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文字数 11,058文字

 太陽が西の空に沈みこんで辺りが真っ暗になると、強かった風もようやく落ち着きを取り戻し、村全体を覆い尽くしていた悪臭も少しは薄らいだ。雲ひとつ無い夜空にはクリーム色に光る月が浮かび、昼間の衝撃を癒すかのような静寂が辺りを包み込む。聞こえる音といえば、何処かで忘れたように鳴く夜行性の鳥の鳴き声と、風が木の枝を揺らす音くらいだ。
 英司達は綾美が休んでいる家につばきを連れて上がり込み、そこで一夜を迎える事にした。可能ならこんな村すぐにでも抜け出して目的地に向かいたかったが、たった一人の生存者を見捨てるわけにも行かなかったし、綾美の容態も心配だった。
「二日の遅れか、大丈夫かな?」
 房人が家の柱に寄り掛かって、現在位置と目的地を記入した地図を見ながら呟いた。距離にしてもう七十キロ程度の所まで来ていたが、二日の遅れとなるともう目的地についている筈だった。予定外の出来事が二つも重なったとはいえ、このロスはあまりにも大きい。もしかしたら、この近くに敵が潜んでいるかもしれないからだ。
「大丈夫も何も、何とかして取り戻さないと」
 美鈴が鍋の中にあるベーコンと野菜のパスタを摘みながら答えた。パスタはこの村にある食糧と水を、つばきの許可を得て使わせてもらって美鈴が作ったものだった。鍋から取り出して食器代わり飯盒に盛り付けると、小麦のとほうれん草の香りが、心の奥で小さくなっていた空腹感と食欲が急に刺激させてくる。
「はい、どうぞ」
 美鈴がパスタをつばきに手渡すと、つばきはパスタを珍しい物のように見つめて「ありがとう」と小さく礼を述べた。
「もしかしたら、あんまり美味しくないかも知れないけれど」
「いや、そんなこと無いですよ」
 つばきが謙遜すると、美鈴は構わずにもう一つの飯盒の蓋にパスタを盛り付け、房人に手渡した。
「ありがとう。見張りに行っている政彦の分も残しておけよ」
「わかってるよ」
 房人は美鈴から渡されたパスタをフォークに巻き付け、一口食べた。思いのほかにと言っては失礼かもしれないが、味はよく、それなりに量があっても食べられそうだった。欲を言うならば、もう少し塩味が欲しいところだが。
「英司、パスタ結構いけるぞ。お前も食えよ」
 房人はそう言うと入り口付近の窓から、ぼんやりと空に浮かんだ月を眺めている英司に声を掛けた。何か考え事でもしていたのだろうか、表情はくすんでいて、悩み多き年頃の少年の顔になっている。
 英司はパスタを受け取ると、そのまま壁際まで行って黙々と食べ始めた、その哀しげな背中を見た房人は何か言ってやりたい気持ちになったが、こういうことは彼個人で解決するものだなと思い、何も言わない事にした。
 そんな英司をよそに、美鈴がパスタを綾美の器に盛り付けると、襖を開けて、隣の部屋で横になっている綾美の側に寄った。
「綾美、起きて。無理にでもいいから食べた方がいいよ」
 美鈴は布団の中に蹲っている綾美を揺り起こして、食事を取るように進めた。
「ありがとう。そこに置いといて」
 綾美は布団に包まったまま答えた。美鈴は「早く食べないと冷めちゃうよ」といいながらパスタを枕元に置き、そのまま部屋を出た。
「綾美さんの具合は、どうですか?」
 つばきがおっとりした様子で聞いた。
「大分良くはなったみたいだけど、まだ完全に立ち直れて居ないみたい。まあ、誰だってあんなのを見れば寝込みたくなるけれど」
「そうですよね」
 つばきが膝の辺りに食器を持って俯きながら答えると、美鈴があることを思い出す。
「村の人の遺体、どうするの?」
「えっ?」
 つばきは驚いて思わず顔を上げた。
「ずっとあのままにしておく訳にはいかないでしょ。どこかに埋葬してあけないと」
「ええ、確かに」
