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文字数 10,416文字

 上空の雲は次第に形を変え、鉄板の上のクレープを伸ばすように広がって海下のいるスーパーを覆い尽くした。まだ彼女が小さかった頃、青い空に浮かんでいる真っ白な雲は大きな綿菓子のようなもので、それをいつしか口にしたいと思っていたが、もう二十歳になってしまった今ではもう無理だ。ましてや今の自分は、そんなことを想像してはいけない位に汚れている。だから敵の反撃に遭った仲間が無言の帰還を果たしても、ただ心が痛むだけで後は何も無い。そんな自分が、時々殺したい程に憎く思える。
 服を着替えた海下は階段の辺で俯いている土居を見つけると、自分のバックパックからキャンディの袋を取り出し、袋から三個を取り出してリーフパターンのズボンのポケットに仕舞うと、残りの袋を彼に差し出した。
「良かったら、仲間で食べて。ここ最近甘いもの食べてないでしょ」
「悪いな、気を使わせて」
 土居は力なく答えると、ありがたそうにキャンディの袋を受け取った。顔はフェイスペイントに塗りつぶされてよく分からないが、かなり落ち込んでいる様子だった。
「完全に敵を甘く見ていた。まだ十五、六歳の若造ばかりだから簡単に倒せると思っていたけれど、クレイモアまで使ってアンブッシュしてくるとは。その結果、死亡三名重傷六名の大損害だ」
「どんなに自分のミスを責めても死んだ仲間は戻ってこないよ。この経験を次に生かさなきゃ」
「確かにそうだな。竹森さんは?」
「無線で近くの部隊から応援をよこしてくれないか頼み込んでいたけど、取り繕ってくれたのは越谷の松井さんの所だけ。来てくれるのは夜になってから」
「松井ねえ、自衛隊上がりの奴か」
 土居はそう呟きながら、話しに出てきた松井の事を思い浮かべた。松井は元々陸上自衛隊の幹部自衛官で、戦争前からしょっちゅう問題を起こしては懲戒処分を起こしている事で有名だった。
「あんまり悪く言わないほうがいいと思うよ。貴重な機械化部隊なんだから」
「まあな、戦力は自衛隊から鹵獲した装甲車三台とトラックを改造した装甲車一台。人数も五十人くらいになるから捜索範囲を広げられるな。ところで、竹森さんは俺に何か言っていなかったか?」
「あんたと宇野さんの処分はこの一軒が落ち着いたらするそうよ。それまで処分は保留だって」
「そうか、分かった」
 土居は少し頷きながら呟くと、持っていたキャンディの袋を持ち上げて「ありがとう」と小さく礼を述べてその場を立ち去った。海下は彼の後姿を見送ると、持っていたキャンディをポケットに仕舞って、そのまま階段の向こうの精肉コーナーに向かった。
 精肉コーナーの中に入ると、電源の切れた冷蔵庫の前に立つ警備の兵士に「入ってもいい?」尋ねた。警備の兵士はやれやれといった感じに冷蔵庫の扉の鍵を開けて、ドアを開いた。電源の切れた冷蔵庫からは漏れた冷媒のアンモニアの臭いが漂っており、お世辞にも人に優しい環境とは言えなかった。そんな詰まるような空間に、綾美は体育座りで壁に寄り掛かっていた。
「気分はどう?少しは落ち着いたかしら」
 海下は何気なく綾美に聞いてみたが、返事は無かった。いずれやってくる処刑宣告を想像して怯えているのだろうか。この悪臭の立ち込める冷蔵庫に放り込まれて四時間になる。それなのにあまり疲れた様子を見せていないのは、彼女が強靭な精神力を持っているからだろう。
「キャンディでもどう?気分が落ち着くよ」
 海下はそう言ってキャンディを差し出したが、綾美は爪を立ててそれを振り払ってしまった。コンクリートの床にセロファンで包まれたキャンディが転がると、引っかかれた手の甲からじんわりと血が滲んで来た。
