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文字数 10,599文字

 英司は房人と政彦に少し遅れて追いつくと、そのまま三人で近くの茂みの中に隠れ込んだ。三人とも銃の安全装置を解除し、照準器を通して目の前の景色を覗き込む。息を殺し、視界以外にも嗅覚や聴覚を総動員して、他にも異変がないか調べてみたが、生憎目立った変化は無い。建物中に人の気配は無かったし、人間が生活してたら絶対に聞こえるであろう物音も全く聞こえない。村は山奥の果樹園跡地を宅地化したらしく、人が余り住んでいないのか家屋は数えても十棟ほどだった。西側には小さな豚小屋があったが、そこから豚の鳴き声などは聞こえて来ない。辛うじて動いているものといえば、上空を流れる雲と、風に吹かれて流れる猫じゃらし位だ。
「どうする?乗り込むか」
 政彦が房人に聞いた。
「そうしよう。ここで待っても村人がもてなしの用意をしてくれる訳でもないからな」
 房人はそう漏らすと、今度は英司の方を向き、目の前の家屋を指差しながらこう言った。
「俺と政彦で、あの家屋まで移動するから援護してくれないか。そしたら周囲を確認して合図するから来てくれ」
「了解」
 英司は即答すると、銃を9mm機関拳銃からM24に持ち替えて、スコープと銃口の保護カバーを外した。
「よし、なら早速行くぞ」
 房人はそう言うと、すぐに立ち上がって指差した方向に向かって走り出した。そのすぐ後ろに政彦も続く。二人はお互いに全周囲を警戒しながら、すぐに目標の家屋にたどり着いた。そのまま家屋のコーナーに身を隠し、周囲に何も無い事を確認すると、英司の方を振り向いて、こっちにやって来るように手招きした。
 草むらから飛び出してきた英司がダッシュで家屋の壁にへばりつくと、後方を警戒しながら房人に聞いた。
「何かあるか?」
「ちょっと待て」
 房人は小さく呻き声を漏らすと、雑嚢から死角を確認する為の伸縮式ミラーを取り出して、村の中心部を除いた。鏡には建築廃材やトタンなどで作った建物が全て逆さまに写り、入り口の扉は全て開け放たれている。家の中は暗闇に塗りつぶされて見えないが、恐らく中はがらんどうだろう。角度をずらして、十五メートルほど西側にある豚小屋を映すと、他の家屋と同じように開け放たれた入り口から、何かを引きずり込んだように血の痕が延びていた。
「豚小屋から血の痕が延びている。確認するか?」
 小声で房人が聞くと、同じように小声で政彦がこう返した。
「さっきみたいに揉めると面倒だから、お前の指示に従うよ」
「よし、ならこの家の中を確認してから豚小屋に行こう。付いて来いよ」
 政彦はそう答えると、銃を構えながらゆっくりと家屋の正面に回った。移動の際は常に銃口と視線を同じ方向に向ける。寺田からしつこく注意された市街戦の基本を守りながら、素早く入り口に移動した。入り口の扉は他の家屋とは違ってきちんと閉められており、この家の中には何かがあるということを故意に教えているみたいだった。
 英司は閉じたドアを見るとすぐに、「俺が開けるから、バックアップを頼む」というアイコンタクトを取ると、M24を背中に回し、銃をM442センテニアルに持ち替えた。コンパクトな回転式拳銃だったが、こういった状況で使用する拳銃としては少々役不足だった。
 英司はドアノブに手をかけると、ドアの左に房人が、右に政彦がついて警戒に就いたのを確認する。
「3、2、1で開けるぞ」
