

「定時制に行っていたんですけど、荒れていて…。こんな所にしか入れないんだ、って劣等感を持っている人が多かったみたいです。いっぱい殴られました」笑って言うと、
「定時制って、そうかあ、そんなひどいのか。オレだったら行かないなあ。君子危うきに近寄らず、だから」と笑って言われ、「遠山啓の『数学入門』(岩波新書)を読むといい」と教えてくれた。分数の基本も紙に書いて丁寧に教えてくれたが、ほめられたことが嬉しくて、分数ができないことなど小さなことに思えてしまった。
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