 つばきは困惑したような声で答えた。その反応に美鈴がちょっと違和感のようなものを感じると、横に居た英司がパスタを食べながらこう話す。
「今は先を急いでいるんだし、後回しにしてもいいんじゃないか?あれだけの人数を埋葬するとなると、俺達だけじゃ人手不足だよ」
「確かにそうだけど」
「それより今は、つばきと綾美を置いていける場所を探そうよ。これ以上非武装の人間を連れて行けないし、綾美だってこの先連れて行くのはもう無理だ」
 英司は口の中のパスタを飲み込むと、横に居る房人の方を向いて、こう聞いた。
「房人、この近くで人が住んでいそうな村は?」
 英司が尋ねると、房人は側に置いていた地図を手に取る。
「ここから西に十二キロ進んだ所に川沿い近くに街がある。武装勢力と自衛隊が支配する地域の境界線で、車両に乗った連中が偵察を兼ねてパトロールに出ている」
「治安はどうなの?ロクでもないところに若い女を置いていけないよ?」
 美鈴が不安そうに続けた。
「多分ここよりはマシだと思うぞ。俺達を追いかけている奴らの支配エリア外だし、事情を話せば政府機関かどこかが保護してくれるよ」
 房人はそう一言答えて、地図を仕舞った。話に出てきた政府機関の人間にも信用できない人間はいるが、少なくとも敵地に置いていくよりずっといい。
「とにかく、明日になったらそこへ行こう。そこに綾美とつばきを置いて、俺達は先に行く。それでいいだろ?」
 英司が皆に同意を求めると、房人がこう聞き返した。
「本当に綾美を置いていくのか?」
 房人の質問に、英司はすぐに答えなかった。英司は持っていた飯盒を床に置いて壁に寄り掛かると、どこかに悔しさを滲ませながら答えた。
「あんな精神状態じゃもうここから先に連れて行けないよ。だって言ったじゃないか、覚悟の無いやつは付いて来るなって」
 歯切れが悪そうに英司は言葉を止め、水筒の水を少しだけ飲むと、さらに続けた。
「とにかく、もう綾美は連れて行けない。俺は政彦と見張りを代わって来る」
 英司はぶっきらぼうに言い捨てると、飯盒の中にパスタを残したまま、9mm機関拳銃を手にとって家を出た。
「素直じゃないね、あいつ」
 英司が出て行くと、美鈴が独り言のように呟いた。するとパスタを食べ終えた房人がウッドランド迷彩の雑嚢を枕にして寝転がり、「まあしょうがない」と含み笑いを漏らすと、つばきが小さく右手を上げて、「ちょっといいですか?」と小声で呟いた。
「なに?」
 気付いた美鈴がつばきに聞き返す。
「明日村を出るって仰ってましたよね?だったら今のうちに、荷物を纏めておきたいんですけれど、よろしいですか?」
 突然つばきが改まった言葉で尋ねて来たので、美鈴は思わず面食らった。
「なら、家に戻ってすぐに準備してきなよ。大切な品物とかもあるだろうからさ」
「はい、すぐに戻りますから」
 つばきは美鈴に向かって一礼すると、そのまま食べ終えた飯盒を、水を張った桶に入れて軽く洗い、入り口にあったスニーカーを履いて自分の家に一旦戻った。
 つばきは家に戻ると、入り口側にあったコールマン製のランプの明かりを付けた。青白い明かりに家の中が照らし出されると、つばきはそのまま家の奥にある木箱の中から、手拭いに包まれた無線機を取り出して電源を入れた。チャンネルを合わせて、通話ボタンを押すと、外に音が漏れないように声を最小にしながら、無線機のマイクに向かって話し出した。
「羊が皮を被った狼を仲間だと思い込みました。これから蓮田に向かいます」
「よし、分かった。そこで奴らを食い殺そう」
 海下はそこで無線を切ると、無線機の脇にある、同じように布を巻いたSIG・P230JPと発信器をスポーツバッグの奥に押し込み、着替えや身の回り品などをその上から詰めて、再び美鈴たちの居る家に戻った。