「人を騙しておいて差し入れだなんて、あんたどういう神経してるの?殺すなら早く殺してよ。それならこっちも気が楽だし、あんたらだってお荷物が減っていいんじゃないの?」
 綾美が敵意を露わにした口調で言い放つと、海下はこの娘を今すぐに殴り飛ばしたい衝動を押し殺して、綾美に引っかかれた手の甲を押さえた。
「綾美、一人で怒るのは勝手だけれど、本来ならあの時あんたを助けなかった英司に怒りをぶつけるべきじゃないの?あいつあんたに気が有ったのに、結局何も出来なかったへタレだよ?」
「そんなのはどうでもいいわ」
 綾美は力を込めて静かに言うと、とても十五歳とは思えないほどの鋭い眼差しで海下を見つめ、こう続けた。
「出発の時、英司に言われたの。〝死ぬ事を覚悟できないなら来るな〟って。私なんかどうせ、皆の足手まといになるだけだし」
「だったらなんで、大切なUSBを渡してまであんたを助けようとしたのかな?英司は」
 海下は綾美の言葉を遮って、彼女を黙らせた。
「それは」
 綾美は反射的に海下に反論しようとしたが、返す言葉が見つからずに、そのまま口を噤んだ。海下は地面に落ちたキャンディを拾って綾美に投げつけると、冷蔵庫の扉に近づいて、最後にこう呟いた。
「理由は一人でキャンディでも嘗めながら考えるといいわ」
 海下は一言言い捨てると、そのまま冷蔵庫から出た。再び一人だけになった綾美は、何故だかとてつもない疲労感に襲われて、そのまま横になった。横になると、さっき自分に投げつけられた黄色いキャンディが、丁度目の辺りに落ちている。そのキャンディをぼうっと見つめていると、英司と初めて会ったときの記憶が蘇ってきた。
 あの時、何故英司は自分の事を助けたのだろう。山奥の森で何の利用価値も無い自分を救ってくれた。どうして助けてくれたのか、その事がどうしても聞き出したい。どんな手段を使ってでもいいから、それを聞くまで死ぬわけには行かない。絶対に。
 英司。
 綾美は心の中で名前を小さく呟くと、静かに目を閉じた。



 英司と政彦はスーパーから一〇〇メートル南にある、廃墟と化した蕎麦屋の茂みに身を隠していた。空を覆っていた雲からは雷を伴った雨が遂に降り出し、雨衣の無い二人の身体に雨粒が降り注いだ。四月の始まりとはいえ、気温は高いとは言えない。服に染み込んだ雨は容赦無く彼らの体温を奪い、爪先や手の指の感覚を麻痺させたが、だからと言って廃墟にある板を持ってきて雨風を凌ぐ屋根を作るわけには行かなかった。なぜならこんな所に屋根があるならば、そこに雨風を凌いでいる人間が居ると教えているのと同じ事だからだ。優秀な監視が敵に居れば、たとえ入念な偽装を施したとしても、ほんの僅かな変化を見つけて位置を特定してしまうだろう。
「視界がかなり悪いな、そっちは何か見えるか?」
 政彦ささやき声で尋ねた。スーパーの外には敵が暖を取る為に一斗缶の中で焚く焚火の炎が二つ見える。
「焚火の脇で火に当たっている歩哨が四人。後は分からん」
 英司が狙撃銃のスコープを覗きながら答えた。こんな天候で狙撃したら、弾丸に雨粒が当たって軌道が逸れてしまう。
「あいつ等、自分達が数で勝っているから半分勝った気で居るんだろう。焚火なんか焚きやがって、こっちから丸見えだ」
「覚えの悪い奴らだ。戦いは必ずしも数に左右されない事があるって、さっき教育してやったばかりなのに」
 政彦が鼻で笑うと、英司にこう尋ねた。
「小島さんに報告するか?」
「もうあと一時間は監視したい。それから報告しよう」
