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文字数 15,110文字

 三人がホテルまでやって来ると、黄ばみや泥にまみれて汚くなったガラスの自動ドアを開けて薄暗いホテルの中へ入った。入り口付近からロビーにかけては荒れ放題で、割れた窓ガラスから侵入してきた落ち葉や泥、木の枝などで埋め尽くされている。壁紙は剥がれ落ち、床に敷かれた赤い絨毯は染みや黴にまみれて踏みしめる度に粘着くような感触が残った。そのまま進み、腐りきった観葉植物のプランターが置かれたロビーに入ると、そこだけ光が差し込む所を見つけた。そこではボロボロになったソファに腰掛けた英司がいた。顔は光の影に入っているのとフェイスペイントのせいでよく分からないが、特に警戒はしていないらしい。その姿はまるで、この廃墟に何年も前から住み着いているようだった。
「随分と無防備だな、英司」
 房人が声を掛けた。英司は慌てる素振りも見せずこう答えた。
「別に無防備な訳じゃないよ」
 英司が答えると、房人は接近戦用の9mm機関拳銃を、英司が抱えている事に気付いた。周囲に注意を払っていれば、すぐに反撃体勢に移る事も出来るだろう
「それにしても、用心深いはずのお前が何でこんな事を?」
「安全が確保できるからさ」
 英司は自信たっぷりと言った感じで答えると、銃を組み終えて肩から提げると、顎で奥のほうを指した。房人たちが顎で指された方向を振り向くと、肩に64式小銃を提げたコウタローが房人たちを警戒するような目で見つめていた。
「アンタは誰なの?」
 美鈴が嘗めきったような口調でコウタローに聞いた。こんな餓鬼が銃を担いでいるのが気に食わないのだろうか。コウタローはそのまま美鈴の方に首を向けてこう答えた。
「俺はコウタロー、ここに住んでいる」
「他に住んでいる人はいる?アンタみたいな餓鬼じゃ話にならないわ」
 美鈴はまるで腹の虫がおさまらないような口調で続けた。いくら年下とはいえ不機嫌丸出しの言い方で相手に何かを聞くのは、見ていて腹が立つ。まだ英司の取った行動に対して理解できない所があるとはいえ、その不満を他人にぶつけて紛らわすのは良くないと綾美は思った。
「美鈴、幾らなんでもそんな口の聞き方は良くないよ」
 綾美が思わず漏らした。美鈴はそのまま綾美に視線をずらすと、そのままの不機嫌な表情でこう続けた。
「別に構いやしないよ。相手は学も教養も無い餓鬼だし」
「だからって、初対面の人にそんなことをしちゃいけないよ。どんな時でも」
「じゃあどうやって接しろって言うの?道化みたいにヘコヘコしろというの」
「彼女の言うとおりよ、どんな人でも、初対面の相手に失礼の無い態度で接することが出来るかで、人間の価値が決まるのよ」
 突然入り口の方から女の声が聞こえた。その場にいた皆が一斉に声の聞こえた方向へ振り向くと、白い肌の理奈子が立っていた。理奈子はさっきまでの一部始終を見ていたような微笑を浮かべながら、足音を立てずにゆっくりと彼らの元へ歩み寄ってきた。
「始めまして。私はここに住んでいる早川理奈子よ。貴方達は英司の仲間ね」
 理奈子は一言挨拶すると、美鈴の目を見つめたまま彼女の側まで近寄った。心まで見透かしそうな眼差しを向けながらこう口を開く。
「今度から気をつければいいわ。今回は色々と機嫌が悪かったんでしょう?」
 理奈子が微笑みを浮かべながら美鈴に語りかけると、美鈴は理奈子から視線をずらし、そのまま背を向けた。それと同時にさっき自分の言った言葉が驚くほど鮮明に蘇って、自分が酷く卑しい人間に思えてきた。黒い毒虫が肋骨の隙間から入ってきて、心臓の弁を食い荒らされているような気分だ。
「ここにいるのはこの子と君一人だけ?もう一人いたような気がしたんだけれど」
 房人が話題を切り替えるべく理奈子に尋ねた。ファーストコンタクトはここら辺にして、彼らは本題に入った。
「政彦なら別棟の三階にいるわ。着いて来て」
 理奈子が房人の方を向いて答えると、そのまま別棟へと繋がる廊下へと歩き出した。その後にコウタロー、房人と続く。
「疲れなかった?」
 不意に英司が綾美に聞いた。その言葉を聞いて、綾美は英司の性格が少し変わったような気がした。前はどこか怖いような雰囲気を持っていた英司だったが、ここ最近はそんな感じがしなくなった気がする。
「ちょっとだけ、今はもう平気よ」
 綾美は鷹揚に答えると、フェイスペイントを落としていない英司の顔を見ながらこう言った。
「顔のそれ、落とせば?」