 家に戻ると、さっきまで布団の中で眠いっていた綾美が起きて来て、部屋の中央に設けられた囲炉裏に当たりながら、すっかり冷めてしまったパスタを食べている所だった。寝起きのせいなのか、あるいはさっきのショックがまだ尾を引いているのか、綾美の表情は酷く落ち込んでいるようだった。
「平気なんのですか?綾美さん」
 海下は再び悲劇の娘つばきに戻って綾美に聞いたが、綾美からの返事は無かった。もう彼女を支えていた意志は消えて、もう肉体だけの抜け殻になってしまったみたいだ。
「何とか、ね」
 綾美は今にも消えそうな声で呟くと、食べかけのパスタの入った器を置いた。
「さっきも言ったとおり、綾美には彼女と一緒にこの先の人の居る所に残ってもらうわ。そこから先は、英司と房人、政彦にあたしだけで行く。いいね?」
 美鈴が呟くと、綾美は風に吹かれるようにして、静かに頷いた。
「ごめんね、私、みんなの迷惑ばっかりかけて」
 綾美は俯いたまま、再び泣きそうな声で答えた。美鈴は特に彼女を気遣う様子も見せず、手に持っていたホーローのカップのお茶を飲んで、こう言った。
「そういうことだから、食べきれない分は残しておいて」
 美鈴は言い放つと、隣の部屋へ銃のクリーニングキットを取りに行った。


 
 次の日の朝は、昨日と同じように雲ひとつ無い澄み切った青空が広がり、この村に残った惨劇を洗い流すというか、刻まれた傷跡を鮮明に伝えるような感じだった。惨劇の後は、全てを洗い流して、心と身体を冷やしてくれる雨でも降ってくれればいいのに。と誰もが思ったが、生憎そういう天気にはなりそうにも無かった。経済活動が停滞し、日本国内は勿論周辺国からの工場も稼動していなかったので、空気は綺麗そのものだ。こんな状態が世界規模で後百年ほど続けば、破壊された環境も元に戻るだろう。草木は生い茂り、極地の氷は再び厚くなってホッキョクグマやアザラシなどの生き物に住みよい環境になるはずだ。その代わり、資源を消費する事によって成り立ってきた産業革命以降の文明は崩壊し、人間達は地獄を見るだろう。
 彼らは焼死体の山前に積んできた花を置き、近くの家から線香を持ってきて火をつけると、静かに両手を合わせて冥福を祈った。出来る事ならちゃんと穴を掘って埋葬してやりたかったが、いちいち一人一人に穴を掘っていたら時間が掛かりすぎてしまうし、何より得体の知れない病原菌による感染症が怖かった。英司も昨日拾った誰かの耳を地面に埋めて、耳を切り落とされた村人の冥福を祈った。
 冥福を祈り終えると、彼らはすぐさま蓮田に向かって歩き出した。歩き出して二時間もすると、周囲の景色は舗装された道路が縦横無尽に走り、遠くには工場跡地や住宅などが見える平地に変わった。もう山間部や森を離れて、都会に段々近づいているのが分かった。森では草むらや茂みに隠れている敵に注意しないといけないが、今度は建物や遺棄された車に隠れている敵に注意しないといけない。都市部も森と同じで死角だらけだ。
 都市部に入ってからの先頭と最後尾は、政彦から房人と美鈴に代わった。房人と美鈴は政彦や英司と違って、寺田からある程度の市街地での行動を教わっているから、との理由だった。この中で最もベテランの英司でさえ、市街戦の訓練は受けていない。彼が教わったのは、森での偽装、行動及び各種サバイバル技術。それに射撃と偵察監視の訓練だけだった。
 彼らは二列になりながら、舗装された道を蓮田方面に向かって進んだ、道路脇には手入れのされていない生垣や、錆びだらけの看板に空き家になった農家などがあった。交差点に残されたLED式の信号機も、ガソリン不足で通る車の無い現在は金属の木偶の棒だ。電柱も同じで、電線が無くなっているところもあれば、ダランと垂れ下がっている所もあって実にみずぼらしい。辺り一帯が死んだ魚の頭みたいに、異臭を放ちながら醜く死んでいく途中のようだ。しかし、いくらなんでも都市部に人が居ないというのは変だ。生垣や空き家の中に隠れて監視していたとしても、何故こちらを意識してこないのだろう?と英司は不安になった。