 英司は小さく答えると、寺田の村で貰った防水時計を見た。ここに身を潜めてもう二時間。温かい飲み物と食事が恋しい。
 そんな事をぼんやり考えていると、すぐ隣の道路から雨の音に混じってディーゼルエンジンの音が聞こえてきた。耳を澄ますと、音が次第に大きくなってくる。
「伏せろ!」
 英司が小さく叫ぶと、二人はそのまま地面に伏せた。息を潜めてじっとしていると、さら大きくなるエンジン音と共に、濡れた路面の上をタイヤが回る音と振動が伝わってきた。恐らく敵の増援だろう。数台は居るようだ。心臓が高鳴り、石を袋の中でぶつけた時みたいな音が身体の中で反響して、冷たい水滴が額を伝った。
 しばらくすると、車列は二人の隠れている茂みの前を通り過ぎていった。数は音からして四両。ようやくエンジン音が小さくなると、英司はゆっくり息を吐きながら上体を少し起こした。
「危なかった。茂みが無かったら今頃殺されていたぞ」
 政彦が小声で呟くと、ポケットスコープを取り出して車列が過ぎ去った方向を確認する。車間距離確認用の為に点けられた赤いテールランプのお陰で、装甲車の位置が確認できた。
「どうだ?」
 英司が尋ねた。
「あいつ等、スーパーに向かったみたいだ」
 政彦が答えると、装甲車の車列は最後尾の一両は手前の畑に止まり、残りはスーパー正面の駐車場に入っていった。
「三両がスーパーに入って、一両だけ前の畑に停まったぞ」
「畑の奴は警戒監視の奴だ。残りは多分増援の兵隊を運んできたんだろう」
 英司が言った。
「あの台数なら無線傍受用の機材を積んでいるのが多分いるはずだ。そうなると無線機は使えない。戻って報告だ」
 そう言って政彦は撤収の用意に入ったが、英司は動こうとしなかった。英司は銃のスコープで敵のいる方向を確認すると、敵の配置と規模を記録した防水メモを政彦に手渡した。
 メモを手渡された政彦は一瞬きょとんとしていたが、すぐに英司の意図を悟ってこう言った。
「おい、まさかあの中に飛び込んで綾美を助けるなんて言わないだろうな?」
「そのつもりだ。今なら視界も悪いし、敵の警戒の穴を突けば中に入れるかもしれない」
「だからって、そんな命を平気で捨てるようなことするかよ」
 政彦が英司を止めようと彼の腕を掴むと、英司は政彦の手を払ってこう言った。
「お前に言ったよな。〝けじめは必ず付ける〟って」
「確かにそうだけど、冷静になれよ。まだ何か方法があるかも知れないんだぞ?」
 政彦がそう言うと、英司は綾美と初めて会ったときの冷徹さを取り戻して、こう反論した。
「そんな悠長なこと言っていたら、間違いなく綾美は殺される。助けられるのは今しかない。それにお前、あそこに理奈子とコウタローが居たら、俺と同じ事をするんじゃないか?」
「なっ!」
 政彦は口を噤んだ。英司の放った言葉に間違いは無い。
「あそこには、俺が絶対に死なせたくない人が居る。だから行かせてくれ」
「気持ちは分かるよ、痛いくらいに」
「下手な理由で自分の気持ちを誤魔化したくないんだ。それにどうせ、俺には帰る家も無ければ、待っている家族だって居ない。綾美が皆と一緒に幸せで居てくれれば、俺は何もいらない。どうせ生き残っても、また元に戻るだけだ」
 英司が機械的な口調で答えると、急に政彦が追い詰められたような口調でこう言った。
「なら、俺も行く。大切な人を守りたいっていう気持ちは同じだ」 
「お前は来なくていい、俺一人で十分だ」
「何で?」
「言っただろ、俺には帰る家も無い。綾美が幸せで平和に生きてくれればそれで良いんだ」
「自分の未来はどうでもいいのか?」
「人を殺す事しか能の無い奴に、未来なんて要らないよ」
英司は静かに呟くと、持っていたM24を政彦に手渡した。
