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文字数 13,345文字

 スーパーからおよそ二キロ離れた住宅街の一角に、小島たちの乗る74式戦車は停車していた。突入班の無線連絡と同時にスーパーに突入し、彼らの脱出援護に回る瞬間を待っていた。
「何だかソワソワするな」
 砲手席の豊田がインカム越しに呟いた。
「敵の警戒エリアの内側にいるんだ。傍受されるかもしれないから連絡は無しだ。あと二時間して戻ってこなかったら、作戦開始だ」
 操縦席の田所が答えた。彼らが英司と綾美を助ける為に立案した作戦はこうだ。まず房人、美鈴、政彦の三人が敵の警戒エリア内に潜入し、情報収集を行う。二人の生存が確認されれば彼らはそのままスーパーに侵入し二人を救出の後、無線で連絡し戦車が支援に駆けつける。戦車は配備されている敵装甲車と敵兵を撃破したあと房人達を乗せてそのまま安全圏まで脱出後、美鈴の持つ個人用無線で救援を呼ぶ事になっていた。本来なら戦車だけでなく、武装ヘリコプター数機と数十人の特殊部隊隊員が必要な作戦だったが、そんな人員は何処にも無く、しかも突入する建物の構造さえ把握できていないという無理を承知での救出作戦だった。
「何だかソワソワするな」
 岩本が囁き声で漏らすと、業を煮やした小島がインカム越しにこう言い放った。
「貴様ら静かに出来んのか。ただでさえ大博打の作戦なんだぞ、一人のミスが全滅に繋がる事だってある。もっと緊張感を持て」
 その言葉を聞いた三人は直ぐに口を噤み、それから口を開く事は無かった。もう誰かのミスで取り返しのつかない事態になるのは御免だ。絶対にこの正気の沙汰とは思えない作戦を絶対に成功させてやると、小島は強く自分に言い聞かせた。


 小雨だった雨も今ではすっかり上がり、一日の垢を流し終えた空気は何処までも澄み切って、人間の嫌な所を清めてくれる。しかし清められるその瞬間、人間は自分が最も汚れた存在であると気付かされるのだ。
 海下は英司と綾美の居る冷蔵庫に押し込むと、気持ちを落ち着かせるのを兼ねて屋上の見張りに立つことにした。迫撃砲弾で粉々になった屋上の出口に立つと、雨雲が過ぎ去った夜空にはいくつかの星が煌めき、まるでヨーロッパの古い神殿に描かれたフレスコ画の天使のように、下界に住む自分を見下ろしている。その天使のような星達が微笑んでいるのか、それとも嘲笑しているのか今の私には分からない。だがそんな事どうでもいいと、海下は胸の中で呟いた。
 屋上西側の砲弾によって外壁が崩れた所に来ると、外からこっちの姿が見えない場所に荷物を置いて、ライフルバッグからM40A3を取り出した。そういえば英司は綾美を助けに来る時、英司は狙撃銃を持っていなかった。一人で来たと言うことは、仲間に預けたのだろうか。仲間―聞いていて本当に気持ちのいい言葉だ。家族とも友人とも違う。もっと心の奥底で繋がっているような、そんな感じの言葉。確かに今の自分は仲間達と一緒に行動しているが、ここで思い浮かべた仲間とは違うような気がする。私は行動を共にしている彼らから自分の能力を求められているのであって、志とか使命とかそういう部分では繋がっていない気がする。単に行動を共にしているから、文面上仲間という言葉を使っているだけに過ぎない。と海下は思った。だからあの時英司に対して強い嫉妬心を持ったのは、彼が心の奥底で繋がる存在を手に入れていたからだったのかも知れない。
 監視に就くと、下の方で隊員の点呼を取る声が聞こえた。英司が侵入したのを受けて、警戒パトロール隊を編成したようだ。班長の男が下で何か説明しているが、そういうことは建物の中でやって欲しい。真っ暗で視界が聞かない状況では、隠れている敵の囁き声が聞き取れるくらいに耳を澄まさないと意味が無い。欲を言えば暗視装置が欲しかったが、持っていなかった。
「夜風に打たれながらの監視任務、ご苦労だな」 
 しばらく監視に当たっていると、突然宇野が海下に声をかけた。海下がハッとして海下が振り向くと、宇野は呆れたような声でこう続けた。
「その様子だと、何か考え事でもしていたのか?」