 英司達は廃墟になった三階建ての大型スーパーを見つけると、周辺警戒と小休止を兼ねて屋上駐車場に登った。すぐさま周囲を見渡して状況を確認し、双眼鏡や照準用のスコープで自分達が通ってきた道を確認したが、やはり人の子一人としていない。動くものといえば、風にたなびく草と無人の街を彷徨う野良犬くらいだ。進行方向の道路を見渡しても、やはり誰も居なかった。
「残り四キロで目的の町だ。思ったより早く着いたな」
 駐車場の輪留めに腰掛けた房人が地図を見ながら呟いた。だが彼も英司と同じく、ここまで都市部に近いのに全く人と出会わないのが気になっていた。何万分の一という確率で、人と全く出会わないという事もあるかもしれないが、あまりにも不自然すぎる。何か絶対良くないことが起きる前触れだろう。と房人は思った。
「そっちは何か見えるか?」
 房人は上の給水タンク横でうつ伏せになっている英司に聞いた。英司は双眼鏡を覗きながら、自分達が進む方向に何があるのかをメモに略図を書き、この屋上を基点として何百メートルの位置に何があるのかを記録している最中だった。英司はライフルケースから取り出したM24のスコープを覗くと、一二〇〇メートル先の交差点を、緑色の何かが一台走り去るのを見つけた。英司はすぐに視線を追いかけたが、住宅の陰に隠れて見えなくなってしまった。
「車が居た。見失ったけれど」
「どんなやつだった?」
「緑色っぽかったような」
 英司が口籠りながら答える。
「車は居たんだな?」
「ああ」
 英司が答えると、房人は地図を仕舞い、ようやく一安心と言った感じで「もう少しだな・・・」と呟いた。
「安心していいのか?」
 政彦が房人に詰めよると、房人は頭を少し政彦に向けた。
「安心した訳じゃないさ、あの村を出て以来、まだ誰とも接触していない。こんなに人の住む町に近づいているのにだ。それが不自然すぎる」
「謎があるのなら、それを解き明かそうって気は無いのかよ?」
「俺は探偵じゃない、兵隊だ。任務を遂行して、上官に報告する。お前だってそういうことを言われたんじゃないのか、ゲリラの仲間だった時に」
「俺はそういうのが嫌で、連中から抜け出したようなもんだ。自分で思いついた事を自分で実行したいからな」
「なるほど、確かにお前はそんな感じだよな」
 房人は感心しながらうなずくと、理奈子はきっと政彦のこういうところに惚れたんだなと思った。房人のように、集団の中で与えられた役割をきちっとこなす事を良しとする考えとは相容れない所がある。けれど、自分と正反対の考えを持つ奴が側にいるのは人生を豊かにするだろう。と房人は思った。
「ところでさ、話は変わるけれど」
 政彦か話題を変えると、房人が「何だ?」と聞いてきた。英司も給水タンク横で周囲を監視しながら、二人の会話に耳を傾ける。
「おまえ、これが終わったら、どうするんだ?」
「どうするって、家に帰るに決まっているじゃないか」
 房人は笑いながら答えると、「お前は?」と政彦に聞いてきた。
「俺も家に戻るけれど」
 政彦は表情を曇らせて、ぼそぼそとこう続けた。
「少し不安なんだ。これからの事が。いつまでもあのボロホテルに居座り続けても、いずれ誰かに見つかっちまうだろうし、理奈子やコウタローの将来も考えないといけないだろ」
「一家の親父さんは、将来に不安を感じているってか?」
 房人が小さく笑うと、政彦は真顔で「茶化すな」と制した。
「ごめん、ごめん。それでどうしたいんだ?」
 房人が聞き返すと、政彦はボソッとした口調で漏らす。
「お前や美鈴の居るところに住まわしてもらえないか、そっちの方が、コウタローが色んな世界に触れられるし、理奈子も辛い過去の傷を癒せるかも知れないんだ。親しい連中やその仲間と暮らすって、そういう物だろ。もちろん、村仕事の手伝いはする。いいよな?」
