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文字数 4,926文字

 英司と綾美は、今頃になって一機のヘリコプターがこの辺りの上空を激しく飛び回っていることに気が付いた。隠れている四階立てのアパートの一階踊り場から頭を出して上空を覗き込むと、緑色のヤモリにプロペラを取り付けたみたいな姿の隊のヘリが、低高度で這い回るように飛んでいる。
「何かな?さっきまでは飛んでいなかったのに」
 綾美は不安げに漏らしたが、英司は答えなかった。あんな風に飛び回られては、この辺りに何か居ると敵に教えているようなものだ。
「ここに居て、すぐ戻る」
 英司はそう一言告げると、アパートの非常階段を登った。四階の踊り場まで一気に駆け上がると、双眼鏡を使ってまず西側の方を見た。建物の間から黒煙が上がり、爆発音と銃声が絶えることなく鳴り響いている。恐らく敵と自衛隊の主力部隊同士がぶつかって、勢力が拮抗している状態なのだろう。さっきよりも戦闘が激しくなっているのが遠目にも解かった。向こうの方に居る房人達は、あの状況を切り抜けられるだろうかと英司は不安になると、二時間ほど前に聞いた、敵がこっち方面にも展開しているという連絡を思いだして、双眼鏡を北の方角に向けたが、敵部隊らしき車列は確認できなかった。西側に展開している部隊の支援に加わって、追跡を止めたのだろうか?英司は双眼鏡を仕舞って一階踊り場まで戻ると、綾美に吐き捨てるようにこう言った。
「敵は追ってきてない、今のうちに逃げよう」
 綾美はその言葉を聞くと、黙って英司の後に続いた。
アパートを出て裏の細い路地に出ると、地図とコンパスを使って現在位置を確認した。敵の追跡に気付いてから、出来るだけ身を隠せるルートを取った為なのか、予想していたよりもかなり東側に寄ってしまった。どこかで西へ方向転換しないといけない。都会に来た事が無いとは言え、英司は道に迷ってしまった自分の未熟さを呪いたくなった。
 すると、目の前に見える通りに荷物を担いで逃げる避難民の姿が見えた。まだこんなに残っていたのかと感心していると、近くで激しい爆発音が聞こえた。英司と綾美が思わず身を竦めると、「早く逃げろ!」という住人の叫び声が聞こえてきた。あの爆発は迫撃砲弾か何かだろうか?もしそうなら、この近くで自衛隊と敵が交戦しているのかもしれない。それともこっちに自分達が逃げたのを海下が連絡して、迫撃砲で炙り出そうとしているのだろうか?英司はしばらくその場に留まり考えたが、もっともらしい結論は出なかった。彼はもう一度路地の角からミラーを使って辺りの様子を伺うと、後ろに居た綾美にこう言った。
「俺が合図したら一気に向こうの壁までダッシュして、いいね?」
 英司の言葉に、綾美は頷いた。英司は再び路地から手鏡を出して周囲を確認して、異常が無い事をもう一度確認すると、避難民が居ない事を確認して英司はこう叫んだ。
「今だ!」
 その声を合図にして、二人は道路の向こう側に向かって走り出した。距離にしてほんの一〇メートル程度ではあったが、英司にとってはその道路が大地を分かつ切れ目のように思えた。綾美も必死で道路を横切ったが、焦る気持ちのせいなのか爪先が道路に引っかかり、そのまま前に倒れてしまった。綾美の悲鳴が小さく上がる。
「大丈夫?しっかりして……」
 英司がそう呟きながら綾美の手を取ろうとした時、どこかで聞きなれた狙撃銃の発射音が聞こえた。英司がその音に気付くと綾美の右手を握った左腕に何かが当たって、火花が散ったように熱くなるのが解かった。それが収まると、血が吹き出る感触と共に猛烈な痛みが脳天に突き上げてくる。
「英司!」
 英司の負傷に気付いたのは綾美だった。綾美は素早く立ち上がると、半ば呆然としている英司を道路の向こう側の路地に押し込んだ。
 
