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文字数 8,672文字

 住宅街を抜け、工場と運送会社の集配センターが並ぶ地域に足を踏み入れた瞬間、海下は西の方から風に乗ってくる大きな爆発音を聞いた。立ち止まって耳を澄ますと、それが敵の落とした航空機爆弾である事がすぐに分かった。西側に展開している部隊があの爆撃で甚大な被害を受ければ、この戦いももうすぐ終わりだ。後方にいる竹森や宇野の部隊もいずれ殲滅される運命にある。もしそうなれば、私は逃げ出した女兵士とでも思われて、犯されたあと無残に殺されるのだろう。だが、そうなる前にやらなければならない事が一つだけ残っている。それを成し遂げて何かを見つけられれば、私は何をされても構わないと、海下は思うほど英司に心を奪われていた。
 海下は思考を整理する為に一呼吸すると、工場地帯の道を西に向かって進んだ。都市というのは様々な建物が林立して、森と同じように自分がいかにミニマムな存在であるのかと言う事を改めて認識させられる空間であった。だが、都市の道はきちんと舗装されており、自分が残した足跡や痕跡が全くと言っていいほど残らない。こんな所で手負いの狙撃兵を見つけ出して仕留める事は楽な仕事ではない。森では木の根に付いた泥や折れた草などで相手の通った事が分かるが、ここではそこに人間が居たことさえ証明する手段が無い。こんな何も残らない空間で日常を過ごしていた人々は、自分達が既に空気と同じ存在であることに気が付いていたのだろうか?というのが海下の都市という空間に対する印象だった。
 海下は一旦道を左に折れて、近くを流れる小川沿いの道をさらに西へ進んだ。遠くの方で戦闘騒音が聞こえてくる。あれは竹森達が戦っている音だろうか。すると、彼女は履いているブーツの爪先に、何か柔らかいものが触れるのを感じた。何だと思って拾い上げると、それは鮮やかな朱色に染め抜かれた包帯だった。じっとりとして重たく、指先に粘着く感触があるから、極最近に捨てられた物だろう。さらに足元を見ると、ガーゼか何かを入れていたらしい紙袋の残骸と、こぼした水の痕があった。この先は工場や民家の数が減り、所々に畑などがあるエリアに出る。都市部には敵が居ると判断したのだろう。だとすればそれは大きな間違いだ。
「逃がすものか」
 海下は低く漏らすと、包帯を捨てて前に進んだ。
 
 綾美は負傷した英司の包帯を取り替えてやると、傷口に新しいガーゼと止血帯を当て、少し残っていた塩と角砂糖を水筒の水で溶いて飲ませたが、効くかどうかは分からなかった。
「具合はどう?」
 綾美は廃墟になった工場の壁に寄りかっている英司に尋ねた。太い血管を傷つけたのか、英司の出血は止まる様子が無かった。
「大丈夫、ちょっと位血が出ても平気だよ」
 英司は特に苦しむ様子も無く答えたが、実際には止まらずに流れ出る自分の血に恐怖を覚え始めていた。あと一時間もしない内に顔が土気色になって体の動きと思考が鈍くなり、立っているのもやっとの状態になるだろう。だが出来る限り綾美を不安にさせたくないし、もし最後まで生き残れる希望があるならば、たとえゼロに近い確率であってもそれに掛けるつもりだった。
「無理だけは絶対にしないでね、お願いだから」
「心配しなくていいよ、止血帯も当てたんだし大丈夫だって」
 英司は気丈な振りをしてそう答えると、綾美と共に再び前へ進んだ。進んだ方向が正しければ、東京と埼玉の県境の所まで来ている。何とかして東京に逃げ込めば、助かるかもしれない。
「足は痛くない?」
「うん、大丈夫」
 英司の不意の質問に、綾美は朗らかな声で答えた。本当は足の裏や指の関節の辺りに水ぶくれが出来てかなりの痛みを発していたが、腕を負傷しながら歩き続ける英司を前にして弱い所は見せられなかった。
