10

文字数 10,906文字

 英司たちの居る村から遠く離れた、埼玉県の東京に近い地域では、少しではあるがかつての先進国らしい景色が残っていた。
 先進国らしい、と言っても電気、ガス、水道などのライフラインは何年も前からストップしたままだし、治安もかつてのシエラレオネやリベリア辺りまで悪化したせいで誘拐や強盗が頻発する無法地帯になり、明かりの全くない夜道を武器も無しに歩くのは自殺行為に等しかった。  
 各地の警察署には何人か警官が住み着いているが、混沌と化した日本社会にはもう意味を成さず、「ただいるだけ」の存在に成り果てていた。だから殺人や強盗が起こっても、話を聞くだけで何もしてはくれない。おまけに一部の警察幹部が地元の反社会集団と癒着して、横領した支援物資を闇市で売りさばく行為や違法な売春斡旋を見逃す代わりに、収賄を受け取り、売春サービスを無料で受けるなどの問題も深刻化していた。だがそんな社会の状況であっても、人々は地域単位でコミュニティを作り、助け合いながら毎日を生き抜いていた。
 埼玉県岩槻市の国道122号の、東北自動車道と平行して走る道路沿いにある運送会社の集配センター跡地の駐車場に、ミネラルグレーのE38型BMW・750iLがぽつんと一台、主を待つ犬のように停車していた。かつてはこの集配センターを拠点に国道122号や東北自動車道を縦横無尽に走り回っていた大小様々なトラックは消え去り、今は舗装のアスファルトの亀裂から雑草が伸びるだけの、型落ちのBMWが駐車するだけの無駄に広いスペースとなっていた。
 その広い駐車スペースの片隅で、ドラム缶の中の焚火に当たりながら、夕食を取っている男が二人いた。一人は背中からAK-47を下げた。この集配センターを根城にしている反社会集団の一員で、もう一人はBMWの持ち主の付き人、中田将太だ。夕食のメニューは、スパムと三つ葉を入れた玉子丼だった。
「調子はどうだい?中田のお兄さん」
 不意にAK‐47を提げた男が食べながら尋ねた。反対側に立って玉子丼を貪っていた中田は食べる手を止めて、視線を男の方へ向けた。街路樹を薪にした火の明かりの向こうで、男の顔が揺らめいている。
「別に何も」
 中田は口元を玉子丼の丼に隠しながら答えた。こういうおっかない人と話すのはどうも苦手だ。仕事上の付き合いで、出来るだけフレンドリーに接しなければならないのに、未だに慣れることができない。
「こっちは色々大変だよ。最近越谷の辺りで若い連中のグループが台頭してきやがって、商売がうまく行かない」
 男は中田の反応に満足しなかったのだろうか、俺には関係ないとでも言いたそうな口調で返した。そのちょっとした反応が、中田の蚤のように小さい心臓にチクリと突き刺さる。
 どうやって会話を繋げていこうかと考えていると、突然錆び付いたシャッターが開く音が響いて、集配センターの中から話し声が聞こえてくる。中から出てきたのは、四十歳くらいの長身の男と、五十過ぎの太ったハゲ頭の男だった。彼ら二人のボスのお出ましだった。
「それじゃあ、また。失礼します。今度は外国の酒を持ってきますから」
「何、そんなに気を使わんでもいいよ。こっちは仕事がやりやすいように取り計らってくれるだけで良いんだから」
 二人は和やかな微笑みを浮かべながらしばらく歩くと、若い男の方が深く頭を下げた。ハゲ頭の男の方も、ワンテンポ遅れて頭を少し下げる。一連の別れの挨拶が終わると、若い男の方が中田を見つけ、こう叫んだ。
「おいナカダ、帰るぞ」
「ナカダじゃなくてナカタです。ボス」
「別にいいだろ、早くしろよ」
 岡谷一俊に急かされた中田は丼の中の玉子丼を全て押し込み、持っていたペットボトルの水で流し込むと、向かいの男に一礼して駐車してあるBMWへと向かった。