 房人は何か考え込む表情をして暫く黙り込むと、口元に笑みを浮かべてこう答えた。
「いいぜ、お前みたいなのが来るのは大歓迎だ。多分美鈴も同じ意見だと思う。寺田さんや他の人も皆お前らを受け入れてくれるよ。俺や美鈴だってそうだったんだから」
 房人の朗らかな返事を聞いて、政彦は胸の錘が一つ無くなった様な気分になった。
「そう言ってもらうとありがたい。希望が持てたよ。あそこに居続けても未来は無かったからさ」
「なら、お前を仲間に入れた英司に感謝しないとな」
 房人はそう呟くと、顎で給水タンクの脇にいた英司を指した。二人の話を盗み聞きしていた英司は慌ててスコープを覗き込んだ。
「なんだ、聞いていたのか?」
 房人が尋ねたが、英司は答えなかった。房人はそのまま鼻で小さく溜息を漏らすと、ポケットスコープを手に取り、ゆっくり英司とは反対方向のほうへ歩き出した。ブーツの固い靴底でコンクリートを踏みしめる音が、風に乗ってどこかに消えてゆく。
 その音を聞きながら、英司はこれからの自分は一体どうなるんだろう?と考えてみた。自分には帰る家もなければ、忠誠を尽くす組織もない。命に代えて、守るべき物さえも。
 このままたどり着いて任務を終えれば、きっと房人たちとは別れて、また孤独な一人旅に戻る筈だ。きっと自分を追っているゲリラの連中はこの一件で劣勢に立たされるだろうし、そうなればデータの要人リストの暗殺任務を請け負うかもしれない。だけれどそういう自分の未来は、なんとなく輪郭線が薄い。必死に輪郭線をハッキリさせようとすると、余計に輪郭線が薄くなる。それともこのまま西日本あたりに流れて、傭兵にでもなって、何処かで撃たれて死ぬのだろうか。でも、父さんはこんな事をさせるために、自分の持っている技術を全て息子である俺に伝えたのだろうか、絶対に違う筈だ。もしそんな目的なら、自分は今あいつらの仲間になっている。では一体何のために?何のために父さんは。
「そういや、綾美はどうするんだ?この道中の始まりに村の人全員を殺されたんだよな」
 政彦が突然思い出したようにして、英司に呟いた。英司は思考を止めて、政彦に聞き返す。
「そうだけど、お前にその話した?」
「理奈子から聞いた。寒い夜に二人だけで」
「二人だけ?」
「お前には関係ないよ」
 政彦が厄介払いのように答えると、89式小銃とクロスボウを持って、屋上の東側へと向かっていった。
 そういえば綾美も自分と同じように帰るべき家を失ったのだ。きっと寺田の村に行って房人や美鈴、政彦たちと一緒に暮らすのだろうが。
 すると、覗き込んでいたスコープの向こうで、荒れた田の一部が微かに動いた。そのまま目を凝らして注視すると、田の一部は地面から十センチくらい盛り上がっていて、その脇には迷彩塗装されたM16系のライフルが置かれ、両手に持った評定用スコープでこちらを観察しているのが見えた。英司は素早く安全装置を解除して、目標までの距離と風向きを割り出した。風向きは東南から2メートルで、目標までは距離は七〇〇メートル。向こうはこっちに気付いていない。すぐに距離と風向きを計算し、呼吸を整えると、静かに人差し指の第一関節を引き金に掛け、息を止め〝闇夜に霜が降る如く〟引き鉄を引く。その時だった。
 射撃体勢移った英司に気が付いたのだろうか、突然目の前の盛り上がった田の一部が起き上がって、人間のシルエットを露わにした。その唐突に現れた出来事に対して、英司の人差し指は彼の意思に関係なく引かれた。その時のほんの僅かな筋肉の緩みが銃身に伝わり、弾道が英司の意図した方向とは少しずれてしまった。ドン!という音と衝撃が肩に伝わり、一階瞬きをすると、弾丸は男の背後に生えていた背の高い雑草を揺らしただけで、男には命中しなかった。男は撃たれた事に気付くと、銃を持ってすぐ横の藪の中に消えた。