「おい、これ……」
「どうせ持っていっても邪魔になるだけだ。潜入するなら身軽な方がいい。父さんの形見だから、壊すなよ」
 その言葉に、政彦は小さく溜息を漏らして「分かった」と小さく答えた。
「報告に戻ったら、夜明け前に小島さん達とここを離れろ。そうすれば、敵が捜索を始める前に逃げ切れる筈だ」
「お前はどうする?」
「綾美が助かればどうでもいい。俺には、自分以外何も残っていないから」
 英司は哀しげに呟くと、「じゃあな」と言って闇の中に消えていった。
 


 松井大吾朗は、乗ってきた軽装甲機動車の助手席を下りると、スーパーの入り口に部下と共に待機していた宇野の歓迎を受けた。宇野が松井に対して敬礼すると、松井も自衛隊式の敬礼で答えた。身長はおよそ170センチ。髪を金髪にし、金縁のサングラスを掛けたやや小太り気味の体型で、熊とタヌキを足したような顔が稲光で浮かび上がった。戦争が始まる前、国を守る使命に燃えていた若き自衛官の彼はもっとスリムな体つきで、目にも信念の眼差しが宿っていたが、ただ自分の本能に従い兵隊を動かし私欲を貪る今の彼にはその頃の面影はもう無かった。
「お待ちしておりました。支援に感謝いたします」
 宇野は敬礼したまま、頭にプリセットされた礼の言葉を述べた。
「礼は後でいい。それよりも現在の詳しい状況を説明してくれ。こっちは急に呼び出されたからな」
 松井が呟くと、すぐ後ろのクロコダイルⅡA装甲車に乗った兵士が後部ハッチを開けて、ぞろぞろと降車してきた。
「早くしろ!」
 松井は振り向きざまに叫んだ。クロコダイルⅡA装甲車は陸上自衛隊で使われていた73式大型トラックを装甲車に改造したもので、ローデシア軍がローデシア紛争の時民間のトラックを改造して作ったクロコダイル装甲車に生い立ちが似ていたため、この名が付いたが、オリジナルのクロコダイル装甲車とは異なり地雷対策はされていない。荷台は開閉可能な屋根の付いた十六名乗車可能な兵員室に取り替えられ、使われている装甲板は5・56mm弾をはじき返す事ができた。操縦席も同様に装甲板で新たに作られた物に交換されており、フロントウィンドウは防弾車の窓ガラスを流用していた。兵員室上にはM2重機関銃か96式てき弾銃を取り付けられる銃架を備えており、兵員室の兵士が兵員室内から攻撃する事が出来た。しかしクロコダイルⅡ装甲車はトラックを改造して作った装甲車の為、他の装甲車に比べて全高が高く視界は良いが、建物の間に張られたピアノ線に引っかかりやすいという弱点があり、その対策として鋼鉄製のワイヤーカッターが、車体前方の屋根の中心部に取り付けられていた。
 ちなみにロングモデルの73式大型トラックをベースにしたものはクロコダイルⅡBと呼ばれていた。
「竹森は何処に居る?部隊の指揮官が居ない今後の作戦を立案できんぞ」
「隊長は奥にいます。こちらへどうぞ」
 宇野はそう答えると、部下と一緒に松井をスーパーの中に案内した。
 
 じっと草むらの中に潜んでいた英司は、スーパーの前に停められた装甲車から兵士が降りて中に入ったのをポケットスコープで確認すると、慎重に接近するルートを考えた。ここから確認できた歩哨の数は二十三人。目の前の畑には機関砲を装備した装甲車が警戒している。何とかしてスーパーまで接近しないといけない。ここで見つかったらすぐさま殺されてしまうだろう。
 英司は腹ばいになったまま、西回りのルートでゆっくりと周囲の草を揺らさぬようにして匍匐前進した。全身をギリースーツで覆い、足にも麻袋を巻いて音を立てないようにしているものの、敵に鋭い観察力を持った狙撃兵が居ればたちどころに銃弾が飛んでくるだろう。しかし狙撃手が潜んでいそうなところにはそれらしき姿は見えない。この雨のお陰で視界も悪いからこちらを見つけるのは困難だろう。