 英司が囁くと、房人と政彦は静かに頷いて、英司がドアを開けるのを待った。英司はドアノブに手をかけて、手榴弾を使ったトラップが無い事を確認すると、静かに呼吸を整えた。
「3、2、1行くぞ!」
 英司は叫ぶとすぐにドアを開けて、一歩前に踏み出しながら家屋の中に入った。それとほぼ同時に、房人も家屋の中に飛び込んだ。 
 家の中に人の気配は無く、動くものは踏み込んだ時に舞い上がり、太陽の光を受けて輝く埃くらいだった。やがて暗闇に目が慣れてくると、次第に内部の様子も分かってきた。
 この家は何かの作業小屋として使われていたらしく、入り口から右側の壁には大小様々なハンマーや鋸などが掛けてあった。その反対側には金属板を折り曲げたりする万力や金鋸などが散乱した作業台が。左端の壁にはガラス窓があり、そして彼らの正面には喉を切られて首から血を流し、シャツを真っ赤に染め上げて椅子に縛りつけられた、五十過ぎくらいの男の死体があった。
「こりゃ、非道いな」
 後ろに居た政彦が思わず顔を顰めながら呟いた。三人はそのままゆっくりと死体に近づいて、改めて死体の観察を始めた。鋭利なナイフで切られたと思いしき喉の傷は深く、頚動脈を過ぎて食道まで達しているのは明らかだった。両目は抉り取られて、眼窩には煙草の吸殻が押し付けられている。抉り取られた目玉は、頬の筋肉を切られ大きく開けられた口に押し込まれていた。
「一体誰が」
 房人はそこで言いかけると、思わず鼻を摘んだ。風が中に入り込んできたのだろうか、彼らの鼻元に、乾いた血の臭いと、肉の焼けるような臭いが漂ってくる。
「どんな連中がしたかは、もう分かっているだろう?」
 英司は全てを見透かした者のような言い方で呟くと、拳銃を腰のホルスターに仕舞った。そしてそのまま落ち着いた足取りで作業小屋を出て、焦げ臭い臭いが漂ってくる方向へと向かう。房人と政彦も、すぐにその後に続いた。
 小屋の反対側の家屋を越えると、よりいっそう焦げた臭いが強くなってきた。肉の焼けた臭いに混じって、ガソリンか何かの揮発油の臭いも漂ってくる。あまりにも強烈な臭いのため、鼻ではなく口から息をしても横隔膜が刺激されて、胃の中身を全てぶちまけそうになる。三人は袖で口元を押さえながら臭いの元にたどり着くと、三人は正に血が凍りついて、知性ある者全てが絶句してしまうような光景を目の辺りにした。
 英司のすぐ隣にいた房人が耐えかねて少し吐いてしまったのは、臭いがより一層強烈になったからではない。二十人ほどの人間がそれほど大きくない家屋に押し込まれて、そのまま火をつけられたらどうなるか?きっと中の人たちは、襲い掛かる炎に囲まれ、迫り来る熱で爪や髪の毛が溶け落ち、喉か焼け付いて息をするのも苦しかった筈だ。そしてそのまま意識を失い、炎でその身を焼かれた後の光景を見れば、誰もが夢だと願いたくなるだろう。しかし、願っても目の前の光景が消えないという事は、目の前で起きた惨劇は紛れも無い現実である証拠だ。どんなに祈っても、叫んでも、悲しんでも、現実を覆す事は出来ない。きっとこの場に居る三人にとって、この光景は一生忘れないだろう。もしかしたら生まれ変わっても、この光景は忘れることは出来ないのかも知れない。
「何だよ、これ」
 英司は呆然とした顔のまま、ポツリと漏らした。彼自身、目の前で両親を殺され、その後この手で何人もの人の命を奪ってきたが、こんなに惨い殺され方で、しかも幾つもの焼け焦げた死体が折り重なっているのは初めてだった。けれど、心にこみ上げてくるのは驚きだけで、悲しみや憎しみと言った感情はまったくと言っていいほど出ては来なかった。もしかしてあまりに人を殺しすぎたせいで、そういった感情が消え失せてしまったのだろうか?悲惨な出来事や大切な人が死んでも、もう心の底から泣く事は出来ないのか?それを思うと、英司は人を殺しすぎてしまった自分に始めて恐怖心を抱いた。