「エンジンを掛けておけ、すぐにお台場のひゅうがに戻るぞ」
 岡谷は中田に指示を出し終えると、もう一度ハゲ頭の男に向かって頭を下げた。するとそこへメルセデスのエンジンが掛かる音が聞こえて、彼はBMWのリアドアを開けると黒革のシートに座り込み、ドアを閉めた。ゴシャン、と言う金属的な音が響いて、パワーウィンドウを下ろし、ハゲ頭の男にこう言った。
「それではまた。娘さんにもよろしくと言ってください」
「今度来る時は、お前さん好みの女を連れて連れきてやるからさ、期待してよ」
「ありがとうございます。それではまた」
 岡谷が答えると、BMWはするすると加速して、集配センターを離れた。走行する国道122号は道路を照らす街灯を点ける電気も無く、行き交う車も皆無だった。目の前を照らすのは車のヘッドライトだけ。だから道端にある看板や電柱にぶつかったりしないよう、慎重に走る必要があった。
「ボス。いいんですか?個人的に交友を深めたりして」
運転席でステアリングを握っていた中田がリアシートの岡谷に聞いた。岡谷はリアシートにふんぞり返ったまま窓の外に視線をずらしこう答えた
「別にいいのさ。人付き合いには信用が大切だからな」
「国連からの支援物資を闇市に流したり、売春斡旋に違法薬物の売買までしてる連中ですよ。そんなやつらと仲良くなっていいんですか?」
「ナカダ、世の中には複雑怪奇なままでいい事だってあるんだ。その複雑な出来事に首を突っ込んで、痛い目を見るのは自分なんだぞ。理解できるか?」
 岡谷がバックミラーに映る中田の顔を睨みつけながら、足で運転席のシートバックを小突くと、中田は恐縮した声で「分りました」と短く答えた。
「ならいい」
 岡谷は満足そうに頷くと、再び視線を窓の外に目を向けた。
「月が綺麗な夜だな。今夜は何かありそうだ」
 岡谷は窓から夜の空を見上げて、独り言を漏らした。こうして二人で居る時、彼は何時もそんな風につまらない変化を見つけては声に出して呟く変なクセがあった。
「そうですね」
 中田はヘッドライトの照らす道路を見ながら答えた。明かりの全くない道路での運転中に余所見は出来ない。出来るなら運転中は何も話さないで貰いたかった。
 車は国道122号線を岩槻から赤羽方面へ進み、川口市内に入ろうとしていた。道路わきの大型パチンコ店やファミリーレストランにかつての華やかさは無く、ヘッドライトの明かりで浮かび上がる不気味なオブジェと化していた。戦争が終わってもう十五年くらいの年月が経つが、戦後生まれの世代にはこういった建物が夜になっても文明の毒々しい光を垂れ流していたなんて想像できるだろうか?
 車は一旦国道122号を離れ、鳩ヶ谷歩道橋から58号線に入った。国道122号に掛かる新荒川大橋は、前の戦争で酷く痛んでしまったため自動車の通行が禁止されてしまった。そのため、東京に向かうには58号線から扇大橋か江北橋を通って東京都内に入る必要があった。58号線を進んでいくと、かつて栄えた鋳物工場や金属加工会社の建物たちが暗闇の中から出迎えてくれた。かつては大型トラックなどが出入りし、焼けた金属の臭いが漂っていたこの一帯も、戦争による長年の経済活動の停滞によって、今ではすっかりも抜けの殻になってしまった。道路に等間隔で並んでいた街路樹や植込みの木は全て切られ、住人達が煮炊きや暖を取る為の燃料にされてしまっている。木が植えられていた場所には、代わりに野菜が植えられていた。
 道路沿いに有るファミリーレストラン跡地の駐車場で焚火に当たりながら暖を取って話し込んでいる住人達を見送ると、車は埼玉県と東京都を仕切る小さな橋の近くにある検問所に到着した。
検問所には89式小銃を持った警務隊の自衛官が7人ほど立っていて、彼らに通行許可書を見せるように迫ってきた。橋の近くにあるローライダー仕様のシボレー・インパラなどが停めてあった場所には、今は警務隊の詰め所が設営されていた。
