第12話 友達と恋人

文字数 2,129文字

 当時、国鉄に就職していた兄は、地方の独身寮に住んでいたが、たまに私に手紙をくれた。封筒の差出人は、いつも「ジェシー・ベンチュラ」とか「ボブ・オートン・ジュニア」とか、プロレスラーの名が書かれてあった。その一通に、「どうぞ身体を鍛えて下さい。そして本を読んで下さい。読書は、人生体験を筆者と共有できる、貴重な経験になります」とのくだりがあった。心に、強く入って来る言葉だった。

 兄の影響でプロレス・ファンになった私は、筋肉モリモリのレスラー体形を目指し、腹筋運動・鉄アレイを毎日やり始め、青白い体ではいけない、とベランダでパンツ一丁、日光浴もかかさずやった。そして兄の本棚にある百冊近い文庫本を読み始め、やはり百枚はあったLPレコードを聴くことに、一日の大半を費やすようになった。
 兄が特に好きそうだった、漱石とドストエフスキーを重点的に読んだ。難しい漢字が、ほとんど一行ごとに出てくるたびに、国語辞典で意味を調べ、その言葉と意味を例文ごとルーズリーフに書き込んでいく。これが、学校の教科書を開くことのない私の、唯一の勉強らしき作業だった。

 母が洗濯物を干しに二階に上がって来るので、寝っ転がっていたりしてはバツが悪い。何時から何時まで読書・何時からは日光浴・何時には腹筋運動、と自分なりに頭の中で時間割を作って行動する。
 見た目は、実に健康的な不登校児であった。だが、少しでも気を緩めると、奈落の底に落ちて行きそうな脆さも、内面には同居していた。
 気を抜いた時に、襲ってくる、どうしようもない時間。やおら深刻になって、何も手につかない。何をしてもダメだと思える、そんな時間の方が多くあった。
 自分の将来、先のことを考える時間だ。この時間は、圧倒的な不安と焦燥感に駆られる、漱石や鉄アレイでも太刀打ちのできない、どうにもならない時間だった。

 仮に二年に進級しても、学校に行かない自分が想像できた。もう、学校に行く気など、全然なかったのだ。
 三年になり、仮に卒業できたとして、それから、自分がどうなるというのか? 全く、先が見えなかった。
 やはり学校に行かない限り、自分には何の未来もない、としか思えなかった。(このままではダメだ、どうしよう)と、焦る気持ちを、何かすることでかわし、さりげなく済ませようとしても、「おい、ごまかすな、直視しろ」と、もう一人の自分が必ず急き立てた。

 だが、そんな張り詰めた時間は、家にやって来る友達によって、ずいぶん軽減された。
 中二の春頃から、それまで一人で「お見舞い」に来ていたK君が、恋人と一緒に来たのを皮切りに、また別の男子が二人、女子が二人、学校帰りに毎日、私の家に遊びに来るようになったのだ。
 いわゆる「不良」── タバコを吸ったりオンナのカラダを求めたり── ではなく、普通の中学生達だった。
 彼らは私に、学校に来い、という素振りを微塵も見せなかった。彼らは彼らで、好きで私の家に遊びに来るようだった。私は私で、彼らが好きで遊んでいた。「ホントに病気で学校に行けないんだヨ」と知ら示すこともせず、そのままの健康体で接することができていた。

 そんなある日、K君の恋人がノートを回してきた。うちに遊びに来る皆に貸している大学ノートで、彼女が書いた散文に、読んだ人が感想を書いたり、日常で色々思うことを自由に書く、「集団交換日記」のようなノートだった。
 そこに彼女は、「生きていてもしょうがないじゃないか 虚しいだけだよ なんで生きてるんだよ 死にたい死にたい、死死死…」と、自殺に憧れる言葉を書いていた。

 中学時代も、私は相変わらず自殺を想っていた。高校進学は考えられず、学力もない。といって、働くにしても中卒の学歴。世の中、きっと、甘くない── 「結局、死ぬしかないじゃないか」に帰着した。
 ノートに書かれた彼女の言葉は、「高校に行って大学に行って、就職して結婚して… つまらない、つまらない」と続いていたが、そんな理由は、私にはどうでもよかった。
 自殺を考えている人が、こんな身近にいた! もう、私はひとりじゃない…そう思えて、嬉しかったのだ。

 いくら友達がいても、死にたいなんて、口にできなかった。だから友達の前で、ゲラゲラ明るく振る舞うことはできても、「孤独」を私は意識し、感じていた。「人間関係、こんなもんだろう」とも思っていた。
 だが、この彼女の「死にたい」を見た時、私はそんな頭の中の「形だけのような友達関係」を突き抜け、「この人と一緒に生きて行きたい」と思った。
 その思いは、結局、「愛している」という言葉になって、一ヵ月悩んだ挙句、彼女に告白した。彼女は、K君の恋人だった。友達を、裏切ることになるけれども、私には、友達より、彼女の方が、大切だった。友達は、時間限定のつきあい、彼女とは一生つきあっていく存在、と思えたのだ。
 彼女も、私を好きだと言ってくれた。それ以来、毎日、私は彼女のことばかり考えて過ごすようになった。兄のステレオでラブソングを聴きながら、放課後にやって来る恋人と仲間たちと、今日はどんな話をしようか、どんな笑顔をつくろうか、どんな振る舞いをしようか…そんなことばかり考えていた。
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