「何があった!?」
 銃声を聞いた房人が叫ぶと同時に、英司は銃を持って給水タンク横から勢い良く飛び降りた。
「敵だ!西の方角に一人、俺達を追っている奴らに違いない」
「本当か!?」
 政彦が駆け寄りながら叫ぶ。
「本当だ。M16にギリースーツを装備していた。もしかしたら囲まれているかもしれない」
 英司が答えると、房人が銃のチャージングハンドルを引きながらこう叫んだ。
「なら大変だ。下に居る美鈴たちを呼んで、急いでここから脱出しないと」
 房人はそう漏らすと、弾帯につけていたポーからウォーキートーキーを取り出し、下の階に居る美鈴たちを呼んだ。

 屋上で英司の放った銃声は、すぐ下の三階に居た綾美たちにもすぐに聞こえた。村を出て歩このスーパーに来たつばきが、建物に入ると急にお腹が痛いと言って、美鈴と一緒に屋上下の家電売り場まで来たのだった。窓の無い売り場には明かりが殆ど無く、並べられた家電は全て持ち出されて、屋根に取り付けられた蛍光灯は全て取り外されていた。壁に残った「セール対象商品!」「最新スマート家電がお買い得!」などの張り紙を見なければ、ここが家電売り場だったなんて想像も出来ないと綾美は思った。
声を出すと音が遠くの壁まで行って反響する現象が、コンクリートで出来た建物に入った経験の無い綾美にとって不思議な体験で、自分がユウスケくらいの歳頃だったら何度も声を出して面白がっただろう。でも今この部屋に響く音は平和を象徴する子供の無邪気な声ではなく、戦争が始まった事を知らせる、ライフルの銃声だけだ。
 銃声が聞こえてその場に呆然と立ち尽くしていると、美鈴が彼女の元に駆け寄ってきた。美鈴はつばきを女子トイレまで送った後、何かトラップのような物が仕掛けられていないかを確認する為、もう一階下の家具売り場まで下りていた所だった。
「何があったの!?」
 綾美が動揺しながら美鈴に尋ねる。
「無線によると、敵襲だって」
 美鈴は息を切らしながら答える。
「敵襲って、どうすればいいの?」
「とにかく状況を確認しないと」
 美鈴は一言呟くと、ウォーキートーキーを取り出して屋上の房人に聞いた。
「敵の数は何人?」
 通話ボタンを押して、無線機に語りかけると、ザッというノイズの後に、房人の声が聞こえてきた。
「数は分からん。攻撃された訳じゃないからな」
「もし斥候なら後ろにはワンサカ敵が居るって事だよ。少なくとも三十人は見ておかないと、今そっちに向かうわ」
 美鈴はそこで無線を切ると、持っていたM27IARの安全装置を解除して、チャージングハンドルを引いた。ジャキッという金属音がして、薬室内に実弾が装填される。戦闘準備の合図だ。ここから先流れ弾に当たって命を落としても、誰にも文句は言えない。
「あたしはどうすれば?」
 綾美が不安げに聞く。
「悪いけれど、トイレに居るつばきを呼んで来て、そしたら一緒に上まで来てちょうだい。銃は持っているわよね?」
「一応」
「ならすぐに撃てるようにしておいて、何かあったら、自分で身を守るんだよ」
 美鈴はそう答えると、すぐさま駆け出して房人たちの居る屋上に向かった。綾美は美鈴を見送ると、手持ちのバッグの中からワルサーPPKを取り出し、安全装置を解除した。弾は予備を入れて十八発。それ以外に武器と呼べる物があれば、ジーンズのベルトに通したカミラスのエアフォースサバイバルナイフくらいだ。
 綾美は銃を持ったまま、つばきが入っている女子トイレへと向かった。もうトイレに水は流れてはいないが、給水タンクに残った水があれば大便は流せる。けれど今はそんな事よりも、つばきの心配をしなければいけない。彼女はこの中で唯一の非武装なのだ。綾美も昨日の一件から完全に立ち直ってはいなかったが、無防備な人間を守らなくてはいけない。という気持ちの方が強かった。
 