 英司には綾美の言った一言が何を一瞬言っているのか分からなかったが、すぐに自分の顔に塗られたフェイスペイントのことを指して言っている事だと分かった。
「ああこれね、水が手に入ったら落とすよ」
 英司が照れくさそうに呟きながらバックパックを背負い、綾美と一緒に理奈子たちの後へと続こうとすると、美鈴がただ一人その場に立ち尽くしている事に気付く。さっきの言葉がまだ響いているのだろうか、男勝りな所があるとはいえ、やっぱり美鈴も女の子なんだなと綾美は思った。
「行こう美鈴。房人達に悪いよ」
 綾美が声を掛けると、美鈴は「え?うん」と曖昧な返事をして、駆け足で綾美達と別棟へ向かった。
 別棟に続く通路は、さっきまで英司たちが居たロビーと比べると遥かに物が片付けられて、剥がれ落ちたコンクリートの破片などは通路の隅や近くの小部屋などに纏められている。お陰で廃墟とは思えないほど歩きやすかったが、建物の老朽化は確実に進んでいるらしく、上を見上げると天井のひび割れが毛細血管のように張り巡らされている。しかも薄暗くて細長いから、何か巨大な生物の消化器官みたいな通路だった。
「ここに住んでいて、怖くないのか」
 天井に入ったひび割れを見ながら房人が呟くと、コウタローが聞き返してきた。
「何が?」
「天井のコンクリートとか落ちてきたりして、下敷きなったら怖いとか。そういうのはないのか?」
 コウタローは一旦考え込むような顔をすると、頭を掻きながらこう答えた。
「特に感じた事はないなぁ。雨風は凌げるし、特に不安は無いよ」
「そうか」
 房人は静かに頷いた。建物は朽ち果てているとはいえ、建物の中には直せば使える家具や生活用品がまだたくさん残っている。それも上等な。いわゆる住めば都というやつだろう。
 三階に上がり、別棟に通じる渡り廊下に出ると、廊下の窓から差し込んでくるオレンジの西日が、廊下の中を満たしていた。渡り廊下にはホテルの廊下と異なり赤い絨毯が敷かれず、そこだけ白いリノリウム張りで、西日を反射して夕方の雲のような色をしていた。窓の外を見ると、丁度太陽が山の谷間に沈もうとしている所だった。
 美鈴が太陽を直接見ると、視界が一瞬オレンジ色に染まって、目の奥が鈍く痛んだ。美鈴は瞑って、しばらく瞼の裏側で光を感じていると、何かに包まれたような不思議な感じがした。そうすると、自分の奥で固くなっていた何かが、次第にその力を緩めて、元に戻っていく。そうしている内に、彼らは渡り廊下を渡り終えて、別棟に入った。
 別棟に入り、さらに最上階へと上がってゆく。どうやら彼らが始めに入った建物は、本館ではなく別館であったらしい。こっちの建物は廊下の長さと幅が少しだけ広く、部屋数も向こうの建物より多かった。
「どこまで行くの?」
「この上よ」
 綾美が聞くと、理奈子は簡単に答えた。壁に目を向けると、「この上展望ロビー」と書かれたブラスチックの板が貼り付けてあった。そのまま展望ロビーに繋がる階段を上ってゆくと、一歩一歩オレンジ色に満たされた空間の気配が強くなってゆく。きっとこのホテルは「本館展望ロビーから見える夕日は最高です」みたいな売り文句で営業していたに違いない。
 階段を登りきって展望ロビーに出ると、周囲は全て淡いオレンジ色に塗り潰されていた。目前の窓ガラスからは西日が嫌というほど差し込んで、周りにある調度品の持つ味や雰囲気を全て侵食し、すべてを台無しにしている。これでは夕日の差し込む空間を味わうというよりも、ただ人を不快にさせるだけではないだろうか。そんないいかげんに作られたオレンジの空間の中に、汚れたソファに腰掛けながら、煙草を吸っている窓の向こうを眺めている政彦がいた。恐らく何かあったとき、何時もこんな風にして何か考えているのだろう。一人になって、何か考えるのは大切な事だ。
「政彦、来たよ」
 理奈子が声をかけると、政彦は身体をビクッとさせて理奈子達の方を向く。
「驚かすなよ」
「政彦は何かあるとすぐにここに来るよね」
「いいだろ、別に」
 理奈子が微笑むように答えると、政彦は照れくさそうに呟いた。そしてそのまま房人達の方に視線を移し、こう続けた。
「そちらさんは、背の低いやつのお供?」
「悪かったな、背が低くて」
 英司が不満そうに口を挟んだが、すぐ後ろにいた房人が「気にするな」と言った感じで肩を叩くと、一歩前に踏み出た。
「俺は原房人。少しの間だけ世話になるよ」
 房人は臆することなく堂々と名乗り出ると、そのまま政彦に握手を求めた。その姿はまだ十六歳の少年には似つかわしいほど、落ち着き払った姿だった。
「俺は二見政彦。よろしく」
 政彦は少し躊躇した様子を見せると房人の手を握った。分厚い掌の感触がお互いに何か隠し事をしているみたいで違和感があったが猜疑心や敵意は感じなかった。
