第1話 春

文字数 2,263文字

 親から見れば、突然、この子が学校に行かなくなった、と映ったことでしょうが、私にとっては、ごく自然なことでした。
 どうしようもなく、身体が学校に向かなくなった、としか言いようがありません。「行かなくちゃ」と、頭は、いっぱい、そう思っていても、身体は、それ以上に強く、学校を拒んでいました。
 私が学校に行っている間は、どこにでもある、ごく普通の、ありふれた、中流の家庭だったと思います。しかし、実際に登校しなくなると、家は簡単に、まるで不幸のどん底に落ちていくようでした。

「お腹が痛い、頭が痛い」などと言って、学校を休めるのは、二日が限度でした。翌日も、登校時間になってグズグズしていると、どうしたのかな、といった様子で、父と母が近寄って来ます。
「ぼくだって、会社に行きたくない日はあるよ。休みたいな、って思うけど、しょうがないんだな」
 父が笑いながら、言いました。横に座る、今にも泣きそうな、困り顔の母を元気づける意味も、あったろうと思います。

 父は大正生まれで、戦争も経験していました。昔の学校での、教師の体罰、軍隊での理不尽な暴力などを話し、
「今日一日ぐらいはいいけど、明日からは、まあ、しっかり頼むぜ。お母さんも、あんまり身体が強いほうではないんだから」
 そう言って、会社へ出て行きます。
 父の言うことを、正座してかしこまって聞きながら、ああ、今日も学校に行かないで済むな、と、私は内心でホッとします。
 父が出勤し、十五歳上の兄が大学へ行くと(私の生まれる前に、十七の若さで長兄が心臓病で亡くなっていて、私はその生まれ代わりのように生まれました)、家の中は母と祖母、私だけになって、二階にある自室で、ぬくぬく布団に潜って、マンガなどを読んでいました。ひとりトランプをしたり、兄が新聞から切り抜いて作った将棋の棋譜を見て、駒を並べたり、数人で遊ぶボードゲームをひとりでやって、遊んでいました。小学四年の、春でした。

 喉が渇いて、階段を降りて、私は台所の冷蔵庫へ向かいました。私の部屋から、台所に行くまでには、茶の間を通らねばなりませんでした。
 その茶の間に入ろうとした時、掘り炬燵に、祖母と母が、しょんぼり座っているのが見えました。ふたり、黙りこくって、四角い炬燵に、L字に座り、母がひどく猫背であったのを覚えています。

 茶の間の入り口に立った時、部屋が、真っ暗に見えました。私の部屋が、茶の間より明るく、陽当たりが良かったせいかもしれません。でも、私には、確かに見えました。炬燵の布団掛け、その裾から、黒い虫がざわざわと、夥しい数、湧き出して、茶色い絨毯を真っ黒に覆い、四方の壁へ、黒く塗りつぶしながら、すごいスピードで這い上がって行くのを。
 私は、眼を、ぱちくりさせ、ごしごし、こすりました。すると、数秒後には、虫どもはいなくなりました。

 茶の間の入り口に立ったまま、もう一度、よく部屋を見ると、炬燵に入っている母と祖母の、まるまった二つの背中が、(ほんとうに明日、あの子は学校に行くのかしら)そんな不安に、覆われているようでした。私は、ほとんど反射的に、「明日から、行くからね」と言いました。
 すると、祖母が、「ほら、サトシもああ言ってるんだし」と、少し笑って、母に言うと、母は、うすく涙ぐみながら、小さく笑ってうなずきました。私は、胸が一杯になって、逃げるように自分の部屋へ戻りました。

(お母さんも、お祖母ちゃんも、バカみたいだ! たった三日、休んだだけなのに!)泣きそうになりながら、私は腹を立てました。
 明日から、行く気だったのです。休めるのは、今日まで。だから、貴重な一日を楽しもう。そんな、張り切っていた気持ちが、祖母と母の、暗い、茶の間の雰囲気に、削がれたのが、悔しかったのでした。
 私は気を取り直しまがら、また漫画を読み、ひとり遊びにせっせと日中、勤しみました。

 陽が沈み、夜が、近くなってくると、だんだん、私は焦りはじめました。日中の、「明日は行くんだ」と張り切っていた気持ちが、どんどんしぼんで、いくようでした。重い緊張で、身体が張りつめて、明日は学校だ、などと思うと、居ても立ってもいられない衝動に駆られます。

 父が帰宅し、兄が帰宅し、家族揃って食卓を囲む、それはいつもの夕食の風景でした。テレビのニュースに父が何か言い、母が相槌を打ち、食器がカチャカチャ言い、お椀と箸が擦れ合う音がして、兄と祖母は黙々とご飯を口に運んでいました。

 私は、このいつもの夕食の空間が、「明日から、自分が学校に行くことを前提に、成り立っている」と思えてなりませんでした。ツバもうまく飲み込めず、何かを一口、口に入れただけで、吐き出したくなって、心臓がドキドキ、呼吸をするたびに、胸が詰まって、泣きたくなりました。

「…いらないの?」母が心配そうに訊きました。私は、うなずきました。
 テレビが、バラエティーや野球中継の時間に変わる頃、母は食卓を片づけ始め、私は自室に戻ると、今日一日、素晴らしい時間を過ごした、この部屋に、まだ暖かい陽射しの温もりが、残っているようで、ひどく、懐かしく感じました。
 時計は、八時になり、九時に向かいます。
 お風呂に入って また部屋に戻り、布団に寝そべると、時計が進んで行くことが、怖くて、悔しくて、仕方ありません。心臓が、またバクバク、し始めて、息を吐くのは、楽でしたが、吸うのが、苦しかった。酸素欠乏した金魚のように、口をあけて、どこか遠くへ、逃げたい、逃げたいと考えてばかりいました。
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