五分程かけて一五メートル進むと、急に雨足が激しくなり雷鳴が轟き始め、轍には雨水が流れ込んで小さな川を作った。雷雨になれば小さな音が聞こえなくなるし、地面の足跡も消えて敵の位置を特定できなくなる。問題は、それが警備する側にも潜入する側にも作用する事だ。英司はたっぷり雨水を含んだ服を引きずりながら、一歩一歩ゆっくり前に進んだ。泥水が口の中に入り込んで、濡れた服が身体の体温を奪い、意識をぼうっとさせる。それでも綾美を救えるチャンスは今しかないと自分に言い聞かせて、もがくように前に進んでいくと、丁度目の前に、一本の黒いコードが張ってあるのに気が付いた。そのコードを辿っていくと、先にはクレイモア対人地雷が設置されている。恐らくこのコードに引っかかると爆発する仕組みだろう。英司はそのトラップを迂回して、さらに前に進んだ。
 二時間ほどかけてスーパーの東側三〇メートルの所まで来ると、近くで突然足音が聞こえた。銃も構えずにその場にじっとしていると、雨音にまぎれて何かの会話が聞こえてきた。どうやら彼らを追ってきた部隊の兵士が増援部隊の装甲車について何か話して居るようだ。英司は見つからないこと祈りながら、彼らが居なくなるのを待った。
 しばらくすると、雨音にまぎれて聞こえてきた敵の会話は無くなった。英司は少しだ頭を上げて周囲の状況を確認したが、人影らしきものは見えなかった。完全に敵の警戒線の中に居る。ここまで来たのは奇跡に近いなと英司は思った。
 英司はさらに前に進み、草むらの切れる所まで匍匐前進した。そこで停止して周囲の状況をさらに確認すると、二階から降りる非常階段の下に、「従業員専用」と書かれたドアが暗闇の中に見えた。英司は意を決し立ち上がり、ドアに近づいた。
 アルミ製のノブに手をかけて、鍵が掛かっていないことを確認すると、ドアを少しだけ開けた。中に人の気配はない。英司はそのまま音を立てずに中に入ると、部屋の中にはシートに包まれた死体が四体安置されていた。クレイモア地雷で身体を真っ二つに引き裂かれたのだろうか、シートの端からピンク色の小腸がはみ出ている。その隣には、胸の辺りが大きく窪んだ死体が安置されていた。
 英司はそれらの死体から目を逸らすと、ギリースーツを脱ぎ、両足に巻きつけていた麻袋を取って、そのままジャケットのポケットに押し込んだ。こうすれば滴り落ちる水滴で侵入に気付かれる可能性も低くなる。雨に濡れて冷え切った身体は少しばかり反応が鈍いが、ここまで来たら戻れない。
 英司はそのまま死体が安置されている部屋から、アルミのドアを開けて隣の部屋に入った。あたりを見回すと、納品に使うカゴ車やプラスチックコンテナなどが置かれている。ここに綾美は居ないと判断した英司は音を立てずにバックヤードとフロアを仕切る扉のところまで進み、しばらく立ち止まってフロアの様子の様子を見た。今の所、蠢く影は見えない。死角に入りながら進んでいけば見つからずに綾美を探せるだろう。
 もうすぐだ、もうすぐで綾美を救い出せる。その気持ちだけが今の英司を動かす原動力だった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。目を閉じて横になっていただけなのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。ゆっくり身体を起こすと、さっきまで頭の中でモヤモヤしていたものがすっかり消えてなくなり、不思議と心に余裕が生まれる。人間の身体がそういうように作られているのか、あるいは単に自分の神経が太いだけなのだろうか。と綾美は思った。冷蔵庫の中は真っ暗なので耳を澄ましてみたが、何かの話し声も聞こえない。まるで人の住む世界から弾き出された様な気分だ。
