第8話 ガスと包丁

文字数 988文字

 その頃から、私は奇妙な行動を取り始めました。私の部屋には、ガス・ストーブのための元栓があったのですが、それを開けてガスを出すのです。シューッ、と、一直線に、真っ直ぐな風が出てくるのを、ドキドキしながら、見ていました。それから、だいぶ臭くなってくると、ガラス障子戸を開け、下にいる母に、気づかれるようにするのです。
 異臭に気づいた母が、階段を上って来て、「危ないじゃないの」と言いながら元栓を閉める間、私はその横に立ち、黙って下を向き、母の様子を見つめていました。

 深夜には、包丁を台所から取って来て、枕元に置きます。布団の中で、(これで手首をずばっとやれば…)と夢想しながら、電灯をつけっ放し、父を待っていました。夜中の二時頃になると、父は必ず、階段下にあるトイレに来るのです。灯りに気づき、父が上って来ると、私は仰向けに苦しそうな顔をつくり、寝てるふりをしました。
 父はしばらく、見下ろしていましたが、何も言わずに、電灯を消し、階段を下りて行きました。枕元を見ると、包丁が無くなっています。

 私は、親に、自分が死にたがっているということを知ってほしかったのでした。好きこのんで学校に行かないのではない。とても迷惑をかけていることを、本当に分かっています。それでも、行けないんだ、ごめんなさい ── そんな気持ちが、ガスや出刃包丁になって表れました。

 昼間、マンガを読んで、笑ったりすると、まわりにこれだけ迷惑を掛けながら、笑うとは何事か!と、自分が悪魔のように見えました。でも、日がな一日、部屋に籠っていると、結局、好きなことをしたくなって、特に、マンガを書く時は熱中していました。ストーリーを考え、枚数を決め、コマを割って画用紙に鉛筆で下書きをし、インクにペン先を浸し、細かい点や線を書いている時、私は確かに楽しかったのです。

 そして、何を熱中しているというのか。好きなことをする前に、やるべきことがあるだろう。それをしないで、何をやっているのか ──そんな思いが、たえず私の背後を追っかけて来て、自殺でも考えなければ、自分がほんとうにダメな人間になってしまうと思いました。
 学校に行かず、部屋の中で好きなことをする自分を、私は自殺を考えることで、許すことができました。自殺は、私にとって、自分に与える大切な免罪符であると同時に、自分の思いを訴える唯一無二の手段でした。
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