 六〇メートルほど離れた民家の二階から、海下は英司達が建物の陰に隠れる様子をスコープ越しに眺めていると、海下はチッと舌打ちを小さく漏らして、銃のボルトハンドル引いた。迂闊だった。あいつの姿を見た途端に感情が高ぶって正確な射撃が出来ずに急所を外すなんて。比較的近距離だったせいで、楽に命中するだろうと気楽に考えていたのかもしれない。とにかく、二度も英司を仕留められなかったのは彼女にとって大きな失態だった。もしこのまま生きて逃がせば、私は一生救いの無い所に居なければならない。そこは絶望と無力感だけが満ちていて、私を助けてくれるものは何一つとして無い。私はそこで気が狂いそうな程醜悪な自分に苦しめられながら、遊離した状態で歩き続けなければならない。そこまで考えた海下は静かに息を吐いて、気持ちを出来るだけリラックスさせた。落ち着け、今の私は自分の経験不足から取り乱しているだけだと言い聞かせたが、その内側にある自分の真の姿を覆い隠す事はできなかった。
 すると、部屋の隅で小さくなって震えている六歳位の少年の視線に気付いた。彼は彼女がこの家に乗り込んだ時、外で何が起こったのかを確かめる為に窓から頭を出していた所を、無理矢理部屋に引きずり込んだのだが、その時に狂人の様な海下の形相を見てすっかり怯え込んでしまったらしい。少年は何時自分が殺されるかも分からない顔をして、ただ呆然と海下の目を見つめていた。そしてその少年と目が合うと、海下は不思議な安心感を覚え、不器用な言い方でこう言った。
「悪かったね、驚かして」
「何なのお姉さんは?悪い奴なの?」
「そうだよ」
 海下はいかにも無気力な言い方で少年に告げると、そのまま部屋から出て行った。背中で少年の視線を感じていると、自分にもかつてあんな時期があったことを思い出して、また胸の奥が締め付けられるような感じになった。
 彼女が生まれた数年後に、太平洋を舞台にした米中戦争が始まった。幸いにも彼女の住んでいた地域は戦火に晒される事も無く、戦後は都市部から追い出されてきた人達を受け入れたりして、平穏に暮らしていた。
 しかし彼女が八歳頃の時、家の裏にある倉庫にジャガイモを取りに行っている最中、ドロップアウトした極右のならず者達が村に訪れた。彼らは休息を取りたいといって村人達に食糧と寝床を用意させる事を要求したが、村の代表者であり、反戦活動家でもあった彼女の父はそれを拒否した。彼がその事を告げると、武装グループのリーダーの男が汚い言葉を使って父を侮辱したのを良く覚えている。その後彼らは一旦引き返したが、悲劇はその後に起こった。
 その日の夜、彼女は二つ年下の、彼女の家族が引き取った少年祐希と一緒に百年に一度見れると言う星空を見に行く為に近くの裏山に上った。夜空に浮かんだ星空は石膏画に描かれた天使のように微笑み、彼からの彼女達を祝福しているかのように光り輝いていたのを良く覚えている。しかしその後村に戻ると、彼女の住んでいた家は紅蓮の炎に包まれて、両親や村人達は無残にも殺されていた。一体村に何が起こったのか?彼女は近所に住む朴という韓国人の青年に事情を聞くと、昼間に現れた連中が天誅と称して襲ってきたのだと告げると、そこで力尽きた。非武装を貫いていた彼女の村は何も抵抗も出来ずに、ただ殺されたのだ。戦いを望まずに非戦を貫いてきた人々の、あまりにも無残な最期だった。
 それから何日かしたある日、二人は村を出た。どこかに頼れる親戚も無く、命とほんの僅かな手回り品だけで放り出された海下と祐希は、「あの時見たお星様がきっと自分達を見守ってくれる」という言葉を合言葉に、お互いを励まし合いながら一日一日を必死で生きた。不良少年に絡まれ殴られた日も、道端に落ちた生ゴミを拾って飢えを凌ぐ日々が続いた後、二人は孤児を収容する施設に入り、そこで何年か過ごした。
 しかし海下が十四歳になった時、ある事件が起きた。施設の所長だった男が金銭を巡るトラブルに巻き込まれて何者かに殺されてしまったのだ。その後施設からは働いていた職員達が雲隠れし、住んでいた彼女達だけが取り残されてしまった。二人は再び帰る場所を失うと、祐希は生きる為にストリートギャングまがいの事に手を染め出した。どうしてそんな事をするのかと海下は彼に問い詰めると、祐希は立った一人残った大切な人の為なら何でもしたいと泣きながら答えた。その言葉に胸を貫かれた海下は、ただ言葉にならない気持ちを胸に抱きしめながら、俯く事しか出来なかった。