「女や小さい子供も居ただろうに、クソが!」
 怒りに燃えた政彦が足元の小石を蹴飛ばしながら叫ぶ。
「いくらなんでも、これは流石に無いだろう?」
 胃の中身を吐き出した房人が苦しそうに呟いた。出来るだけ焼死体の山を見ないようにと自分に言い聞かせているが、どうしても視線がチラチラと行ってしまう。
「俺には分からないよ。自分達の主義主張を無理矢理押し付けて、それに従わない人間を殺しまくるなんて」
 房人は口元を拭いながら続けると、臭いの来ない所を探そうとして、どこか心を落ち着かせられそうな場所を探した。すると、近くのバラックの中から何かがガタン!と音を立てて落ちる物音がした。三人は素早く身構えると、意識を死体の山からバラックへと向けて、銃の安全装置を解除した。
「聞こえたか、今の」
 房人が英司と政彦に聞いた。
「聞こえたぞ」
「生き残りがいたら、この村で何があったか聞いてみよう」
 英司に続いて政彦が答えると、三人は素早くバラック小屋の入り口に向かった。ドアは古い木材を寄せ集めて作ったものらしく、開いた隙間から中の様子が見えた。隙間から覗いた限りでは、トラップのようなものは仕掛けられていなかった。
「今度は俺が中に入るから、英司は援護を頼むぜ」
 房人はそう言いながら持っていた銃をM249PARAから腰のミネベア9mm拳銃に持ち替えた。
「開けるぞ!」
 房人は一言叫ぶと、足でドアを乱暴に蹴破った。立て付けが古くなっていたせいなのか、ドアはバキッという派手な音を立てて開いた。すぐさま房人は銃を構えて中に飛び込む。
 薄暗いバラック小屋の広さは八畳ほどで、部屋には押入れが一つと、板張りの床の上には粗末なテーブルと丸められた布団が近く置いてあった。三人は土足のまま床に上がると、何か人が居るような痕跡が無いか捜索を始めた。
「誰も居ないのか?」
 政彦が丸めてあった布団を蹴飛ばしながら呟く。
「確かに物音が聞こえた。何も無いって事はだ」
 英司が押入れを開けて中に誰も居ない事を確認すると、すぐその脇に食糧か何かを入れる床下収納があることに気付いた。床下収納は長さが一・三メートル弱、幅が六十センチほどある長方形の大きなもので、身体を縮めれば小柄な人間くらい入るだろう。蓋が完全に床と同色だったから気付かなかった。彼は右手に拳銃を構えながら、片手で蓋の取っ手を持ち、一気に蓋を開けた。蓋を開けたときの風圧が顔にかかって、思わず開いていた目が半目になると、床下収納から動物の鳴き声のような女の悲鳴が上がった。
「動くな!」
 英司がそう叫ぶと、中に居た女はさらに悲鳴を上げ両手で顔を隠した。そして胎児の様に身体を小さくする。
「お願いだから殺さないで、殺さないで!」
 女は今にも泣きそうな湿った声で懇願した。両腕で顔を隠しているから表情は分からないが、恐らく心の底から怯えきっているのは間違いないだろう。彼女はこんな狭い所で身を隠しながら、一人で必死に恐怖に耐えていたのだ。小屋の中で焼け死ぬ村人達の断末魔を聞きながら。
「さっさと出ろ!両手を上げて、そのまま立ち上れ」