 二人が手を離すと、房人が目を少しだけ動かして、「次はお前だ」と指図する。美鈴はいきなり見えないバトンを投げられた事に一瞬戸惑うと、すぐに平静を装って口を開いた。
「アタシは入間美鈴。よろしく」
 そこまで言いかけると、理奈子が満足そうな眼差しで美鈴の目を見たのが分かった。美鈴は語尾を濁らせるようにして口を噤むと、そのまま綾美に見えないバトンを手渡した。
「私は小林綾美。色々とお世話になるね」
 綾美が名乗り終えると、美鈴は彼女の事が少しだけ羨ましいと思った。明るくて誰とでも仲良くなれる性格だから、こんな時でも何時も通りで居られる。だから英司みたいな変わり者とも仲良くなれたんだ。
「みんな始めまして。私は早川理奈子、理奈子でいいわ」
 理奈子は綺麗に最後を取りまとめると、再び美鈴のほうに首を向けた。その視線が美鈴の神経の一番弱い所をなぞる。耐え難い苦痛に替わって喉の辺りまでやってくる。
「さっきからジロジロ見ているけれど、アタシの顔に何か付いてる?」
 美鈴が思わず口を開く。すると理奈子が意外そうな、少し間の抜けた声で聞き返す。
「どうかしたの?私は別に何も」
「うるさいんだよ!」
 美鈴は大声で叫ぶと、そのまま肩で風を切るようにして展望ロビーを出た。乱暴にトレッキングシューズで床を踏みしめて階段を下っていく音が、オレンジ色の空間に染み込んで消えてゆく。美鈴の気配が消え去ると、辺りはしんと静まり返った。
「やれやれ、最近出ないと思ったら」
 房人が半ば呆れ地味に呟いたが、その顔は彼女を心配しているような顔だった。その僅かな変化に気付いた英司が、房人に尋ねる。
「何かあるのか?美鈴には」
 英司に質問された房人は一瞬たじろぐと、仕方ないと言った具合に溜息を吐いて、「一応言っておくか」と一言前置きして語りだした。
「あいつは自分の感情をコントロールできなくなる事があるんだ。それも突然に。倫理や道徳より先に、自分の動物的な部分が優先されて行動してしまう事がある」
「そんな、どうして?」
 重ねて綾美が質問すると、房人は雑嚢に入れたライターとハイライトイナズマメンソールを取り出して火を点けた。どうやらタールとニコチンが入らないと話せない話題らしい。房人は一回煙を吐き出してからこう答えた。
「あいつさ、小さい頃から虐められていたんだよ。親父さんが日本人じゃないとかなんかで。突然感情を上手にコントロール出来なくなっちまったんだ。そんなんだから余計にからかわれてさ、何回も何回も周りとトラブルを起こして。それの繰り返しが何年か続いたんだ」
 房人はそのまま窓際に移ると、窓の外に広がる、夕焼けの空と山の稜線の境目を眺めながら、煙草を咥えながらこう続けた。
「それからしばらくすると、お袋さんが他の男の所に行っちまって、一人になったアイツは物取りなんかで食いつなぎながら俺達の村にやって来たんだ。それが三年くらい前の頃だったかな?始めは口数も少なくてすぐに怒り出すような奴だったけれど、皆と過ごす内にだんだん今の性格になっていったよ。でも、心に付いちまった傷は二度と消えないだろうがな」
 房人がそこで終えると、英司は自分の中にいる美鈴と、房人の口から語られた美鈴を照らし合わせてみたが、とても同じ人間とは思えなかった。もし房人の語った美鈴のままだったら、きっと男勝りな所があって明るい美鈴は生まれてこなかっただろう。
「それはいつ聞いたの?」
 綾美が尋ねた。房人はハイライトイナズマメンソールを壁に押し付けて消すと、割れたガラスの隙間から吸殻を捨てて、こう答えた。
「去年に今みたいにあいつが怒り出した時にね。このことを知っているのは俺と寺田さんに、ほんの一部の人間だ」
 房人は全てを語り終えると、近くのソファに腰掛けた。すると、綾美が稲妻に打たれたようにして、展望ロビーの入り口へ向かう。
「どうしたの?」
 英司が綾美を呼び止める。
「美鈴の所に行かないと、放っておけないよ」
 綾美は一言言い捨てると、そのまま階段を下っていった。オレンジに染められた空間には、割れたガラスから冷たい空気が吹き込んで来て、彼らの間を通り過ぎてゆく。
綾美が展望ロビーに通じる階段を下り終えると、美鈴は入り口の反対側の、丁度夕日の光から陰になっている場所で壁に寄りかかっていた。突然切れて、自分の下らない行動で皆に迷惑をかけてしまった事を悔やんでいるのだろう。本当に情けない話だ。情けなさ過ぎて、余計に自分に腹が立つ。そういった思いが美鈴の中を駆け巡って、背中からじんわりと染み出てくるのを綾美は感じながら、綾美は口を開いた。
