第10話 卒業

文字数 1,163文字

 まもなく、私は千葉県にある、大きな病院の児童精神科に行きました。両親はその医者をひどく気に入っていたらしく、「サトシの書いた漫画を読みたいから、持って来てほしい、って言ってたわよ。見せてあげたら?」などと、明るく言われ、私は遊びに行くような気分で、しかし、緊張しながら診察室に入ったのでした。

 何をしゃべったのか、全く覚えていません。ただ、泣き出すことなく、その先生と話をしていたのです。「探り」を入れられて、まともではない自分を再認識させられることなく、「普通」に、会話ができていたのだと思います。
 先生が冗談を言い、看護士も母も、可笑しそうに笑っていました。とても明るい、診察室でした。お昼に、病院の半地下にあった食堂で食べたカツサンドが、とても美味しかったことを覚えています。また、食堂の、大きな窓の外が、ひどく明るくて、窓辺に大木の幹が見え、食堂にも半分、穏やかに陽射しが照らされて、やたら明るく、広く、ちょっと、天国にいるみたいな心地良さを感じました。

 その後、母がパート勤めを始め、平日の昼間、家の中は私一人という日が、週に何二、三回、できました。小学生が学校にいる時間、電話が鳴っても出ることはできず、誰かが来ても、出て行けません。電話は無視し、家には鍵を掛けます。でも、あまり物音を立てると「中に誰かいる」と、訪問客にバレてしまうので、音には気を使いました。
 それでも、母が家にいない日は、助かりました。自由にトイレに行けるからです。それまで、一番困っていたのがトイレでした。ほとんど毎日、母の近所のお友達が来ると、数時間、茶の間で何か話をしていて、家のトイレは茶の間のすぐ隣り、ガラス戸一つ隔てた所にあったからです。

 冬は、その戸が閉まっているので、二階から降りて来た私の影と、流す音を察知される程度で済むのですが、暖かくなってくると、開けっ放しになるので、どうしても姿を見られてしまいます。
 来客が帰るまで、最大限の我慢をして、限界が来ると、小はベランダにしました。が、大ばかりは、そういうわけにいきません。私は茶の間にいる客に、早く帰ってほしいため、二階で七転八倒、ドスンバタンと大きな音を立てるのでした。
 母が、この音を、相手にどう説明していたのか分かりませんが、この音を立てると客は必ず帰って行き、私はやっとトイレに行けるのでした。

 そして相変わらず漫画を読み(父は集英社に勤めていたので、週刊少年ジャンプを毎週持って来てくれるのでした)、漫画を書き、ラジカセで好きな歌を録音したり……そんな生活を続けていくうちに、小学校を卒業することになります。
 卒業式にはもちろん出席せず、一、二、三学期の出席日数、0、0、0 と書かれた通信簿と、丸い筒に入った卒業証書が、仏壇の中に立て掛けられてありました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み