 房人が語気を強めた命令口調で女に命令した。しかし女はその言葉に恐怖の緒が切れてしまったのかとうとう泣き出してしまい、またさらに身体を丸くして存在しない筈の床下収納の奥へ呻き声を上げながら入ろうとした。房人は彼女の肩を無理矢理掴んで外に引きずりだそうとしたが、英司が房人の腕を掴んで、それを止めさせた。
「何をする?」
 突然腕を摑まれた房人が英司の顔を見た。英司の顔は、何かの余裕に満ちているような感じで、その自信は場数を踏んだベテラン兵士の余裕というよりも、綾美や理奈子などが持っている、誰かを受け入れる余裕に近かった。英司は房人から手を離し、持っていた拳銃を腰のホルスターに収めて、彼女の顔を覗きこむ。
「大丈夫だ。乱暴な事はしない。出てきてくれないか」
 英司は優しい声で女に言った。女はゆっくりと顔を英司の方に向けて、彼の目を見る。
「何なの?貴方達は」
 女は震えたままの声で、英司に問いかける。
「ちょっと近くを通りかかったから寄ってみたんだ。この村を襲った連中とは仲間じゃないから安心してくれ」
「信用してもいいの?」
「それは君の自由だ。頼むからここから出てきてくれないか」
 英司は怯える女に手を差し伸べると、床下収納から出てくるように指図した。

 女は英司達より少し上の二十歳くらいの娘で、少し長い黒い髪をゴムで束ねた飾り気の無い女だった。体型はどちらかと言うとスレンダーな体つきで、床下収納に隠れていたせいか衣服のあちこちに埃が付いていた。
 女は英司から挿し出された水筒の水を少し飲むと、ようやく心が落ち着いたのか大きな溜息を漏らして、がっくりと肩を下ろした。
「怪我は無い?」
「大丈夫よ」
 英司の問いかけに、女は宙に浮いた目のまま答えた。英司は彼女の手に握られた水筒を戻し、さらにこう聞いた。
「名前は?なんて言うの」
 女は俯いたまま答えなかった。やはり色々と聞き出すのはまだ早いだろうか、と英司が思ったその瞬間、村の様子を見てきた房人が戻ってきた。
「ご苦労さん。どんな様子だった?」
 小屋の入り口でキャビンを咥えていた政彦が聞くと、房人は女に聞こえないように囁き声で答えた。
「この村は色々な小物を作って収入にしていたみたいだ。殆どの家に作業台と加工に使う工具が置いてあったよ。それと例の豚小屋の中に女の死体が二つ、どれも酷い殺され方だ」
「どんな感じだ?」
 政彦がさらに尋ねると、房人は躊躇う素振りを一瞬見せて、さらに小声で続けた。
「一人は台に縛られて犯された後、自分で舌を噛み切って死んだみたいだ。もう一人は下の口に色んなものを突っ込まれた挙句に、引き裂かれた豚の肛門に頭を突っ込まれてたよ」
 房人は悔しさを滲ませたような顔をしながら答えると、持っていたM249PARAに安全装置をかけて、部屋の上がり口に置いた。そして雑嚢からウォーキートーキーを取り出し、村の外で待機している美鈴を呼び出した。
「美鈴、聞こえるか?」
「聞こえるよ」
 無線機の向こうから、美鈴の元気そうな声が聞こえていた。惨い殺され方をした死体を見た後に、知っている人間の明るい声を聞くとほんの少しだけ楽になったような気分になった。
「英司と政彦の荷物を持って村まで来てくれ、北東のバラック小屋の中に居るから」
「どんな状況?」
「あんまりいいとは言えないな」
「了解」
「俺も一旦そっちに戻って装備を回収するから、そこに待機していてくれ。アウト」
 房人がそこで無線を切ると、美鈴はウォーキートーキーを雑嚢に仕舞いながら綾美の方に顔を向けた。
「何かあったのかな?」
 綾美が不安げに聞いた。
「分からないよ。でも連絡してきたって事はなんか問題発生ってことでしょ」