「許可書を見せろ、どこの者か?」
 警務隊の若い一曹が運転席の中田に命令口調で迫った。多分こんな夜中に運転手付きのベンツで走りまわっている奴なんて、どうせロクでもない人間なのだろうと思っているのだろう。実際そうなのだが。
「許可書ならあるぞ、お兄さん」
 リアシートの岡谷がウィンドウを開けながら、ジャケットの内ポケットに入れてあった通行許可書を警務隊の一曹に手渡した。岡谷は勝ち誇ったようにシートにもたれかかり、一曹がマグライトで許可証を確認し終えるのを待った。すると突然、一曹は踵をそろえて直立不動の体勢になりこう叫んだ。
「失礼しました!岡谷三等陸佐。許可証をお返しします」
「なに、構わんさ。警務の仕事、しっかりやれよ」
「ハッ!」
 岡谷が一曹から許可書を受け取ると同時に、検問所のゲートが開いた。中田が車を前に進めると、さっきの一曹から敬礼を受けながら東京都に入った。
「どうだ。ナカダ、情報本部勤務も結構いいことあるだろう」
「ええまあ、こういうところは。それと僕の名前はナカダじゃなくてナカタですから」
 中田の反応を岡谷は鼻で軽くあしらうと、岡谷は再び窓の向こうの景色を眺めた。58号線の真上に掛かる日暮里舎人ライナーはもう何年も動いてはおらず、駅の入り口のシャッターは死んだ魚の口の様に開け放たれたままだった。かつては都内有数の公園だった舎人公園も、植えられていた木は殆どが燃料用の薪にされ、木が植えられていた場所は畑になっている。都内の殆どの公園や庭園がそんな状態だ。夜中に煌々と明かりをつけて、若者達のたまり場となっていた道路沿いのコンビニも、入り口が閉められ閑散としていた。
 車は58号線から都道307号線に入り、江北橋を渡って王子の方へ向かった。王子駅を抜けて、本郷通りを駒込の方に向かう。南北線の駒込駅を越えたところで、道の真ん中に一人の少女がポツンと、通りかかる車を待っていたかのように立っていた。それに気付いた中田が慌ててブレーキペダルを踏み、スキール音を立てながら寸でのところで車を止めた。
「クソボケが!死にてぇのか!?」
 中田が女の子に向かって叫んだが、少女は怯える様子も見せず夢遊病患者のような足取りで車
のリアシート方へ近づいてきた。
 少女は十五歳位の年頃で、あまり栄養状態が良くないのかやつれたような顔をしていた。薄汚れた白い顔が、街灯の無い暗闇にぼんやりと浮かび上がる。少女は窓をコンコンと叩き、岡谷窓を開けるように指示した。
「おじさん達、いまなにをしてるの?」
「帰る途中だが?」
 岡谷は少女の濁った目を見ながら答える。すぐに彼女が自分の身体を売って生活している事は容易に想像が付いた。
「ちょっと、二人とも寄って行きません?」
 少女が問いかけると、岡谷はフゥと鼻で溜息を漏らして、運転席の中田にこう告げた。
「ナカダ、車寄せろ」
「ちょっと、いいんですかボス!?」
「お前は俺の言ったことに従っていればいいんだ。車をさっさと寄せろ」
 岡谷に指示されるまま、中田は車を道路の端に寄せた。車を寄せ終えると、岡谷はドアを開けて車を降りた。そして運転席の中田にこう言った。
「お前はここに残っていろ、車を取られてはたまらないからな」
「そんな、一人だけなんてズルイですよ」
「うっせえ、これも仕事の一環だ」
 岡谷は捨て台詞のように言うと、中田の恨めしい視線を感じながら少女の後に着いて行き、暗闇が覆う街中へと消えていった。
 駅前にあるハンバーガー店や居酒屋チェーンの建物のシャッターは全て閉められ、何人かの浮浪者や物乞いが汗臭いような汚物のような異臭を放ちながらシートを敷いてその前に座っていた。浮浪者は眠って居る者もいれば、半開きの瞼から岡谷と少女を見つめている者も居た。近くの山手線の線路を走っている電車は一台も無く、レールに敷き詰められたバラストの砂利からは雑草が伸び放題だった。