 その夜、海下は祐希を抱いて寝た。お互いに何も考えずただ本能的に交わっていると、海下は彼が自分にとって特別な存在である事に、柔らかな快楽の中で始めて自覚した。
それから二年程そのような生活を続けていると、付き合いのあった不良少年から安定した生活を送らないかという誘いを受けた。そして彼の紹介してくれた人の所に行くと、二人はその日から自分達の親兄弟を殺したのと同じゲリラの歩兵部隊に入った。平和を愛する彼女の父親が居たらきっと悲しんだだろうが、既に多くの悪事に手を染め、半ば獣と化していた彼女達にとっては別にどうでも良い事だった。そこで射撃という、眠っていた己の才能に目覚めた海下と祐希は、すぐさま狙撃兵の訓練を受けた後、長野を拠点とする部隊に配属された。そこで二人は一流の狙撃兵コンビとして目覚しい戦果を挙げ、ゲリラ部隊の機関紙から取材を受けるほどの有名人へと上り詰めた。
 だが二年前の夏、再び彼女達を悲劇が襲った。山梨と長野の県境にある町の町長を暗殺する任務を終えた二人は、帰路の途中で自分達を回収する味方の部隊が全滅しているのを偶然にも発見してしまった。味方に敵のスパイが紛れ込んでいて、何処からか情報が漏れたのだった。二人は徒歩で味方の基地にたどり着くべく森の中を必死で歩いたが、敵のパトロール隊に見つかり祐希が負傷してしまった。彼の受けた傷は酷く、応急処置では手の施しようが無かった。祐希は海下に自分を置いて逃げるように強く迫ったが、海下は聞く耳を持たなかった。
「嫌よ!だってどんな辛い事があっても一緒に乗り越えようって約束したじゃない。〝きっとどこかでお星様が助けてくれる〟って」
「それはもう無いよ。あの時の俺達ならまだしも、今の俺達は地獄に落ちても当然の身分だぜ。もうお星様は助けてくれない」
「そんなこと無いよ。絶対に……私を一人にしないでよ、お願いだから」
「俺は椿のためになら何だって出来るよ、この世界で誰よりも死なせたくない人だから、命だって差し出すくらいなんとも無い」
 祐希は彼女に向かって微笑みながら答えると、うつろな目で真っ暗な夜空を見つめて、こう続けた。
「もうお星様は見守ってくれないかもしれないけれど、今の俺なら、代わりに夜空からお前の事を見守ってあげられるからさ」
 それが祐希の最後の言葉だった。
 それから彼女は五日かけて味方の基地にたどり着くと、すぐさま部隊の指揮官に敵の規模と位置を報告して、基地指令に反撃の用意をするように迫った。味方の部隊はすぐさま準備を整えて、海下と共に森の中で野営していた自衛隊キャンプに奇襲攻撃を仕掛けた。不意を突かれた敵は反撃もままならず、ただ一方的に殺されるだけだった。例え武器を捨てて命乞いをする奴がいても、彼女は構わずに殺し続けた。もう今の自分には命と人殺しの技術以外何も残っていない。愛する人も家族も全て失った。人の命を奪うだけの存在、それに成り切ったまでだった。この奇襲攻撃と狙撃任務の功績を称えられ、彼女は最大限の栄誉を与えられた後、竹森の部隊に新しいパートナー土居と共に配属された。それが丁度一年半前のことだ。
 海下は家を出て通りに出ると、遠くない所に隠れている英司に再び思いを馳せた。私はここまで来るのに沢山の物を失って、押しつぶされそうな悲しみや苦痛にも耐えてきた。それはお前も同じ事だ。でも、お前はこの一軒で大切な何かを手に入れた。一体どうしてなのだ、お前と私の一体何が違うというのだ。同じ人殺しの筈なのに。
「なんで、どうして?」
 海下は爆発しそうな何かを胸の奥で感じながら、目尻に滲んだ涙をそっと拭った。


                                (第四章に続く)
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