「美鈴、大丈夫?」
 綾美は出来るだけ美鈴を刺激しないよう言い方で声をかけた。美鈴は首を少しだけ動かして、静かにこう答える。
「ごめん綾美。ちょっとキレちゃって」
 美鈴は自嘲気味に答えると、力なく鼻で笑った。今の美鈴には、きっと自分が世界で最も愚かで下らない人間に思えているはずだ。そしてしばらくすると、自分が殺したいほど憎らしく思えてくる。考えられる最も残酷な方法で、最も苦痛を長続きさせられる方法で、自分を殺したい。
「馬鹿だよね。アタシって、自分で怒り出して、しばらくするとこうして笑っていられるなんてさ、本当に頭おかしいよ。死んだ方がマシだよ」
「聞いたわ、あなたの事」
 美鈴が笑いがら続けようとすると、綾美が彼女を制すようにして言った。すると美鈴は口元から笑いを消して、次の言葉を待つ。
「貴方のお父さんが日本人じゃない事も、その事で虐められていたことも聞いたわ」
「誰からなの?」
「房人から」
 綾美がそう告げると、美鈴はすぐさま鬼のような形相になって、階段の入り口に向かった。その人とは思えぬような形相に思わず綾美は恐怖を覚えたが、目の前に居るのは美鈴なんだと自分に言い聞かせて、引きとめようと彼女の身体にしがみ付いた。
「離して!あのクソ野郎殺してやる!」
「待って、落ち着いてよ」
 綾美は必死に彼女を食い止めようとするが、美鈴の力に圧倒されそうだった。きっと彼女の中の狂った何かが、そうさせるのだろう。必死に食い下がっても、ズルズルと戻されてゆく。すると、すぐ背後の入り口から、階段を降りてくる足音が聞こえてくる。
「殺したければ勝手に殺せばいいだろう。最も、お前にそんな度胸があるかどうか知らないけれど」
 降りてきたのは英司だった。ゆっくりと一歩一歩階段を降りてくると、猛獣が虫けらでも見るかのような目つきで、美鈴の目を射抜く。その眼力に美鈴がたじろぐと、英司はさらにこう続ける。
「自分で自分を特別扱いするなよ。ここに居る全員、誰にも見せたくない過去を持ってるんだ。それを誰かに言われたからって、殺してやるなんて言って良い言葉かよ。しかもこれから命を互いに預ける仲間に対して、お前の中の信頼とかそういうものはその程度なのかよ」
「知ったような事を!」
 英司の言葉に美鈴は完全に我を失った。美鈴は綾美を振り払い、拳で彼の顔面を殴りつけようとしたが、英司は小柄な体格に似合わない握力で美鈴の手首を掴んで、こう続けた。
「お前の事情は聞いたよ。房人だって、お前の闇を暴いてやりたくて俺達に言ったんじゃない。皆がお前を気遣ってくれると思って言ったんだ。現に、綾美はこうしてお前の元に駆けつけてくれたじゃないか」
 英司が言い終えると、美鈴は急にへたり込んで、目元に浮かんだ涙を拭い始めた。そうだ、自分は昔の自分じゃない。今は仲間がいる。助けてくれたり、時には叱ってくれる仲間が。そう思うと、知らないうちに氷の様になっていた心の芯がゆっくり解けて、替わりに熱い何かが噴出してくる。綾美に支えられて美鈴がすすり泣き始めると、房人たちが階段を降りてきた。
「どうやら、直ったみたいだぜ。お前の連れ」
 政彦が憎まれ口のように漏らしたが、房人はそれを無視して美鈴の側に寄って、手を差し出した。
「落ち着いたか、お前の知られたくない所を言ってしまって済まない」
「いいよ別に、誰にだってそういう時はあるよ・・・」
 美鈴が何時もの口調に戻ると、房人は鼻で笑って「ならいい」と呟いて、彼女の手を取った。そして立ち上がる頃にはすっかり何時もの美鈴に戻っていた。ようやく一件落着と言った空気が流れ始めたころ、コウタローが涙に濡れた美鈴の顔を覗きこむ。
「姉ちゃんさ、平気?」
「平気だよ。ありがとう心配してくれて、アタシもさっき、あんな言い方してごめんね」
「いいよ、気にしなくても」
コウタローが笑顔で答えると、美鈴は付いていない膝の埃を払う。
「私もごめんなさい。貴女の神経に障るような事して・・・」
「いいから、いいから、この事はもう無しにして」
 理奈子が謝意を示すと、美鈴は笑顔でそれを払いのけた。

 英司たちが休息を取る為に用意された部屋は、展望ロビー下の本館で恐らく一番値段の高かったであろう書院造の部屋で、それを二つ借りた。ひとつは英字と房人に、もうひとつは綾美と美鈴が、それぞれ入った。
 窓の外からは山々に沈んで行く夕日が一望できた。部屋の大きさは十二畳ほどあり、床の間にはボロボロの掛け軸や欠けて埃だらけの焼き物が置かれ、テレビや冷蔵庫が使えない以外は最高の部屋だった。そして何より最高だったのは、その部屋だけが他の部屋と異なりちゃんと綺麗に片付けられていた事だ。畳の日焼けや障子の破れなどはあったが、それでも、疲れた体と心を落ち着かせるには十分すぎる部屋だった。