「下の連中がうるさくて足音が聞こえにくかっただけよ」
「パトロールの奴らなら、三十分前に出発しているぞ」
 宇野が嫌みったらしく言うと、海下はお茶を濁すように、「ごめん。ぼうっとしていた」と呟いた。
「困るぞ、部隊の狙撃兵がそんなコンディションでは。敵が夜襲をかけてくるかもしれないから、警戒はしっかり頼むぞ」
 そう言って立ち去ろうとする宇野を、海下は「何か情報は?」と聞いて引き止めた。
「何も無い。昼間なら何らかの痕跡が残って追跡できるかもしれないが、この暗闇だ。下手に動くと敵の罠に掛かる可能性もある。おまけに雨が降って痕跡も綺麗さっぱりになっているだろうからな、軍用犬がいたとしても、痕跡を見つけるのは難しいかも知れん」
「あの二人の処遇は?」
 海下は申し訳なさそうに宇野に尋ねる。彼女も英司と綾美がどうなるか分かりきっていたが、どうしてももう一度確かめたかった。
「適当な時間になれば始末するんじゃないのか?隊長に聞いてみろよ」
「その時は、あたしに始末させてくれない?」 
宇野がそう言いながら戦闘服のポケットからメリットを取り出して火を点けて煙を吐き出すと、突然海下が口走った。
「何だ、急に。ストックホルム症候群的な何かか?」
 宇野がメリットを吹かしながら尋ねる。
「お願い。どうしてもやらせて。あいつの息の根をこの手で止めたいの」
 海下が熱のこもった目で迫ると、宇野はメリットを咥えたまま「分かったよ」と折れるように答えた。
「あとで俺から隊長に言っておく。俺はこれから隊長と一緒に警戒任務に就かなきゃいけないから失礼するよ」
「はい、ありがとうございます」
 珍しく敬語を使った海下の礼に宇野は頷くと、そのまま階段を降りて下の階に消えていった。



 英司は目を覚ますと、自分の鼻が詰まっている事に気付いた。全裸にされてその上長時間吊るし上げられたのだから、風を引くのも当然だったが、呼吸しづらいほど詰まっている訳ではない。さっき綾美が着せてくれたウィンドブレーカーのお陰だろうかと思うと、自分が仰向けに寝ていて、その上に重たい何かが乗っかっている事が分かった。邪魔臭いと思ってだるくなった右手でどかそうとすると、その掌に柔らかい何かが触れた。そして少し力を入れると、柔らかいものが優しく変形して、薄いに布越しに滑らかの肌の感触が伝わってくる。
「英司?」
 綾美が眠たげな声で呟くと、英司は慌てて綾美の胸から手を話し、平静を装って自分の上に乗っかった彼女に向かって「起こしちゃった?」と尋ねた。
「ううん、平気。私も半分目が覚めていたから」
「そう」
 英司は申し訳なさそうに呟いた。目の前の綾美が息をするたびに、彼女の鼻息が顔に掛かってくすぐったい。
「ごめんね、上に乗っかっちゃって。寒くて風邪を引いちゃいけないと思ったから・・・重かったでしょ?私」
「いや、そんなこと無いよ。ありがとう」
 英司は自分でも間抜けに思える口調で答えた。どうやらこういうシチュエーションでは綾美のほうが上手らしい。綾美はその英司の反応が面白かったのか、クスッと笑って久しぶりの笑顔をその美しい顔に咲かせた。彼女は英司に胸を触られたくらいで、怒ってしまうような人間ではない。
 二人はしばらくそのままの状態でいると、まるで自分達が地球上で最後の存在になったような気分になった。ずっとこの状態が続いて、争いも搾取も貧困もない二人だけの平和な世界に旅立ってしまえばいいのにと思ったが、冷蔵庫の外を歩く番兵の足音が現実に引き戻した。
「私達、このままどうなっちゃうのかな」
 綾美が英司の横に寝転がりながら呟いた。英司は着ていたウィンドブレーカーに包まりながら、彼女の物憂げな目を見てこう答えた。
「運が無かったら、後もう少しで殺されると思う」
 英司は他人事みたいな感じで呟いたが、何かここを抜け出すチャンスはないかと考えを巡らせている所だった。こっちは両手が自由だから、あの番兵さえどうにか出来れば脱出出来るのに。
「ごめん。俺があの海下の事を助けたせいで」
「もう謝らなくていいわ。今は二人でここから逃げ出す事を考えようよ。ここから逃げ出して生き延びれば、楽しい事がたくさん待っているはずだから」