 二人は工場を抜け、近くに民家と畑が点在する開けた道を進んだ。さっきまで居た住宅街とは異なり、建物の数が減って緑が多くなっているような気がすると思った綾美は地図を取り出し、現在地を確認しようとしたが、生憎辺りを見回しても住居表示らしい物が見つからない。あるのは朽ち果てたSUVが一台に古ぼけた民家、それと畦道にある。刈り取られて茶色く変色した雑草の山がある程度。こんな状況で迷子になるのはまさに命取りだ。
 二人は壊れて動かなくなった二機の自動販売機の陰に隠れると、綾美がきょろきょろと辺りを見回す英司に向かってこう口を開いた。
「英司、ここに居て」
「何だよ急に?」
「どうやら道に迷ったみたい。住居案内表をみつけてくるから待ってて」
「駄目だ。一人で行くのは」
 英司が制した。
「大丈夫よ、敵のいる所からは離れているし・・・」
「駄目だ。現にさっき的に狙撃されたじゃないか」
 英司のその一言に、綾美は口を噤んだ。
「綾美の気持ちは分かる。でも今は冷静で居ないと」
 と英司が言い掛けた瞬間、離れた民家から犬が吼える声を聞いた。おそらく避難民が縄を外すのを忘れて置いてけぼりを食った犬が吼えているのだろう。だが犬が吼えるという事は、自分達以外にも誰かがここに侵入したということだ。英司は素早く立ち上がると、突然の出来事に慌てふためく綾美の手を引いて、急いでその場を離れた。
「敵が来た。急いでどこかに隠れないと」
「何で敵が来たって分かるの?」
 綾美が尋ねると、英司は走りながらこう答えた。
「火薬の臭いだよ。犬が吼える程火薬の臭いが強いとすれば、そいつは極最近に銃を撃ったって事なんだ」
 二人は二〇〇メートル程道路を走り抜けると、近くの荒れ果てた畑に逃げ込み、畦道を盾にして地面に伏せた。走ったせいで心拍数が上がり、英司の負傷した腕からは血がさっきよりも多く噴出していた。
「英司、腕は平気?」
「腕のことはどうでもいいから、今は逃げる事を考えて」
 英司が呟くと、綾美は傷の事は話さないと胸に誓った。盾にしている畦道の盛りがそれ程高くないせいで、かなり姿勢を低くしないと身体の一部がはみ出てしまう。このまま這って移動すれば逃げられるかもしれないが、二人が隠れている畦の長さは五〇メートルも無い。犬の鳴き声は、侵入者が犬を殺したのかもう聞こえなくなっていた。
 英司は身体を持ち上げないようにうつ伏せのままM51パーカーのポケットを探り、コーナー確認用のミラーを取り出して周囲の様子を探ろうとしたが、使っても敵に居場所を教えるだけだと思って止めた。暗くなるまで待ってから逃げようかと思ったが、この傷の状態では暗くなる前にこっちが死んでしまう。他にも方法が無いか英司は思案を巡らせて見たが、何一つ言い案が浮かばない。出血したせいで脳に血が回らなくなり、思考が鈍っているのだろうか、何とかして冷静さを保とうと努力しても、謎の焦燥感に煽られて怒りっぽくなる。こうしている間にも、奴は自分達の居場所を探し出して自分達を殺そうとしているのに。
「英司」
 不意に綾美が彼の名前を呼んで、すぐ側まで這ってきた。英司は近づいてきた綾美の住んだ瞳をぼんやり眺めていると、さっきまで張り詰めていた脳の神経が嘘みたいに解けて、思考がリセットされたような感覚を覚えた。綾美はすぐ英司の側まで来ると、彼の肩に手を掛けて、俯くように頭を下げて静かに口を開いた。
「私、何なら囮になっても良いんだよ?」
「駄目だ、そんな危険な事を……」
「〝死んでも文句を言うな。その覚悟が無い奴は連れてはいけない〟って言ったのは誰だっけ?」
「それは……」
 英司が困惑した顔で返事に詰まると、綾美は彼を励ますようにこう言った。
「大丈夫。私、英司の事を絶対に信じているから、英司も同じように私の事を信用して、お願い」