「何だかんだで、結構疲れたな」
 畳に腰掛けた房人が漏らすと、彼は雑嚢から銃のクリーニングキットを取り出して、銃の分解整備を始めた。さっきまで警戒していたのに、すっかり寛いでいる。
「一日中休み無しで歩いたんだ。そりゃ疲れるよ」
 洗面所で顔のフェイスペイントを落としながら答えた。水道が出ないから、政彦たちに断って綺麗な水を貰って、フェイスペイントを落とし終えた所だった。顔をタオルで拭いて鏡を見ると、綺麗になった自分の顔が写っている。すると、入り口のドアをノックする音がした。
「誰だい?」
 英司がドアの向こうに向かって聞いた。
「俺だよ」
 帰ってきたのはコウタローの返事だった。恐らく政彦か理奈子の使いなのだろう。英司はコウタローにドアを開けて顔を出すように言った。
「何か俺達に用かな?」
 房人が分解整備をしながら、ドアを半開きにして中の様子を窺っているコウタローに声を掛けた。
「政彦が手伝ってくれって呼んでいるよ」
「すぐに行くよ」
 英司が答えると、房人も分解整備の手を止めて、英司と一緒に部屋を出た。二人はコウタローに先導されて、政彦の居る下の階へと向かう。
 英司が廊下の窓から外を眺めると、太陽はすっかり西の空へ沈んで空を濃紺に染め、割れたビスケットみたいな半月が輝いている。
 英司と房人がコウタローに案内されて着いた場所は、本館の一番下にある。ホテルの送迎用マイクロバスや、食品や旅館で使う物を納入しにきた車を停めるための「業務車専用」と書かれたプレートのある駐車場だった。と言っても既に旅館の業務車や冷凍されたマグロを運ぶ保冷車の姿は無く、車を停めるために等間隔で区切られた白線の中には、山から切り出してきた薪が大量に積まれていた。そしてその一番奥には、薪を切り出す道具の倉庫代わりになっている日産・ADバンが一台と停まっている。運転席と助手席のドアに「ホテル・涼心館」とプリントされているから、恐らくここの業務車だろう。かつてはこのホテルも行楽シーズンになれば様々な客が宿泊し、従業員達が慌しく働いていたのだろうが、今では賑やかさの余韻さえ消えて、森の中に佇む巨大なコンクリートの塊だ。特に濃紺に染まった夜空を背にしてみると、まるで何かの巨大な墓標のようだ。そんな中に、政彦と理奈子、コウタローの三人は住み着いている。ここには彼等三人を引き寄せる何かがあるのだろうか。
 駐車場の真ん中では、政彦が鉈で割った薪をビニール紐でまとめている所だった。近くに鉈と切り株代わりのビールケースが置いてあるから、ここでひたすら薪割りをしていたのだろう。紐でまとめられた薪は他にももう一個あり、これを運ぶ為にコウタローに自分達を呼ばせたのだろう。
「連れてきたよ」
「おう、ありがとう」
 政彦は鷹揚に答えると、纏めた薪を両手に持って立ち上がると満面の笑みを浮かべてこう続けた。
「まずはこれを調理場に一旦運んだ後、風呂場を綺麗にするから手伝ってくれないか」
「はいよ」
 房人が答えると、彼らは理奈子の居る調理場に向かった。そこでは理奈子と綾美が、美鈴を連れて夕飯の仕度をしている最中の筈だ。
 調理場は駐車場から程近い本館の裏側にあって、入り口からは竈の煙と味噌で何かを煮込む匂いと、木の焼ける匂いが入り混じった。どこか家庭的で人の心を落ち着かせる匂いが流れだしていた。入り口を潜ると、近くの手製の竈に乗せられたアルマイトの大鍋から湯気と熱気が沸き立ち、辺りを充満させている。その鍋の中には野菜の他に、豚の内臓らしき物がぐつぐつと煮えていた。
「あら、薪を持ってきてくれたの?」
 鍋の近くのまな板で青菜を切っていた綾美が彼らに声をかけた。
「ああ、持って来たよ」
 英司が答えると、アルマイト鍋の中を覗きこんだ。
「モツの煮込み作ってるの?」
「そうよ、新鮮な豚もつが手に入らないと出来ないから。丁度血抜きをしていた豚が一頭在ったから、それで作ったの」
 英司は素直に頷くと、綾美と初めて会った夜の事を思い出した。あの時出たもつの煮込みはミレナが作ったものだったが、彼女は自分のより綾美の煮込みの方が美味しいと言っていた・・・。
「美味しいから期待してね」
 綾美が呟くと、英司は「ああ」と生返事を返した。彼女もきっとミレナの事を思い出している筈だろうから、その事にはもう触れない事にした。すると、隣から突然焦げ臭い英司の鼻先を掠める。視線を臭いのした方に移すと、美鈴が網で焼いているナマズ相手に菜箸で四苦八苦しているところだった。