 美鈴は不貞腐れたような言い方で答えると、近くに置いてあった政彦のバックパックを持ち周辺警戒に就いた。綾美も近くにあった英司のバックパックを持って、房人が来るのを待つ。
 しばらくすると、正面の方から房人が小走りやって来た。房人がそのまま自分のバックパックを担ぐと、三人はすぐさま村のほうに向かった。
「村で何があったの?教えてよ」
「来れば分かるよ」
 綾美の問いかけに房人が返した言葉はそれだけだった。
 荷物を持って村に着くと、村の東側から風に乗って流れてくる焼き過ぎた肉の臭いに、綾美と美鈴は顔を顰めた。さっきまで大人しかった風が今になって急に強くなり始め、この辺り一体をこの臭いが覆い尽くしている。
「それにしても強烈ね、何の臭い?」
 美鈴がそこで言いかけると、突然目の前を歩いていた綾美が立ち止まって美鈴とぶつかった。しかし美鈴がぶつかったのに、綾美は全く気にもせずにその場に電源が切れたロボットのように立ち尽くしている。不振に思った美鈴が綾美の見つめる先に視線を移すと、そこには焼死体と化したこの村の住人達が幾重にも折り重なり、嗅覚を司る神経を全て死滅させそうな臭気を放っている。そのこの世のものとは思えない光景を見た美鈴は小さく悲鳴を上げて、持っていた荷物を落としそうになった。あの切り落とされた耳を見つけた時にこの村で何が起きているか覚悟していた筈なのに、こんなにも残酷な殺され方をしているだなんて予想していなかった。
「何なの、あれは」
 美鈴が凍りついた喉から声をひり出す。近くに居た房人が何か呟こうとしたが、彼はそのまま俯いたまま何も言わなかった。痛みや恐怖といったものは見たその瞬間、すぐに言葉には出来ないものなのだ。その言葉に出来ない感覚は得体の知れない形をした激流のようなものに姿を変えて、彼女達の中を駆け抜けてゆく。
「おかしいよ、こんなの。本当に人間のすることなの?」
「何も言うな」
 美鈴が問いかけると、房人がそれを制した。人間は戦争を起こすとき、何でもいいからとにかく理由をつけて、目の前に起きた出来事や、これから起こることを正当化したり、あるいは否定しようとする。けれど、実際にそれらの行為は何かが起こるときではなく、起こる前か起きた後だ。今目の前で起きている出来事を明確に表現しろなんて出来っこない。もし人殺しをしている最中に倫理的な思考が出来たら、殺人なんて行為は絶対に出来ない筈だ。
 彼女達がしばらくその場に立ち尽くしていると、バラック小屋から自分の荷物を受け取りに英司が出てきた。英司は焼死体の山を見つめながら立ち尽くしている綾美に気付くと、すぐさま彼女の元に駆け寄った。
「綾美!」
 英司が彼女の意識を確かめるように大きな声で名前を呼ぶと、綾美は全身を震わせながら、目元に大粒の涙を浮かべて英司に寄り掛かった。もう立つ事が不可能なくらい全身の力が抜けていて、そのまま英司の胸に顔を埋める格好になる。
「綾美、大丈夫?しっかりして」
 何とか彼女の気を持たせようと英司が呼びかけると、綾美はすぐにでも気を失いたい気持ちに逆らうようにして、か細い声でこう答えた。
「きっと、山内さんやミレナも」
「山内さんやミレナがどうしたの?」
「きっとあんな風に殺されたんだ。絶対に」
 綾美が力なく答えると、綾美は堪えていた気持ちを爆発させて、それこそ狂ったような泣き声を上げた。ジャケット越しに、綾美の涙の温かさと、声の振動が英司に伝わる。
その場に居た彼らは何もする事も出来ず、ただ呆然と立ち尽くして目の前の出来事を受け入れるしか無かった。強い風に流されていた上空の雲はもう何処かに消えてしまっていて、無機質な水色をした青空が広がるだけの空になっていた。