 足を前に投げ出し壁に寄り掛かると、強烈な空腹感に襲われて全身が鉛で出来たみたいに身体が重くなった。そういえば捕まって以来食べ物を口にして居ない。おまけに尋問の時に反抗的な態度を取り続けたせいで、全身の筋肉が強張り身体が錆び付いたような感じがする。寒い所に長く居たから身体も冷え、蜂蜜を入れたホットミルクが無性に飲みたくなった。
 綾美は大きく溜息を漏らすと、壁にもたれたまま再び目を閉じた。自分はもうすぐ殺されるのだろうか?もし殺すなら、自分が眠っている間に殺して欲しい。そうすれば自分の意識は死後の世界で目覚めて、今生きている現実の出来事は夢物語になる。そしてその目覚めた世界で自分は何処にでもいる普通の女の子として生きたい。そこで恋に落ちて結婚して、最後は子や孫に看取られて死ぬのだ。
 そんなことを夢想しながらうつらうつらしていると、不意に冷蔵庫の扉が乱暴に開いた。綾美は思わずびくっとして扉のほうを振り向くと、ベネリM3Tショットガンを提げた兵士が立っていた。
「何?」
 綾美は不安げに聞いたが、立っている兵士は何も答えなかった。兵士の顔は長芋の様に細長く、脂ぎった表面には黒ずんだ毛穴が幾つも浮かんでいる。唇は腐った花びらみたいに捲れ上がっていて、にやりと笑うと、唇の間からはげっ歯類のような前歯が突き出た、救いようの無い笑顔の持ち主だった。
「何なのよ」
 綾美は湧き出てくる恐怖に怯えながら男にもう一度尋ねたが、男は答えなかった。男は提げていた銃を背中に回し、ゆっくりと綾美に近づいてくる。
「おまえ、可愛いよな」
 男は捲れた唇を動かしながら、ポツリと呟いた。恐怖に耐えかねた綾美はゆっくり後ずさると、竹森に引きちぎられたボタンシャツの胸元が開いたままだった事に気が付いた。咄嗟に腕で胸の辺りを隠したが、既に遅かった。
「おまえさ、男の友達とかいるの?」
 男は綾美に尋ねたが、綾美は答えなかった。壁の一番端まで後ずさると、綾美は小さく震える声で「来ないで……」と呟いた。
「そんな事言うなよ。ここで会えたのも何かの縁かも知れないしさ、友達になろうよ・・・」
 男は餓えた獣の眼差しで綾美を見つめ、土の中に住む甲虫のような臭いを漂わせながら、動けない綾美の前に立ちふさがった。
「悪いけれど、私は貴方の望む関係にはなれないと思う。私には、好きな人が居るから」
 綾美は殆ど脊髄反射のように答えると、男は声を震わせてこう言った。
「そうやって俺を拒絶するのかよ……」
 男は固く握り締めた拳を持ち上げながら、今にも泣き出しそうな声でさらにこう続ける。
「ふざけんなよ、どれだけ俺を馬鹿にすれば気が済むんだよ。ここの連中だけじゃなくて、お前まで俺をゴミみたいに扱うのかよ」
 綾美は喉の奥が凍りついたような気がした。もう声は出せない。きっとこの場でこの醜い男に殴られ、口汚く罵られてこの男が泣き出すまで犯されるのだ。
「ふざけんな、ふざけんな!」
 男がそう叫ぶと綾美は悲鳴も上げずに目を閉じ、両手で顔を隠して殴りかかってきた時の拳の痛みに耐えようとした。が、何時まで経っても男の拳が降り下ろされてこない。ゆっくり腕を解いて目を開き男の方を見ると、男の首の頚動脈にあたる部分に一本のナイフが突き刺さり、そのまま喉仏の辺りを掻き切った。赤い鮮血が蛇口を一杯にひねった時のように飛び散ると、男はそのまま力なく膝から倒れ込んで絶命した。そしてその絶命した男の後ろには綾美がよく知っている少年が一人、血に濡れたナイフを握り締めて震えていた。