「大丈夫か?」
 その様子を眺めていた房人が呆れたような口調で聞いた。
「大丈夫だよ。アタシはあんまり料理に向いていない人間だけれど、コツさえ掴めば」
 美鈴はやっとの思いで網の上のナマズをひっくり返すと、火に当たっていた側の部分が見事に黒焦げになっていた。その出来栄えに、思わず美鈴は表情をゆがませた。
「俺はちょっと残ってもいいか?」
 房人が漏らした。
「なんで?」
 英司が訊き返した。
「美鈴にいろいろしないといけないと思ってね。改善の余地ありだから」
「改善の余地ありって」
 声を耳にした美鈴が不満そうに漏らしたが、房人は聞き流した。
 突然の提案に政彦は少し考えたが、「まあいいよ」と小さく答えた。
「じゃあ、俺らは風呂掃除に行くよ」
 英司が答えて、彼らは風呂場に向かった。

 風呂場は本館の半地下にあり、光の届かない場所にあるせいで浴室と脱衣場は真っ暗だった。これではここに来た意味が無いなと立ち尽くしていると、政彦が脱衣所の壁にある照明のスイッチを入れると、天井の汚れた蛍光灯が三回ほど点滅して、部屋の中を照らし出した。
「電気がまだ生きているのか?」
 英司が尋ねた。
「一応ね、屋上の太陽電池が生きていてさ、電気は点くには点くんだ」
 風呂場は英司たちが寝泊りに使う部屋同様、ある程度物が片付けられて、多少の汚れはあるものの整理されていた。十二畳ほどの浴室にある湯船はコンクリートを使った素っ気の無いデザインの物だった。昔は温泉が湧き出ていたのだろうが、今では水垢が付いた唯のコンクリートの穴ぼこだ。その反対側には、鏡と蛇口、シャワーがあるだけのこれまた簡素な洗い場があるだけで、リゾートや安らぎの空間を演出するものが全く無い。これでは一般家庭の風呂を大きくしただけに過ぎない。違う所があるとすれば、湯船に満たされているのが普通のお湯か、大地から湧き出た温泉かという事ぐらいだ。
「どうやって湯を沸かすんだ?」
 デッキブラシを持った英司が湯船の底を覗き込みながら尋ねる。
「隣のポンプ室のバルブを開ければ、熱い温泉が流れてくるんだ。凄いだろう」
 政彦は自慢するように答えたが、呆気に取られていた英司は答えなかった。
 建物はボロボロでも、温泉を供給する設備が生きているなんて奇跡に近い。恐らく建物を補修して館内を綺麗にすれば、再びホテルとして営業できる筈だ。
「でもこのまま温泉を流し込んだら湯船が汚くなるから、その前に掃除だ」
 政彦はそう答えると、デッキブラシと水を入れたバケツを持って、湯船の中に入った。浴室はそれ程広くないから、すぐに綺麗になるだろう。終わった頃には、夕飯の用意ができている筈だ。
「ここが終わったら、次は女湯だ」
 政彦が言うと、英司は彼と共に反対側の女湯に向かった。それを見送り終えると、政彦は湯船の、英司は洗い場の掃除に取り掛かった。この面子の中で最年少のコウタローも、普段からいろいろな事を手伝っているのか掃除の手際が良かった。
 四方をコンクリートで囲まれた浴室内に、固い床をブラシで擦る音が規則的に響く。一見汚れていなそうな床も、水をまいてブラシで擦ると汚れが滲んで、撒いた水を茶色く濁らせた。
「なあ、お前ら一体何をしてここまで来たんだんだ」
「頼まれごとをしているんだ。大切な」
「それはあれか、ここに住んでいる俺らにも利益のあるような事なのか?」
 政彦の質問に、英司は少し考えた。ここで自分達の目的を話しても問題はなさそうだが、べらべらと他人に話すのは軽薄な気がした。
「後で話す。今はちょっと言えない」
「わかった。あとで聞かせてくれ」
 それから二人は、黙々と作業を続けた。

 
 
 二人がが風呂掃除を終えて戻ると、夕食が出来上がった所だった。折角なので、作った料理を本館のロビーまで運んで、そこで夕食を摂ることにした。並んだ献立は綾美特製のモツの煮込みと、美鈴が四苦八苦しながらも焼いた川魚の塩焼きに、ここで取れた野菜の炒め、握り飯だった。みんながそれぞれの席に着くと、ここで一番偉い人間である政彦がこう言った。
「それじゃ、いただきますか」
 それに少し遅れて、英司たちも遅れて「頂きます」の挨拶を口々に言った。そうすると不思議な事に猛烈な空腹感が襲ってきた。
 早速英司は自分の小鉢にモツの煮込みを盛り付けた。食器は使われていないホテルの物で、英司達が今までに使った中で一番豪華なものだった。本来ならお造り等を盛り付けるものだったが、料理の盛り付けに無頓着な彼らにはどうでもいい事だった。