 英司はその言葉を聞いた途端、彼女が自分の存在を始めて認めてくれたような気持ちに包まれて、この上の無いような幸福な気分を味わった。そうだ、何も自分が他人を認めてくれる訳じゃない。他人が自分を認めてくれる事だってあるのだ。その事に改めて気付かされると、英司はこの大切な人を絶対に守り通したいという気持ちを、再び胸の中に宿した。
「分かった。なら、餌になる覚悟は出来ているんだね?」
 英司が綾美に尋ねると、綾美は静かに首を縦に振った。


 海下は自分に向かって勇ましく吼えていた雑種の犬をナイフで黙らせると、出来るだけ視界が確保できるところに移動して、双眼鏡を使い周囲の状況と遠くにある物までの距離を確認した。一番遠くに見える電柱まで距離は七〇メートル。近くの草を摘んで肩の高さから落として風向きを見ると、東から西に向かって三メートルの風が吹いていた。
 海下は双眼鏡を再び覗き込み、周囲に何か変わった様子が無いか詳しく調べ始めた。ギリースーツは捕まった時に押収しておいたから、のんびり偽装している暇など無い筈だ。もっとも、奴は東京にたどり着く事を最優先にしていたから、ここには居ないかもしれない。だが、英司の気質からして撃たれたまま尻尾を巻いて逃げるとは到底思えない。こっちは犬の鳴き声で存在をわざわざ教えてやったのだ、きっと復讐しに来るに違いない。
 海下はその場を離れると、身を屈めながら西側に移動して放置されたまま朽ち果てているトヨタ・ハリアーの影に隠れた。周囲には草が生い茂り、ギリースーツがあれば偽装する事もできたが、生憎身軽になる為に途中で捨ててしまった。だが慌てる必要は無い。向こうは深い傷を負って居るし、ずぶの素人女を連れて歩いている。冷静になれば絶対に倒せる筈だ。絶対に。
 海下はそうやって自己暗示を掛けると、M40A3のスコープ保護キャップを外し、車に左手を添えて親指を突き出すと、その親指と人差し指の間にストックを乗せて、周囲の様子を探った。ミルドットの目盛りの付いた十字線の向こうに浮かび上がる、ズームされた荒れ放題の畑とその奥の古びた住宅街の風景の中に、何か蠢くものが無いか探して。
 そうしていると、畑から伸び放題になっている草がほんの少しだけ揺らめくのが見えた。その根元にスコープを合わせると、茶色のウィンドブレーカーを来た人間の上半身が見えた。距離は四〇メートル。海下はゆっくり息を吸って静かに吐き出すと、引き金に人差し指の第一関節を引っ掛けて、一気に力を込めて引き金を引き、撃鉄が落ちる寸前に力を緩めた。すると、遠くの方から銃声が響いて、放たれた銃弾が彼女の左腹部を打ち抜いた。内臓を一気に押し上げられるような衝撃を感じた海下は、そのまま車に添えていた左手で何とか身体を保とうとしたが、次に襲ってきた出血の痛みに耐え切れず、そのまま右肩から転がるようにして地面に倒れた。

 
 草むらの中でじっと伏せていた綾美は、銃声が聞こえた時自分が撃たれたのではないかと身構えたが、自分の身体に何も変化が無い事を確認すると、ほっと胸を撫で下ろし、少し離れた草の山に隠れている英司の方を向いた。草の中からは迷彩塗装を施した狙撃銃の銃身が角のように突き出ていて、銃口からは煙がうっすらと立ち上っている。
「英司?」
 綾美は英司に聞こえるよう大きな声で叫んだが、英司から返事は無かった。まさか、と綾美の頭の中を一抹の不安がよぎったが、草の中からボルトを操作する金属音が聞こえて、綾美は再び胸を撫で下ろした。
 英司はボルトを操作して熱くなった空薬莢を排出すると、再びスコープを覗き込んで、今倒した敵の狙撃兵を見た。発射した時の発砲炎で枯れ草に火がついて火だるまになるかもしれないという不安があったが、幸運にも昨日の雨でじっとりと濡れた枯れ草が燃えてはくれなかった。撃たれた敵は赤い血が吹き出る左の腹を抑えて地面を這い蹲り、必死の思いで生への執着を見せている。すぐに死にはしないだろうが、もう再び自分達を攻撃してくるだけの体力は残っていないだろう。心臓の辺りを狙ったのに、弾道が左下に逸れたのは風の計算を間違えたのだろうか?