 綾美が呟くと、英司の頭に小さな電流が走ってふと何かを思い出したような気がした。楽しい事、お楽しみ……。
「そうだ、それがあった」
 英司が突然綾美の目を見て口走った。
「英司、どうしたの?」
 綾美が尋ねると、英司は有無を言わさずに綾美の上に乗っかり、そのまま彼女の身体をゆっくり抱きしめた。綾美の粉っぽく淡い匂いが英司の中を一杯にする。
「ちょっ、英司ってば……」
 綾美は突然豹変した英司に戸惑の声を上げると、英司は綾美の口元に人差し指を立てながら、彼女に向かって静かにこう話した。
「これからちょっとしたお芝居をやる。今から俺の言う通りに動いて、いいね?」
 英司が囁き声で話すと、綾美は静かに頷いた。これから始めるのは本番じゃない。相手を騙すリハーサルなのだ。


 スーパー前に遺棄されていたレジアスエースを抜け出した房人達は、敵の警戒の目を潜りながらゆっくりとスーパーの近くまで潜入して、どうにか屋上駐車場に向かうスロープの裏にもぐりこんだ所だった。既に視界と音を遮ってくれた雨は上がり、日が昇るまであと三時間程しか残っていないが、思った以上に敵の警戒が激しく、気付かれないように一歩一歩慎重かつ素早く進んだ。先頭は実戦経験者の政彦が務め、後ろに房人、アンカーに美鈴という順番で進んだ。少人数で敵に見つかる可能性は少ないが、大勢の敵に囲まれたらそれでゲームオーバーだ。
 壁伝いに慎重に進んで納品口にたどり着くと、下半分が開いた納品用シャッターの手前に銃を持った警備兵がいた。一人はシャッターの前で周囲に目を光らせ、もう一人はズボンのポケットから何か取り出している。幸いにも、彼ら三人には気付いていない様子だった。
 先頭を行く政彦は立ち止まって後ろの二人に合図すると、美鈴に近くに来るようハンドシグナルで呼んだ。
「俺はシャッター前の奴を始末するから、お前はサプレッサー付きの銃でもう一人の奴を始末してくれ」
 政彦が落ち着き払った声で囁いた。その声を聞いた房人はすぐに後ろを向いて、後方警戒に就いた。
「了解、一発で仕留めてみせる」
 美鈴はやや動揺した様子で答えると、静かに照準をズボンから時計を取り出した兵士に合わせた。見張りの交代の時間を確認しているのだろうか、確かに交代はやってくる。死という名の永遠の交代が。美鈴は人を撃つ事にまだ少しだけ躊躇いがあったが、それとももうこれでお別れだ。
 静かに照準を男の頭に合わせると、呼吸を整えて二秒数えた。銃を支えている筋肉がリラックスした状態になり、そのままゆっくりと引き金を引くと、線香花火の玉が水溜りに落ちた時のような音がして、男の頭は鼻から下だけを残して粉々になった。すぐに隣の兵士が味方の異変に気付いて銃を構えようとしたが、その男も政彦の放ったクロスボウの矢が首に突き刺さって、そのまま膝を付いて前のめりに倒れた。
「成功、上手く行ったな」
「ええ」
 政彦の言葉に、美鈴は曖昧な言葉で答えた。もう心臓の高鳴りも無ければ、人を殺してしまった事に対する良心の叱責も無い。この瞬間から、自分は立派な人殺しなのだなと美鈴は思った。
「よし、死体を隠そう。房人、手伝ってくれ」
 政彦が呟くと三人は素早くシャッターのところまで移動して、倒れた兵士の死体を近くの物陰に隠した。これで建物の中に侵入できるぞと一安心した瞬間、政彦のすぐ後ろで誰かの気配を感じた。慌てて振り向くと、そこには彼と同じように驚いた様子の敵兵が一人呆然と立っていた。歳は彼とさほど変わらず、顔にはにきび痕が残り上唇には髭がうっすら生えている。その若い兵士は政彦の姿を見て持っていた89式小銃の銃口を彼に向けようとしたが、すぐに後ろから房人が飛び掛ってナイフを敵兵の首元に突き刺した。若い兵士は一瞬暴れかけたが、首にナイフの刃が走るとすぐに全身の力が抜けて、そのまま風船から空気が抜けるようにゆっくりとその場に倒れた。
「危なかったな」
 房人が敵兵の首からSOG・シールナイフを引き抜きながら呟いた。
「助かったよ。ありがとう」