 味噌でじっくり煮込まれたモツは、口の中に入れると、味噌の風味と一緒に煮込んだ根菜の香りが一瞬口の中でして、噛んでいくと独特の歯ごたえともつの旨みが味噌と上手く絡み合い、なんとも言えないジューシーな感じがした。一旦飲み込んで今度は中に入っている牛蒡と一緒にモツを口の中に放り込んでみると、牛蒡の歯ごたえともつの食感が上手い具合に口の中で交わる。
「とても美味しいわ」
 英司が感想を述べる前に、理奈子が煮込みの感想を述べた。
「本当に?よかった」
 綾美が嬉しそうに答えた。恐らく相当自身を入れて作ったのだろう。誰かに自分の作った料理を美味しいと言ってもらうのは、何にも変えられない最高の栄誉だ。
「こりゃたまげた。絶品だ」
 房人も口をそろえて言った。
「結構上手く作るね。凄いよ」
「良かった。作った甲斐があったわ」
 美鈴が答えると、綾美は嬉々とした表情で答えた。前に座っている政彦とコウタローも、口々に美味い美味いと言いながらモツの煮込みを食べてゆく。
「英司はどう?」
 不意に綾美が英司に聞いた。すっかり周囲の反応に気を取られていた英司は、いきなりの出来事に慌ててこう返す。
「最高に美味いよ。野菜の旨みとかが良く出て」
 英司の取って点けたような反応に、美鈴が白い視線を彼に送りながらこう漏らす。
「最高に美味いって、実はイマイチなんじゃないの?」
「バ、バカ言え、そんなこと無いだろう」
 英司が慌てて否定すると、綾美も続けてこう言った。
「やめてよ、英司をそんな風にして冷やかすのは」
 綾美のその大真面目な言い方が笑いのツボに入ったのだろうか、美鈴は笑いを堪えるようにして「ごめんごめん」と平謝りした。
「全員集まった所で聞きたいんだが、お前ら何の目的でこの辺りをうろついていたんだ?」
 美鈴の焼いた川魚を食べながら政彦が彼らに質問した。するとその場の和やかな空気は一変して、重苦しいような感じになった。彼らは顔から笑顔を消し去って、昼間までの張り詰めた顔に切り替わった。
「ちょっと話がややこしくなるんだよな」
 房人が言いづらそうに前置きを漏らした。しばらく台詞を考える為のほんの僅かな時間が流れると、英司がこう口を開いた。
「俺達、ちょっとヤバイ用事を抱えているんだ」
「ヤバイってことは、怖い人たちに命を狙われるような事か?」
 政彦が再度質問する。
「そうだな、そんな所だ」
「ちゃんと話してもらおうか、そうじゃないとこっちが困るんでね」
 政彦は英司達の顔を見ながら、さらに続けた。その更なる要求に、英司が静かにこう続ける
「俺達、実は様々な武装勢力の情報を届けてる最中なんだ。綾美の村の人から言われて、一旦房人達の村に着くと、そこで自分達が追跡されてることに気付いたんだ」
「それで?」
「房人達の村を離れて、今東京に向かっている途中」
 英司はそこで説明を終えた、もっと詳しく話すことも出来たが、あまり詳しく話しても状況が自分達へ有利に動くとは思えなかったので、簡単に説明を終わらせる事にした。
「運び屋にしては随分のんびりした奴らだな」
 政彦が彼らを疑うような目で続けた。やはり初めて会ったときに始末しておくべきだったと思っているのだろうか、もし政彦たちが自分達の敵と接点を持っていたら、英司達は自分から罠に掛かったことになる。だけれど、あの時の政彦や理奈子からは、初めて接する何かに対する警戒心は在っても、それが何かに繋がっているという感じはしなかった。第一、彼らはこうして自分達を迎え入れてくれたのだ。
「大丈夫よ政彦、彼らは私達の敵ではないわ」
 黙りこんだ英司を見た理奈子が助け舟を出すように言った。英司達を引き止めた張本人は彼女だから、自分でした事に責任を持つのは当然の事だ。
「敵じゃないのは、確かだよな」
 政彦は吐き捨てるように言った。そして近くに置いた湯呑の中に入れた水を全て飲み干すと、さらにこう続けた。
「むしろ俺達の味方かも知れない」
「どういう事なの?」
 美鈴が意外そうに尋ねると、政彦は彼女の方を見て自信ありげに答えた。
「俺もお前らとはちょっと違うが、連中に命狙われているんだ」
「何でまた?」
「武装勢力の少年兵だったんだ。今は違うけれど」
 政彦は口元に笑みこそ浮かべていたが、目は辛い過去に直視する時の、どこか遠くを見つめているような感じだった。
「とにかく、お前らが自分達の身の上を話してくれただけでもありがたいよ。ずっと心に引っかかっていたんだ」
 政彦はそこで言葉を終わらせて、目の前の握り飯に齧り付いた。きっとその話題には触れたくないのだろう。英司達もこれ以上彼のことに触れる事はやめておくことにした。ここで無理に聞いても、彼らにとって不利益なだけだ。
「まあとにかく、早いとこ食べちゃおうよ。折角の料理が冷めちまう」