 撃たれた敵は一〇メートルほど這い蹲ると、その場で力尽きたように動かなくなり、そのまま仰向けになった。這った地面には流れ出た血が草に付き、日の光を浴びてぬらぬらと光っている。死ぬ時だけは大空に自分の顔を向け、神の慈悲を受けて死にたいのだろうか。英司がスコープでその顔を覗くと、海下は血を吐いた口を動かしながら、今にも泣き出しそうな顔で何か空に向かって話している。一体何が彼女をそこまでさせるのだろう?と英司は疑問に思ったが、悔しさをどこかに含んだような彼女の瞳を見ると、彼の心を冷たい稲妻が走り抜けて、その理由を理解させた。
 英司は再びボルトを引いて薬室内の実包を全て取り出してポケットに仕舞うと、安全装置を掛けて枯れ草の中から出た。草の中から出てきた英司に、草むらにいた綾美は声を掛けよとしたが、仄暗い水を詰めたガラス瓶のような彼の瞳を見て、止めた。英司が何かに取り付かれたような足取りで北の方に向かって歩いて行くと、綾美も見えない何かに押されたように彼の後に続いた。
 四〇メートルほど歩いて海下の所まで来ると、海下は英司と綾美に気付いたのか頭をこちらに向けたが、二人を見つめるその眼差しにはもう敵意の念は無かった。
「私を嘲笑いに来たの?」
 海下は弱々しい声で英司に尋ねた。
「嘲笑うなら、お前にとどめを刺すよ」
 しゃがみ込みながら英司が素っ気無く答えると、海下は堪えていた気持ちを爆発させて英司の襟首を掴み、目に大粒の涙を浮かべながら叫んだ。
「どうして、何でいつも私ばっかり大切なものを失うのよ!一体あんたと私とあんた何が違うの?!同じ人殺しの筈なのに、何でよ……」
 海下は顔をくしゃくしゃにしながら泣き叫ぶと、英司の胸を叩きながらさらに続けた。
「何でよ!私はあんたと同じように家族や大切な人も失って、耐え難い恐怖にも打ち勝って、大勢の人の命だって奪ってきたのに、どうしてあんただけ、私が一番失いたく無かったものを失わずに済むのよ……」
 海下の嘘偽りなど無いまっさらな気持ちに何も返す事ができない英司は、自分が酷く卑しくて姑息な人間に思えてきた。
「黙ってなんか居ないで答えなさいよ!あんた答えを知っているんでしょ?教えなさいよ、その理由を!」
 英司が沈黙を貫き通すと、耐えかねた海下は英司から離れて胎児の様に身体を丸めて、嗚咽を漏らしながら一人で喋り始めた。
「どうしてよ?私はずっと自分が大切なものを失わないように必死で努力してきたのに、どうしていつも裏切られてばかりいるの?酷いよ、何でいつも、私は何かを失い続けなければいけないの……」
 海下はそこで終えると、嗚咽を漏らしながら子供のように泣いた。その泣き声は側にいた英司の耳を通って、感覚の向こう側に繋がる場所へと消えてゆく。英司は両親を殺された時と同じような無力感を味わいながら、静かに口を開いた。
「俺は……」
「何であんたに同情なんかされないといけないのよ!」
 海下のあまりにも素直な気持ちから来る狂気の声に、英司は再び口を噤んだ。
「さっさと殺しなさいよ。もう命だって失う事は惜しくない。どうせ地獄で永遠に苦しむ事が私の全てなら、もうどうでもなれよ。早く銃でもナイフでも使って、虫けらみたいに殺しなさいよ!恨んだりしないからさ、早く殺してよ!」
「嫌だ、殺せない」
 英司は力なく答えた。だって今ここに居るのは英司の知っている海下ではない。彼が知らなかった、本当の海下なのだ。
「冗談じゃないわよ!今まで何人も殺してきたのに、人から頼まれた時は殺せないって言うの!?」
 海下の鬼のような剣幕にも、英司は顔を背ける事すら出来なかった。海下は激しい絶望感に襲われると、再び仰向けになって薄く灰色に濁った空を見つめた。
「畜生、何で……」
 海下がそう一言呟くと、隣に居た綾美が彼女の側に立ち寄って、海下の手を両手で優しく握り締めた。
「椿」
 綾美は海下の名前を呼んで注意をこちらに向けさせると、彼女の瞳を包むように覗きこみながらこう言った。
「私にあなたの求めているものを教える事は出来ないと思う。だけど、これだけは言わせて」
 海下、いや椿が静かに綾美の目を見ると、綾美は握り締めた椿の手を額に当てながらこう続けた。
「あなたはとても優しい人、優しすぎるくらいに優しい人だから、それだけは忘れないで」
「そんな、私はあんたを騙して殺そうとした奴だよ?」
 椿が漏らすと、綾美は小さく首を横に振ってこう否定した。
「それは違う。本当に酷い人なら、あの時私を殺している筈だもの、それにあなたは私が捕らわれている時に、キャンディを持ってきてくれた」
「それは……」
「椿は違うって言うかもしれないけれど、私はそうじゃない。あなたは優しすぎるくらい優しい人だから、その事は絶対に忘れないで」
「綾美……」