「後どれ位で着く?」
「もうすぐ」
 岡谷の問いかけに、少女は俯いたまま答えた。
 しばらく歩いていると、二人は小さな雑居ビルへと入った。中に入って狭い階段を登ると、踊り場の所に仏壇用の蝋燭が申し訳程度の明かりとして置いてあった。それでも僅かな光が照らすのは狭い踊り場くらいで、階段の所は注意しないと足を踏み外しそうになった。
 二階に上がり、金属製の重いドアを開けて部屋に入る。部屋の中は埃っぽい空気が澱んでいて、いかにも陰険な後ろめたさを感じると言った感じだ。
 奥にあるベッドの上に少女が腰掛けると、隣の部屋で何かがガタン!と、音を立てた。岡谷が後ろを振り向くと、少女と同い年くらいの少年が手にナイフを持って、岡谷の背中に刃を向けた。
「ロリコンホイホイっていうのはこういう時に使う言葉だよな?」
 ナイフを持った一人の少年が言った。岡谷が横目で見ると、長い髪に釣り上がった不健康そうな目を持った、前歯の無いやせっぽちの少年だった。岡谷のような男を目の前にするのは初めてなのだろうか、ナイフを持った手がブルブルと震えている。
「お前は汗水たらして働いているのか?」
 岡谷はこめかみをピクンと動かし、少年に静かに聞いた。
「うるせえな、さっさと金目のものを置いて失せろよ」
「質問に答えろ」
「そんなのしていねえよ、其処に居る俺の妹の金で食っているよ。それがダメなら、こうやって武器で脅して着ぐるみを剥ぐ」
「なるほど」
 岡谷はあざ笑うように答えると、ゆっくりと身体を少年の方に向け、射抜くような視線で少年の目を睨みつけた。その眼光に恐れをなしたのか、少年はナイフを持ったまま半歩後ずさった。
「こんな可愛い妹さんに体売らせて食うなんざ、ロクでも無い奴だって誰かが言っていたな」
 岡谷はそう呟くと、ナイフを持っていた少年の右手を思い切り蹴飛ばした。革靴のつま先がナイフの柄に当たってナイフが宙を舞う。呆気に取られている少年の薄っぺらな胸板に、岡谷はそのまま45%くらいの力でキックを入れた。するとやせっぽちの少年の身体は、そのまま引っ張られるようにして、背後の壁に叩きつけられた。少年は胸を押さえながら、苦しそうなうめき声を上げながら蹲っている。
「お兄ちゃん!」
 少年の妹は慌てて蹲っている少年の下に駆け寄った。こんな兄でも大切な肉親なのだろう。
「痛いか?苦しいか?その苦しみを忘れんな」
 岡谷は履き捨てるように言うと、ジャケットのポケットを弄りながらこう続けた。
「ずっとこのままで居れば、俺なんかよりももっと強い連中が来て、お前の妹を掻っ攫っていくぞ。その時お前は、よくて物乞いか、悪けりゃ殺されるかだ。それが嫌なら、明日からマトモな仕事を探すんだな」
「探せって言われても」
 少年が胸を押さえながら岡谷に聞いた。岡谷はポケットから出した札の数を数えながら、こう答えた。
「白山だか千駄木のほうに行けば、求人の事務所があるからそこへ行け、経歴、職歴、学歴等は一切不要だ。多分やせっぽちのお前にはきつい仕事が多いだろうが、こんな生活を続けるよりはマシだと思うぞ」
 岡谷は札を勘定し終えると、さっきの少女の側によって札を握らせた。
「これはこれからのお前らへの投資だ。今度はお前がコイツを支えてやれ」
「でも」
「ああ料金の事?すまん、すまん。そのお金でいいかな?勿論キャンセル料込みで」
 岡谷は急にお調子者のような口調になって、部屋のドアを開けた。こういうことをすると、途端に自分が恥ずかしく思えてくる。
「真面目に働いて幸せになれよ」
 岡谷は一言二人に浴びせると、雑居ビルを後にした。