 政彦は言い訳がましく急かすと、半分残っていた握り飯を貪った。

 
 夕食はそれから小一時間ほどで終わった。アルマイト一杯にあったモツの煮込みはあっという間に全て無くなり、美鈴の焼いた川魚に野菜のお浸しも英司達の胃の中に消えていった。全て食べ終えると、それこそ鱈腹食べたと言う満足感に一日の疲れがドッと噴出してきて、猛烈な睡魔が彼らを襲ってきた。
 英司と綾美は食べ過ぎて動けなくなった房人と政彦を尻目に、食べ終えた食器を纏めて調理場へと持って行った。モツの煮込みを入れた鍋も運んでくる時は重かったのに、戻すときは拍子抜けするくらい軽くなっていた。あれだけの料理が全て胃の中に消えてしまったなんてちょっと信じられないなと英司は思った。
 調理場に着くと、理奈子が皿洗いの水を持ってくると言って近くの水ために出掛けていった。二人が見送ると、綾美が突然こんな事を言い出した。
「今日はまた人を助けたね」
「え?」
 英司は自分でも間抜けだと思うくらいの返事を返した。あまりにも前後の文が抜けているので、一瞬何のことを言っているのか分からなかったが、おぼろげにではあるが綾美が何のことを指して言っているのか分かってきた。
「美鈴の事だよ」
「ああ。あれか、別に深い意味は無いんだ。話し声は上に全部聞こえていたし、これから一緒に行動するのに、何か問題が残っても困るから」
 ハハハ、と英司は力なく笑って、早い所この話題を逸らそうとしたが、綾美は構わずにこう続ける。
「英司ってさ、なんか初めて会った頃と、なんか変わったよね」
 英司は笑い声を止めて、真顔で綾美の顔を見つめ返す。初めて会った頃と変わったなんて、全く予想していなかった言葉だ。
「変わったって、どういう風に?」
「何て言うか、初めて会った頃は、何だ怖くて近寄りがたいみたいな感じで、どこか相手を威嚇しているみたいだったけれど、今は誰とでも仲良く話せるじゃん」
「そうかな。俺はあんまり意識してないけれど」
「意識していなくても、私にはそんな感じだよ。角が取れて丸くなったみたいな」
 角が取れて丸くなった。英司はその言葉を心の中で言い返して、自分の中に在るであろう何かを掴んでみた。その何かは固い球体で、彼の掌にぴったりの大きさだ。強く握ると、力が全てその球体に吸い込まれる感触がなんとも心地よい。
「あんまりそういう実感はないな」
「実感は無くても、必ず変わっているよ。英司って本当は優しくて明るい性格なんだと思うよ」
「心優しい人間は、ほんの僅かな期間に何人も人殺しはしないよ」
「そんな事ないよ」
 英司が自嘲すると、綾美は闇を振り払うように口を挟んだ。不意を突かれた英司は一旦頭の中を真っ白にして、綾身の言葉に耳を傾ける。
「それは巻き込まれた状況が状況だからだよ。お父さんとお母さんを目の前で殺されて、自分が生き残るために必死だったから、しょうがないんだよ」
 英司は返す言葉を失った。何か言い返そうとしても、言葉に表現するのは無理だ。確かに、自分は生きる為に必死だったし、両親を殺した奴らを憎いと思って、何人も殺した。しかし、その後仲間と一緒に行動するようになって自分は優しい人間だと言われても、変な気分になるだけだ。
「綾美はあいつらが憎いと思わないの?」
 今度は英司が聞いた。
「何?」
「山内さん達やミレナを殺した奴らの事だよ。目の前にいたら殺してやるとは思わないのか?」
「それは」
 綾美は口籠った。確かに自分を育ててくれた人や唯一無二の親友を奪った連中は許す訳にはいかない。だけれど、もし憎しみに任せて何人でも人を殺したら、それは一体何に成るのだろう?
「確かに許せないし、目の前にいたら殺すかも知れない。でも、どこかでその連鎖を止めなきゃいけないと思う。手を下ろす人間が、どこかで」
 綾美は一つ一つの言葉に心を込めるような言い方で話した。英司は小さく溜息を漏らすと、眠るような声でこう答える。
「そうか、分かった」
 そのまま英司がその場を立ち去ろうとすると、綾美が慌ててこう言った。
「でも、英司はいい人だよ。誰かを気遣ってあげられるし、誰かを信用する事だって出来る。今は人殺しかもしれないけれど、本当は優しい人だから」
 その言葉に、思わず英司は足を止めた。本当は違う。残酷な人殺しなんかじゃない。もっと優しい人間だ。その言葉が彼の中で大きく反響する。
「俺、やらなきゃいけない事があるから、これで失礼するよ」
 英司は言い捨てると、調理場を出た。


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