 美鈴が屋上に出ると、房人たちが敵を発見した方角に、周囲の様子を探っていた。美鈴は狙撃されないように身を屈めながら彼らに近づくと、銃を構えながら聞いた。
「敵の数は?」
「一人、狙いは外した」
 英司がM24のスコープで敵を探しながら答えた。
「ワンショット・ワンキルが鉄則じゃないの?」
「突然敵が動いてトリガーをガク引きした。誰にでもミスはある」
 英司はスコープを除いたまま答えた。さっき敵が逃げ込んだ茂みの辺りを重点的に探ったが、動くものは何も無い。下手に発砲してしまえば、こちらが攻撃されてしまう。
 すると、英司の4メートルほど右上を、何か小さな粒が高速で飛んでいく音が聞こえた。そしてその次の瞬間、彼の前にあるコンクリートの壁に弾丸か何発か当たって、小さなコンクリート片が飛び散った。
「伏せろ!」
 英司が反射的に叫ぶと同時に、何発もの銃弾が彼らの固まっている壁の反対側に何発も打ち込まれた。距離があるせいで、敵の使用する5・56mm弾では壁は貫通できなかったが、実戦経験の浅い英司達を振るえ上がらせるには十分だった。
「見つかったぞ、畜生!」
 政彦が毒づいた。
「この歓迎はしっかりやらないと」
 房人が訳の分からない言葉を漏らすと、匍匐前進しながら美鈴の元へと寄る。
「何でここに居ることがバレた?」
 美鈴が房人に聞いた。
「誰かが追跡していたか、あるいはこの近くに誰か潜んでいて俺達の存在を知らせたか、どっちかだ」
 房人が答えると、コンクリートの壁に当たってくる銃撃の音はよりいっそう強くなり、壁が崩れる音もよりいっそう強くなってきた。M16の射撃音に混じって、M240B機関銃の音も聞こえてくる。
「とにかく、ここから逃げようぜ!このままだと無反動砲に迫撃砲まで打ち込まれるぞ」
 政彦が叫ぶと、彼らは身を屈めながら下の階に下りる入り口へ走った。放たれた銃弾の何発かは何処にも当たらず、そのまま彼らの頭上を飛んで行った。全員が中に入ると、シュルルという大きな物体が空気を切り裂く音が聞こえてきた。すると、さっきまで英司が見張りに立っていた給水タンクが轟音と黒煙を撒き散らしながら粉々に吹き飛んだ。破片と衝撃波が、入り口自動ドアのガラスを粉々に砕き、英司達の内臓を振動させる。
「迫撃砲だ!奴ら本気だぞ」
 房人が叫ぶと、彼らはそのまま三階に降りた。それと同時に、今度は無反動砲だろうか、屋上の壁が激しい爆発音と衝撃を放ちながら吹き飛ぶ音が聞こえた。こちらが反撃してこないと知って、建物ごと吹き飛ばす気のようだ。さらにその後も、立て続けに砲弾が二発撃ち込まれ、建物全体を激しく揺らす。衝撃が収まって他の事を考える余裕が少し生まれると、綾美とつばきが居ない事に気付いた。
「綾美とつばきは?」
 英司が美鈴に聞いた。
「綾美ならつばきを呼びに……」
 美鈴が言いかけたその途端、彼女は喉を凍らせて「まさか」と呻いて、英司がこう続けた。
「たぶん、つばきが俺達に紛れ込んだスパイだ。間違いない」
「ちょっと待てよ、どうしてつばきが俺達の中に潜り込めたんだ?」
 政彦が尋ねると、英司が彼の方を向いて表情を曇らせながら答えた。
「こっちの行動パターンを全部呼んでいたんだ。何処かの村に立ち寄れば、必ずその村の住人を一人仲間に引き入れる。俺が今までしてきた事を利用したんだ」
 英司は悔しさを表情に滲ませながら、わなわなと小さく震えた。前の村に立ち寄って、つばきを最初に助けたのは紛れも無い英司自身だ。綾美や房人、政彦たちと出会い久々の優しさに触れ、人を疑う事に躊躇いがあったのかも知れない。それで綾美が犠牲になれば、俺のせいだ。
「とにかく綾美が危ない。俺はすぐ彼女の元へ行く」
「おい、英司!」
 政彦の制止を振り切り、英司は一人で彼らは綾美がいる女子トイレに向かった。

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