 助けた女は蔵元つばき、と名乗った。この村に住む二十歳の娘で、家族は病床の母が一人だけ、父親はおらず、働けない母の代わりにほかの村人から支援を受けながら暮らしていたという。この村の人口はおおよそ二十人ほどで、農業をやるにしても生産量は高が知れているから、戦前の遺物や廃品などを修理し加工して、生活用品を作っている村だという事も聞かせてくれた。
「この村で何があったのか、言える範囲でいいから教えてくれないか」
 政彦が尋ねると、つばきは俯いた顔を少し上げて、静かに口を開いた。
「私は部屋の掃除をする為に、村の人にお願いして母を車椅子に乗せて散歩に連れてってもらうように頼みました。それでしばらく掃除をしていると、家の外で突然悲鳴が上がったので、家の扉を少し開けて外を見たんです」
「それから?」
「それからは」
 つばきは胸の奥の何かを飲み込むような仕草をして、さらに続けようとした。だが、一度に多くの人達を失った悲しみからまた完全に立ち直れていないのだろう。彼女は目元に涙を浮かべると、顔を皺くちゃにして再び俯いた。
「無理しなくていよ、別に強制しているわけじゃないから」
 隣に居た美鈴がつばきの肩を優しく持ち、彼女を慰めた。つばきは静かに「ごめんなさい」と漏らして、声を殺しながら泣くと、彼女から話を聞きだそうとしていた政彦はサッと立ち上がって、隣の家屋に居る綾美の様子を見に行った。あの程度の死体をみて泣き出し、そのまま気を失ってしまうなんて彼の基準から言えば少し情けないと思った。彼女はこのメンバーの中で純粋培養に極めて近いし、死体も殆ど見たことが無いとは言え、この旅の途中で、こういった光景に遭遇する事は容易に出来た筈だ。あるいは覚悟はしていたとしても、彼女のガラス細工のように美しい心は、この凄惨すぎる現実を直視するにはあまりにも脆かったのかも知れない。
 外に出ると、太陽は既に西へ傾き始め、空を薄くオレンジ色に染めていた。目を凝らすと、空にはダークグレーの綿くずのような雲が浮かんでいて、さっきまでとは異なり非常にゆっくりとした速度で政彦の上を流れていった。
 家はつばきの住んでいる家を若干良くしたくらいの建付けで、入り口の脇にはガラクタを集めて作ったと思いしきバスケットボールのゴールが置いてあった。ドアを開けて中に入ると、家の押入れから出した布団の上で横になっている綾美と、その脇で胡坐をかきコンバットブーツの手入れをしている英司が居た。横になっている綾美の方はもうすっかり寝入っていて、頭から被った掛け布団の中からかすかな寝息が聞こえてくるだけだ。英司はコンバットブーツの手入れを終えると、バックパックの中からデータの入ったCDケースを取り出し、それを自分の腰のベルトに着けているポーチに入れた。
「何でそんな所に入れるんだ?」
「ここから先、バックパックを捨てなければいけない状況があるかもしれないだろ?そういう時の為に、肌身離さず持っておくんだ」
 英司がポケットのボタンを閉めると、政彦が寝ている綾美を見ながら尋ねた。
「綾美の具合は?」
「今の所は平気。ちょっとショックだったみたい」
 英司は俯いた顔を上げて答えた。傷ついた人間がすぐ隣で寝ているせいか、何処と無く表情が暗い。英司はあまり他人に対して感情の表現が上手く出来ない、少し沈んだ人間だと政彦は思っていたが、この表情はそれとはまた違うだろう。何か考え事でもしているのだろうか?