 道路脇に止めたBMWに戻ると、運転席の中田が室内灯をつけて携帯ゲーム機で遊んでいた。てっきりいじけていたのかと思っていたが、違うようだった。岡谷はリアドアを開けて、シートに座り込んだ。
「早かったですね」
 運転席の中田が携帯ゲーム機の電源を切り、岡谷に聞いた。
「まあな、ちょっと予定外の事はあったが」
「どうだったんですが?あの娘、いい奴でしたか?」
「もちろん。やっぱり未成年者と援助交際をするのはやめられないね。最高だったよ」
 岡谷は簡単に答えると、中田に車を出すよう指示した。



 かつては世界有数の美しさを誇った東京の夜景も、まばゆい無数の光を生み出す火力発電が無くなった今では巨大なコンクリートの塊が林立する禍々しい過去の遺物でしかない。コンテナ船が引っ切り無しに行き交っていた芝浦や青海の貨物ターミナルも、海外からの援助物資を積んだ船がやってくる以外に来航してくる船は無かった。日本の輸出入を影で支えていた大型クレーンも、使われなくなった今ではその巨体を潮風にさらして、虚空に向かって伸びるだけの枯れた鉄の巨木だった。
 岡谷たちが乗ったBMWは、閑散とした銀座の町を抜けてお台場を通り、東京国際ターミナルへと向かった。
 国際客船ターミナルの目の前まで来ると、埠頭に横付けされた護衛艦〝ひゅうが〟(一三五〇〇トン)の巨体が、半月の光に照らされて真っ暗な港にその姿を現した。それまでのはるな型ヘリコプター搭載護衛艦から艦形は大きく変化し、後甲板に大型の格納庫を持った形から、空母のように右側に艦橋とヘリコプター管制所を持った形へと大きく進化した。格納庫には最大で十一機のヘリコプターを搭載可能で、指揮通信能力も大幅に向上して艦内には護衛艦隊を指揮する為に設けられたFIC(司令部作戦室)から艦隊の行動を指揮する事も出来る。就役当初は新しい海上自衛隊の象徴的存在と持て囃されたが、指揮を執る護衛艦も無ければ航行する燃料も無い今となっては、破壊されて使えなくなった市ヶ谷の防衛省に変わる海上に浮かぶ防衛省の仮庁舎でしかない。だが、埼玉の朝霞駐屯地から出向いている岡谷にとっては、防衛省の建物が何処にあろうが関係のない事だった。
 中田は車から東京国際ターミナルの前に立つ警務隊の隊員に岡谷から渡された身分証明書を渡すと、警務隊の隊員に先導されてターミナルの駐車場にBMWを停めた。自動車用のバッテリーを電源にした駐車場内は蛍光灯の明かりが点けられ、外に比べれば遥かに文明的な光がコンクリートの中の空間を照らしていた。
 二人が車を降りると、駐車場出口の横に、ブリティッシュレーシンググリーンのジャガー・XJSクーペが一台停められているのに気付いた。古い車だが、綺麗な状態で乗り続けているのは相当に自動車へのこだわりを持った人間の筈だ。ましてこんな混沌とした時代にこういった車を乗り続けるなんて、今ではごく一部の人間に限られている。それがどんな人間なのかは岡谷には容易に見当がついた。
 艦内に上がるタラップ前の隊員に敬礼して、艦内に入る。ステルス性を考慮して傾斜が着けられた艦体には所々錆や塗装の色褪せが見られたが、それでも現役時代の威風堂々とした雰囲気は十分にあった。低い天井にパイプが通る通路を抜けて、士官室に入ると、インスタントラーメンの匂いが鼻を打った、中では迷彩服に身を包んだ男が遅めの夕食を食べている最中だった。
「ジャガーで護衛艦に乗り付けて士官室でラーメンを食う人間なんて、お前くらい位だろうな。魚崎」
 岡谷が憎まれ口のように声を掛けると、魚崎啓太郎はラーメンを啜る手を止めて丼を白いテーブルクロスの敷かれた長テーブルに置き、岡谷のほうを振り向いた。
「よお、岡谷ちゃん。得意先周りご苦労さん」