「英司?」
 綾美が小声で尋ねると、英司は顔を綾美の方に向けた。雨の中を匍匐前進したせいで服は泥まみれで、顔に塗ったドーランは殆ど落ちて顔には泥が付いていた。
「ああそうだよ。綾美は大丈夫?」
 英司は興奮冷めやらぬ様子で答えた。
「何でここに?私の事なんか放っておいても良かったのに」
 綾美が申し訳なさそうに尋ねると、英司が言葉を遮るようにこう言った。
「俺はその、山内さんに言われた事を最後まで成し遂げたいだけだよ」
「えっ?」
綾美が聞き返すと、英司は言葉に詰まりながらもこう答えた。
「だってほら、村を出る時言われたじゃないか〝綾美の事を頼むよ〟ってさ」
 英司が照れくさそうに答えると、綾美は胸の中がすっと軽くなるような気分になった。さっきまで自分を支配していた不の思考が払拭されて、急に生き残る為の希望と勇気が沸いて来たようだ。
「英司、ありがとう」
 綾美が顔に笑みを浮かべながら答えると、英司は今まで感じた事の無い幸福な気分になった。絶対に彼女を死なせるものか、という決意と共に。
「それじゃあ行こう。ここに長居しても意味は無い、早く外に……」
 英司が冷蔵庫の外に出ようとすると、目の前に一人の男が立っていた。ハッとして顔を見上げると、その男の顔には見覚えがあった。数ヶ月前に、英司の両親を殺した男の顔だった。忘れたくても忘れられない。いや、忘れるものか。この男を地獄に叩き落す一心で英司はここまで来たのだった。英司は手に握り締めていたネービーナイフでその男のみぞおちを突き刺そうとしたが、それよりも早く竹森の握っていたコルト・ガバメントのグリップが、英司の側頭部を思い切り叩いた。ゴンという鈍い衝撃と共に脳が揺られて意識が一瞬飛び、英司の身体が左に吹っ飛んでそのまま床に倒れる。
 迂闊だった。英司は朦朧とする意識の中で自分の犯した致命的ミスを呪いながら、床から立ち上がり必死の思いで反撃しようとした。だが英司が立ち上がるよりも早く竹森のブーツの爪先が腹に飛び込んできて、内臓と横隔膜を一気に押し上げた。その一撃が効いて、英司の意識は真っ暗になった。
「英司!」
 綾美は悲鳴にも似た声を上げて英司の側に寄ろうとしたが、竹森の持っていたガバメントの銃口がそれを止めた。
「そこを動くな。一言でも喋れば殺す」
 ギロチンで首を切り落とすような声で竹森が言い放つと、奥のほうから彼の部下がぞろぞろやって来た。
「遂に奴を捕まえましたね。隊長」
 宇野が竹森の側まで来て呟いた。
「ああ。だいぶ苦労はしたが」
 竹森はそう答えると、竹森にこう指示した。
「奴の武器装備を取り上げて私のところまで連れて来い」
「わかりました」
 宇野はそう答えると、英司の持っていたネービーナイフと9mm機関拳銃を取り上げて、部下二人に気絶している英司を運ばせた。綾美は凍りついた目で気絶した英司を見たが、どうする事もできなかった。英司が兵士二人によって隣の部屋に運ばれると、綾美は生まれて初めて真の絶望を味わったような気がした。
「奴が例の殺し屋か?」
 入り口近くで英司を見送った松井が竹森に尋ねた。
「ああそうだ。この騒動の元凶を作った張本人だよ」
 竹森はそう呟きながら、冷蔵庫の中で呆然と立ち尽くしている綾美を見てさらにこう言った。
「悪く思うなよ、元はといえばあいつとお前が出会ったのが全ての始まりだったのだからな」
 竹森はそう言い残すと、宇野と部下二人を残して隣の部屋に松井と共に消えていった。
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