 政彦は感謝の言葉を述べると、すぐに房人の異変に気が付いた。ナイフを握った手は真っ赤に染まり、呼吸も大分荒れている。彼の目は無垢だった頃の輝きを失い、泥水を長い間入れておいたガラス瓶の底の様に濁って、敵兵の死体を見つめている。もう一人の立派な人殺しが生まれた瞬間だった。
「大丈夫か?ちょっと取り乱しているようだが」
「平気だよ。ナイフで敵を倒すのは初めてだったからさ、少し驚いていただけさ」
 房人はそう答えながらナイフに付いた血を敵の戦闘服で落とすと、そのままガイテックス製の鞘にナイフを収めて、倒した敵兵の死体を先に倒した敵兵と同じ所に隠した。そして全員に異常が無い事を確認すると、下半分が開いたシャッターを潜って建物の中に入った。いよいよ敵の巣穴の中だ。もう人を殺すことに対して躊躇ってはいけない。もしそこで再び躊躇ったら、今度は自分が殺されるのだ。三人はその言葉をそれぞれ胸の中で呟くと、そのまま前に進んだ。



 スーパー一階の精肉売り場の冷蔵庫前で、捕まえた敵二人の監視を命ぜられた西沢後太郎は気がおかしくなりそうな程の退屈な時間を持て余し、しかも容赦なく襲い掛かってくる睡魔と闘っていた。
 外で見張りの任務に就いていると、仲間から捕虜にした敵の監視に就くように言われた。何でも、始めに捕まえた女の子を助けようとして忍び込んだ敵の少年兵を竹森隊長自ら捕まえたという話らしい。始めはそんな無鉄砲な奴が今の時代に居るのかと感心したものだが、捕まえてみると以外にも大人しいので拍子抜けしてしまった。しかし、この小さな殺人鬼によってもう二十人近い仲間が殺されているのは事実だから、たとえどんなに自分の心の闇を打ち明けても、決して心を許したりはしないと決めていた。
 捕まえた二人が冷蔵庫に押し込まれてもう三時間が経過している。中から物音は聞こえてこない。さっきまではなにやら話し声が聞こえていたが、それも今では聞こえなくなっていた。話す話題も無くなり、他にする事もないので眠っているのかも知れない。自分も出来るならこのまま眠ってしまいたかったが、一時間後に来る交代が来るまでは眠れなかった。せめて気の紛れる出来事でもあればいいのにと思った瞬間、静かになった筈の冷蔵庫から壁を蹴飛ばす音が聞こえた。
 何だと思って眠たい目をしたまま扉の側に近づいて、耳を当ててみると、中で二人の人間が重なってコンクリートの床を一緒に転がる音が聞こえてきた。この中に居るのは中学生位の男女二人。不健全な精神と人並みの肉体を持ったティーンエイジャーのすることと言えば、一つしかない。だが不思議と覗きたいという気持ちは沸かなかった。理由は彼があまりにも疲れていた事と、どうせ明日の朝には殺されるのだろうから、少しの間くらい好きな事をさせてやってもいいだろうと思ったからだ。彼は冷蔵庫の中で繰り広げられる二人の淫らな情景を思い浮かべながら、再び近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。
 そして目を閉じて、しばらく覚醒と深い眠りの間を波に揺られるようにして彷徨っていると、また大きな音が冷蔵庫の中から聞こえた。そしてその後には、何かを言い争っている声が聞こえる。
「元はといえば、お前が悪いんだぞ。俺達だけで十分だったのに、無理矢理ついてくるから」
「だからって、無理矢理押し倒すことは無いでしょ」
「うるさい。お前は黙って言うとおりにしていればいいんだ」
 会話を盗み聞きすると、どうやら二人の行為は同意ではないらしい。男の方は死ぬ前に女を味わっておきたいらしいが、女の子の方はその気ではないようだ。
「もし私を犯したら、あんた殺すわよ」
「できるならやってみろよ!」
 男の方が叫ぶと、パン!と頬を平手で叩く音が冷蔵庫の中に響いた。そして少しの間を開けて、女の子の方が小さく嗚咽を漏らし始める。
「最低、あたし何であんたみたいなんか好きになったのよ」
「今ごろ泣くんじゃねえよ。人の本性を見抜けなかったお前が悪いんだ」
 男の方がやや動揺した様子で答えると、女の子の方は声を上げて泣き出した。西沢は二人の間に入って止めようか一瞬考えたが、やめる事にした。どうせ二人は殺される身だ。成り行きに任せればいい。