 魚崎は口元を近くにあったナプキンで拭くと、丸眼鏡の位置を直して岡谷に席に座るように促した。岡谷は席に着くと、立っていた中田にこう頼んだ。
「悪いがお茶を煎れて来てくれないか、ほうじ茶でも緑茶でも何でもいいから。急がないでいいからな」
 岡谷の言葉を聞くと中田は「了解しました」と頷いて、給湯室の方へと向かっていった。その後姿を眺めながら、自分にもあんなパシリが欲しいな。と魚崎は思った。
「岩槻の三郎おじさんは元気だった?」
 魚崎は岡谷に今日会ったことを聞いてみた。まずは当たり障りの無い話から入っていて、それから本題に入るのが一番だ。魚崎は同僚と何かを報告しあう時、何時も関係ない話から入って本題に移るのがクセだった。
「まあな、娘さんによろしくと言っておいたよ」
 岡谷はジャケットからカールトンを取り出し、ターボライターで火をつけながら答えた。岡谷も魚崎の会話上のクセは十分承知していて、関心があるように装って返答するのが何時ものやり方だった。
「さて、本題に入ろう。何かいいネタは有るか?」
 岡谷が吸った煙を吐き出すと、魚崎は吐き出された煙を払いのけて、身を乗り出し意味深な表情を作ってこう言った。
「良いニュースと悪いニュースがそれぞれ一つ。どっちから聞きたい?」
「悪いニュースから聞こうか」
 岡谷が素っ気無く返答すると、魚崎は椅子に座りなおし真剣な顔つきになった。
「山内の村が敵の攻撃にあって、全滅。村人は女子供一人残らず殺された」
 魚崎の言葉を聞いた岡谷は「なっ」と一瞬呻き、意味も無くジャケットの襟を整えて、魚崎に悟られないよう呼吸を整え「本当なのか?」と聞き返してきた。
「本当さ、三日ほど前に襲撃されたらしい。連絡が入ったのは今日の午後八時。寺田からバースト通信で送られてきたよ」
 魚崎が説明すると、岡谷は「そうか」と漏らしながら俯いた。それと同時に、彼と過ごした遠い過去の思い出がぼんやりと思い起こされてくる。
「山内とは同じ部隊の出身だったな、そういえば」
「同じ部隊も何も、防衛大の入学式で隣だった。そこから二人して習志野の第一空挺団に入って、あいつは特殊作戦群に、俺は別に無能でもなければ有能でもない小隊長になって、戦争が始まる前に情報本部勤務さ」
 岡谷は近くにあった煙缶にまだ半分残っているカールトンを押し付けると、椅子に深くうなだれて「そうか死んだか」と漏らした。もう何年も会っていないが、親しかった人間が死ぬとなると心臓の血管がねじれるように痛んだ。けれど、涙や悲しみは浮かんでは来なかった。彼も一将校として戦場を駆け巡った一人の人間だから、心の底から涙を流す事はもう二度とないだろう。それくらい、多くの人の死を見て来ている。昔の青い自分なら涙を流していただろうが、今はもう無理だ。
「最近会ったことは?」
「無いよ。元気にしているとは聞いていたが。しかし、あいつの村の正体を知る者は俺らを入れてごく一部じゃなかったのか?」
「不明だ。多分どっからから情報が漏れたのだろう。些細なミスが重なって」
 魚崎はそう呟くと、この戦争が起きた理由をぼんやりと思い返してみた。
「それで、良いニュースは?」
 岡谷が二本目のカールトンに火を点けながら聞くと、魚崎は頭を切り替えてこう答えた。
「その村から、ゲリラの情報を持った人間が襲撃前に運良く脱出して寺田たちの村に居るらしい」
 真剣な顔つきで魚崎が答えると、岡谷も顔に緊張感を取り戻して「それから?」と聞き返した。
「彼らが村に到着してしばらくすると、今度は襲撃後に脱出してきた男の子が村に逃げ込んできた。男の子の話によると、逃げ出してきた自分を追って敵が近くに居るらしい」
「らしい。か」
「米軍の偵察衛星でもあればすぐに状況が分かるんだがな。とにかく情報を持った決死隊を数名編成して、こっちに向かってくるそうだ」