 椿は嬉しさで胸が一杯になって、目から再び涙が溢れ出した。こんな事で無く柄じゃないのにと、思ったその瞬間、内臓をかき回されるような感覚が再び彼女を襲って、椿は朱色に染まった血を口から吐いた、横隔膜が押されて息が出来なくなり、身体のあちこちの感覚が麻痺して、乗り物酔いの後みたいに気分が悪くなってくる。椿は腹に溜まった血を全て吐き出すと、急にぐったりしたようになって、また仰向けになった。
「私が優しい人?」
 椿は嬉しさを噛み締めるように呟くと、今までの全てが流れ出てくるように、瞳からどんな泉水よりも清らかな涙が溢れた。本当なら心を裸にしてこの気持ちを感じたかったが、もうそんな余分な力は残っていなかった。
「そう。とても優しい人。絶対に忘れないで」
 綾美の言葉に、椿は自分の全ての思考が支配されていくのを感じた。そう、自分は優しい人間。小さい時に周りの大人から「いい子だね」と素直に褒められた時の言葉と嬉しさが、頭の中で何度も反響する。
「そうだね。絶対に忘れないよ……」
 椿は微笑みながら呟くと、思いつめたような顔をした英司の方を見て、傷口を押さえていた方の手を彼に差し出し、屈託の無い笑顔を携えて、英司に向かってこう言った。
「英司」
「何だい?」
 椿の弱々しい問いかけに、英司は彼女の瞳を覗きこみながら答えた。
「あなたにこんな台詞を吐くのも可笑しいかも知れないけれど、言わせて」
椿はもったいぶるように初めの言葉を呟くと、最後の力を込めてこう続けた。
「あなたは私の失なった一番大切なものを最後に持って来てくれた。あなたに出会わなければ、本当に何も手に入れられないままだった。本当にありがとう」
 その言葉を聞いた英司は血に染まった彼女の手を握ろうと手を差し出したが、椿の手は英司の手に握られる事無く、そのまま地面に力無くに倒れた。英司と綾美は椿の目元に浮かんだ涙をそっと指で拭うと、優しく彼女の瞼を閉じてやった。
「良かったのかな?これで」
 英司が呟くと、綾美が椿の両手を胸の上で握らせながらこう答えた。
「分からない。でも、彼女は最後に一番大切なもの一つ手に入れることが出来たんだから、それでいいんじゃないかな」
「そうか、そうだよね」
 英司は静かに頷くと、すっと立ち上がろうとした。だが立とうとした瞬間に目の前の景色が灰色に染まり、急に気分が悪くなって前後不覚になった。倒れる一歩手前のところでM24を杖代わりにしたが、それでも立つ事は出来ずに尻餅をついてしまった。
「英司!?しっかりして!」
 血相を変えた綾美が慌てて英司の体を支えたが、今の英司には起き上がっている状態でも苦痛だった。土気色の額には冷や汗が浮かび、呼吸もさっきより荒くなっている。
「大丈夫、ちょっと立ちくらみになっただけだよ・・・」
 英司は平気な振りをして誤魔化そうとしたが、無理だった。綾美がすぐさま彼の脈を見ると、もう既に弱くなっている。一番恐れていた事が起こったなと英司は胸の内で呟いた。
「失血の症状が出てる。どこかに診療所跡みたいなところは無いかな?そこに行けば」
「いや、いい」
 慌てふためく綾美を英司が制した。
「でも、早く何とかしないと死んじゃうよ!?」
「大丈夫だよ、ちょっと血が出たくらいで死には」
「ちょっとじゃない!」
 綾美はヒステリーとも悲鳴ともつかぬ声で、気丈な真似をする英司を叱った。
「このまま放って置いたら本当に死んじゃう。だからお願い、私の言う事を聞いてよ・・・」
 綾美が声を震わせながら英司に最後の一押しをすると、英司は自分の肩を握り閉めていた綾美の手にそっと自分の手を重ねて、耳元でそっと囁いた。
「ありがとう。でも、俺達には絶対にやらなきゃいけない事が一つだけ最後に残ってる。山内さんとの約束。それは分かるよね?」
 英司の言葉に、綾美は小さく頷いた。
「なら、まずその約束を守らせてくれないかな?」
「嫌だ、今は英司の方が」
「綾美!……」
 英司が一言彼女の名前を呼んだが、綾美は痛みに耐える表情のまま答えなかった。
「俺はここに来るまで多くの人に会って自分を変えることが出来たし、失いたくない大切な人ともめぐり合う事ができた。だけど、最初に交わした山内さんとの約束は、ちゃんと最後まで成し遂げたいんだ。もしそれを今ここで投げ出したら、ここに来るまでに手に入れた大切なものが全て意味の無いものになる。だから、俺のわがまま聞いて」
 英司の言葉に、綾美は小さく嗚咽を漏らしながら、「うん」と答えた。
「なら、前に進もう。途中で病院か何かがあるかも知れない」
 英司は綾美に支えられながら立ち上がると、覚束ない足取りで再び前に進み始めた。
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