「動くんじゃねえぞ。動いたら殴り殺すからな」
 男は狂気のこもった声で静かに呟くと、女の子の着ているボタンシャツを引き裂いたのだろうか、ブツブツという鈍い音と共にボタンが弾け飛ぶ音が聞こえた。西沢は冷蔵庫の方を振り向き、露わになった女の子の乳房を見てみたい衝動に駆られた。ドアを開けるのは絶対にしてはならないが、開けないと二人がどんな行為をしているのか見ることが出来ない。西沢は悩んだ挙句、少しだけ開けて覗くくらいならいいだろうと思って、腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がった。仮にこっちに危害を加えても、銃で二人とも撃ち殺せば良いだけの話だ。
 西沢はドアの前に近づくと、鍵を開けて少しだけ冷蔵庫のドアを開けて中の様子を伺った。彼が予想した通り、冷蔵庫の中央では綾美が両腕を広げて怯えきった目で宙を見つめていた。そして引き裂かれたボタンシャツの胸元からは、黒いブラジャーに包まれた綾美の白い乳房が冷たい空気に晒されて小刻みに震えている。しかし、むき出しの本能でそれを露わにしたはずの英司の姿は、何処にもなかった。
 すると突然半開きになったドアが急に強く開いて、西沢の左目に英司の左拳が飛び込んでくるとそのまま眼窩にめり込み、左目の眼球を割った。猛烈な痛みと出血によって目の前が真っ暗になると、英司はそのまま西沢の股間を蹴り上げ、さらに今度は西沢の鼻に強烈なパンチを食らわせた。鼻の軟骨が折れる感触が英司の拳に伝わると、西沢よろめいて一歩後ろに下がり、持っていたM16A2のハンドガードの部分で英司を振り払った。英司はそのまま払い飛ばされて、冷蔵庫の壁に頭と背中を激しく打ちつける。意識が一瞬飛んで、身体が素早く反応できなくなる。
「死ね!」
 鼻から真っ赤な鮮血を垂らした西沢はそう叫ぶと銃の安全装置を解除して、銃口を英司の方に向けた。銃口と視線が一直線に重なり、英司は心臓の筋肉が凍りつくような気がした。しかし西沢が引き金に掛けた指に力を込める寸前に綾美が身を挺して銃口に飛び掛かって、両手を使って銃口を明後日の方向に思い切り向けると、西沢は飛びついた綾美の左頬を手の甲で打った。それと同時に、英司は自分の中で燃え滾るような怒りを西沢に感じた。すかさず英司は全身をばねの様にしならせて飛び上がり、そのまま右拳で西沢の口元を渾身の力を込めて殴ると、西沢の脳が揺さぶられてそのまま仰向けに倒れた。英司はそのまま馬乗りになって倒れた西沢の顔面を数発殴ると、両手を首に回して親指で喉仏を押して、そのまま体重を一気に両手の親指に掛けた。鼻が潰れ、顔中血だらけになった西沢は鶏が絞め殺されるような声を上げて、苦しそうにもがいた。英司は構わずにそのまま体重を掛け続け、餓えた山犬のような目で西沢を睨んだ。やがて西沢の力が弱まってくると、英司は全身の力を込めながら最後の力を込め続けると、やがて西沢の身体が動かなくなり、そのままゆっくりと底なし沼に沈むように死んで行った。
 英司は西沢が完全に動かなくなったのを確かめると、無我夢中で張り倒された綾美の側に駆け寄った。綾美は叩かれた頬が少し赤く腫れているものの、それ以外に目立った怪我はないようだった。
「大丈夫?」
「平気、ちょっと痛かったけれど」 
 英司が尋ねると、綾美は少し腫れた口を動かしながら微笑むように答えた。英司がホッと安堵の溜息を漏らすと、綾美は倒れている西沢の死体に一瞥をくれてこう続けた。
「まさか、本当に私達の演技に引っかかるなんて思わなかったわ」
「きっと俺らの年頃の子に興味がある奴なんだよ。そういう奴が見張りでよかった……」
 英司が照れくさそうに答えると、二人は小さく鼻で笑った。何故だか知らないが、こんな状況で小さな冗談を言えた事が、二人にとって何物にも変えがたいような幸福なものであるような気がしてならなかった。
そして笑い終える頃に、英司が飛びきり大きなくしゃみを一発、綾美の脇に向かって放った。それでようやく、英司は自分が綾美に着せてもらった茶色いウィンドブレーカー一枚しか着ていない事に気付いた。