 突然、士官室のドアをノックする音が飛び込んできた。二人が士官室の入り口の方を向くと、そこには湯のみ茶碗と急須を持った中田が士官室に一礼して入ってきた。
「悪いな、茶は後で飲むからテーブルに置いておいてくれ」
 岡谷はひとこと言い残すと吸っていたカールトンの火を消し、立ち上がると唖然とする中田そっちのけで士官室からFIC(司令部作戦室)に向かった。魚崎もその後に続く。士官室を出る時、お湯に蒸らされた茶葉の匂いが二人の鼻を掠めた。
 ペンキの匂いに満ちた通路を早歩きで駆け抜けFICに入ると、近くに居た当直士官に関東一帯の地図を中央の大型モニターに映すよう命じた。当直士官は手元のパソコンで大型モニターを操作し、関東地方一帯を映した地図を大型モニターに表示した。
 表示された地図は埼玉県中部辺りで南北に区切られており、線から北側がゲリラの勢力範囲及び活発に活動する地域、南側が自衛隊の支配する地域だった。
「寺田の村の位置は?」
 岡谷がモニターを眺めながら聞くと、魚崎が「ポイントPRS610を提示してくれ」と当直士官に言った。当直士官がパソコンを操作して寺田の村をモニター画面上に赤いヤジロベエのようなアイコンで表示した。場所は栃木県の上河内の辺りだった。かつては北関東の名所だったが、今では住む人は殆どいなくなり、ギャングや盗賊が住み着いて治安はかなり悪くなっていた。
「かなり距離がある。高速道路が使えたらほんの数時間の距離だが、人間の足だと三、四日以上は掛かるな」
 魚崎が口元を歪ませながら漏らした。
「途中で合流ポイントを設けて、ヘリか車両で回収するのは?」
「ヘリはダメだ。奴ら対空車両とSAMを手に入れて、限定的な対空戦力を作っているという情報が入っている。安全が確保出来ない限りヘリは出せない。車両による移動も敵の支配地域では無理だ。目立ちすぎる」
「そうなると、彼らに頑張ってもらうしかない?」
「そうだな、昔みたいに偵察チームが軍用パソコンを持って、衛星で捉えた情報を送信する事が出来るなら、こちらからサポートも出来ただろうけど。それも無理な話だ」
「無線機は持っているんだろう?通信で何とか」
「逆探知されて位置を知られるよ。それにどうやって敵の位置情報なんかを仕入れる?」
岡谷はそこで言葉に詰まった。魚崎の言うことは正論だ。同じ釜の飯を食った山内が、必死になって仕入れた情報を持った彼らを手助け出来ないのは、歯痒いとしか言い様が無かった。
「悔しいけれど、俺たちは彼らがここまで無事にたどり着くのを待つしかない。それしか出来ないよ」
魚崎も奥歯に何かを挟ませたような物言いで、近くの椅子に腰掛けた。
 岡谷は「そうか」と一言呟くと、トボトボとした足取りでFICを後にして、タラップを上がって上甲板へと上がった。
 空母のように広いひゅうがのヘリコプター甲板には駐機しているヘリは一機も無く、グレーに塗られた、埃っぽい潮風が吹き付けるただ広いだけの鉄の広場だった。今この護衛艦の搭載ヘリコプターで飛べるのは、甲板下の格納庫で眠っているSH-60K哨戒ヘリコプター一機だけだった。
 岡谷はひゅうがの艦橋を背にして舷側まで近づき、転落防止のフェンスに寄りかかって、目の前の暗闇にぼんやりと浮かび上がるレインボーブリッジを眺めた。かつては無数のライトに照らされ、美しくも温かみを感じない光りを放って輝いていた筈のレインボーブリッジも、ライトアップされなければさしずめ開け放たれた地獄の門のようだ。
 あの橋が元通りになって、また文明の光に照らされる日は来るのだろうか。岡谷はそんな事を思いながら、艦内へと戻っていった。

                        (第二章に続く)

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み