「お前も何だか、浮かれない顔をしているな」
「そりゃまあ、あんなのを見せられると」
 英司は独り言のように呟くと、今度は英司が政彦にきいた。
「なあ、ちょっと質問していいか?」
「なんだ?」
 政彦が意外そうな感じで答えると、英司は何かに追い詰められたような顔になって、胸の奥に出来たポリープみたいな疑問を吐き出す。
「お前、理奈子やコウタローが悲しい思いをした時、悲しいって思うか?」
「そりゃそうだ。人間だからな」
 政彦が当たり前のように答えると、彼はそのまま英司を嘲笑するみたいにこう聞いた。
「お前は感じなかったのか?」
 政彦の言葉は、まるで心臓に氷のナイフが刺さるようにして、英司の中に入っていった。英司は小さく首を縦に振るような仕草をして、そのまま胡坐をかいた足を見つめながらこう答える。
「あの死体の山を見て、ああ、死んでいるなって、それしか思わなかった。目の前で大勢の人がもがき苦しみながら焼け死んだのに、それ以外何も出てこなかった。自分にも同じように大切な人を奪われたのに、憎いとか、悔しいとか、そういう感情が浮かんでこなかった」
 英司はそこで一旦言葉を区切り、見えない何かに怯える子供のような眼をして政彦を見上げる。
「初めて自分の事が怖いって思ったよ。人の死に対して変な免疫が出来ているんだ。その免疫がドンドン自分を侵食していったら、俺どんな人間になるか」
「そんなことは無い、安心しろ」
 英司の悲痛な叫びに聞き飽きた政彦が言葉を遮る。
「もしそんな人間だったら、俺とお前はこうやって会話なんかしてない。そういう自分が怖いって気付いたから、俺に救いを求めたんだろ?だったら、お前はまだ変われる余地があるってこった」
「そうかな?」
「きっとそうだ、それにもしお前がそんな悪魔みたいな人間だったら、こうやって女の子の付き添いなんてしていないと思うぞ」
 政彦はそこでにやけた顔を作ると、顎で英司の横に寝ている綾美を指した。
「彼女をこの先も守り抜く事が出来れば、きっとお前も変われるよ」
「お、俺は別にそんなつもりで言ったんじゃ」
 英司が微かに頬を赤らめて否定すると、布団の中の綾美がくぐもった声を漏らした。どうやら二人の会話で目が覚めてしまったらしい。綾美は布団の中で何回か身悶えすると、赤くなった瞼をあけて、うつろな瞳で隣に居る英司と政彦を見た。
「おはよう綾美。気分はどう?」
 英司が質問すると、綾美は布団に入ったまま辺りを見回し、「ここは?」と尋ねた。
「誰かの家だとしか言えないな。さっき英司が横になって休むようにと言ってここまで連れてきたのを忘れちまったか?」
 政彦が答えたあと、綾美は天井を見つめて、今日一日在った事を思い返す。そしてゆっくり起き上がると、半開きになった入り口のドアの隙間からオレンジに染まる外の景色を見つめた。
「悪い夢でも見たの?」
 英司が聞いた。幾ら眠っていたとはいえ、綾美の顔色は決して良いとはいえない。綾美はまた布団を深く被ってまた横になると、くぐもった声でこう漏らした。
「やっぱり消える訳ないよね、眠っただけじゃ」
「どうかした?」
 英司が聞き返すと、綾美は布団に入ったまま怯えきった目で彼を見つめた。
「横になっている時にね、これは全部夢だって心のなかで叫んでいたの。今目の前で起きていることは全部私の夢で、英司や他の皆も普通の友達だって願ったけど、駄目だった・・・」
 英司と政彦は掛ける言葉も見つからずに、視線を逸らそうとして辺りを見回す。
「どうしてかな?小さい頃から強い子になれって周りから言われていたのにさ、一番涙を堪えなきゃいけないところで堪えなきゃいけないのに」 
「涙なんて、堪える必要ないよ」 
 涙ぐみながら喚く綾美に、英司が声を掛けた。綾美は意外そうな顔で涙を拭うと、顔を英司の方に向けて次の言葉を待った。
「人間だもん、誰にだって喜怒哀楽の感情はある。確かに辛い事や苦しい事があっても、それに堪えることは大事だよ。だけど、それに堪えてばかりじゃいけないと思う」
「堪えてばかりいたら?」
「堪えてばかりいたら」
 綾美の何気ない質問に、英司は言葉を詰まらせた。「堪えてばかりいたら、きっと俺みたいな人間になる」という一言が、もう自分の中に出来上がっているのに口に出せない。その躊躇する気持ちが綾美を傷つけない為のものなのか、あるいは自分に残った最後の良心みたいなものなのか、英司には分からなかった。
「とにかく、今は落ち着くまで休んでいた方がいい」
 英司は逃げ文句のように言い捨てると、そのままブーツを履いて家の外に出た。
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