「やだ、英司服一枚しか着ていない」
 綾美が頬を赤らめながら呟くと、英司は咄嗟にウィンドブレーカーの裾で自分の股間を隠した。
「ごめん!ちょっと待って、すぐに服を着るから」
 英司は頬を少し赤らめて小さく叫ぶと、小さなげっ歯類の動物が驚いたみたいに飛び上がって、近くに畳まれていたタイガーストライプのズボンを急いで履いた。その慌てふためいた様子を眺めていると、英司にもこんな一面があるんだなと綾美は思った。英司はズボンを履き終えると、Tシャツを着ないで直にM51パーカーを羽織り、ブーツに足を突っ込んだ。まだ服はじっとり濡れたままで重かったが、全裸のまま死ぬよりはマシだった。
 服を着た英司は倒れている西沢のM16A2を取ると、マガジンポーチから三十発弾倉を三本引き抜いて、ジャケットのポケットに突っ込んだ。M16系統の銃を撃つのはこれが初めてだったが、死んだ父から操作方法は習っているから多分大丈夫だろう。だが身長が156センチしかない英司にとって全長99ミリのM16A2は長すぎで、上手く照準が合わせられるかどうか分からなかった。
「ここから逃げるよ、準備はいい?」
「勿論、大丈夫よ」
 綾美は英司に着せたウィンドブレーカーを羽織りながら答えた。
「よし、俺に付いて来て。絶対に離れちゃ駄目だよ」
 英司が銃を構えると、綾美は静かに頷いた。
 部屋を出て目の前の通路を見回すと、案の定外に見張りの兵士は居なかった。外の警戒に就いているか、あるいは逃げ延びた房人達を総出で追い詰めているのだろうか。どちらにせよ逃げ出すのには好都合だ。
 二人は音を立てないように慎重に進みながら、出口は何処に有るのか辺りを見回した。明かりもなく、目印になるような物も無いので、今居る部屋が何なのか全く見当がつかない。英司は冷蔵庫に掘り込まれる時までの記憶を探ってみたが、腹を殴られた時の痛みで全く覚えていなかった。
 近くにあったドアを開けると、従業員用と思われる小さな階段に出た。上を見上げると、上の方に電気ランプの小さな明かりが見えた。それと一緒に、人間が寝息を立てる音が聞こえてくる。そのまま一歩一歩慎重に階段を登ると、階段の踊り場で一人の兵士が毛布代わりのポンチョに包まって安らかな顔をして眠っていた。ここで休んでいるうちに眠ってしまったのだろうか。口からは涎を垂らし、時折首を上下に揺らしている。そしてその横の段ボール箱には、ありがたい事に英司と綾美の持って来た武器一式が予備弾と一緒に納められていた。英司は眠っている敵兵に感謝しながら、持っていたM16A2を9mm機関拳銃に持ち替えた。音を立てないように弾倉を込めてチャージングハンドルを引き、M442センテニアルをベルトに通したホルスターに収めた。やはりこういう時は使い慣れた銃が一番いい。
 そしてそのまま眠っている敵の横を通り過ぎようとしたその瞬間、突然頭上のドアが開いて、敵兵が踊り場の英司と綾美を見つけた。英司がすぐさま9mm機関拳銃を敵兵に向かってフルオートで五発9mm弾を叩き込むと、弾丸は上半身に二発、顔面に一発当たって、そのまま前のめりに倒れた。その銃声で眠っていた敵が目を覚ますと、英司はその敵兵の頭に弾丸を三発撃ち込んだ。弾丸は全て命中して、固い頭蓋骨と脳を水風船みたいに破裂させた。生暖かい血と脳漿が英司と綾美に飛び掛り、頭の半分を吹き飛ばされた敵は壁に寄り掛かるようにして倒れた。口はだらしなく開き、弾丸によって開いた穴からは舌がだらりと垂れて、辺りに火薬と血の臭いが充満した。
「見つかった、早く逃げよう!」
 英司は綾美の腕を掴むと彼女の腕を引っ張ったまま階段を駆け上ると、まだ生きている前のめりに倒れた敵の背中を踏んで二階の部屋に上がった。


 銃声に最初に気付いたのは、一階の商品搬入口からバックヤードに忍び込んだ房人達三人だった。三人はその場で立ち止まり、他に音がしないか耳を澄ます。
「聞いた?今の音」
 美鈴が小声で呟いた。
「アサルトライフルの音じゃない。サブマシンガンの音だ」
 房人が天井を見上げながら答えた。彼の記憶が正しければ、自衛隊で使っている9mm機関拳銃の音だ。敵の銃は殆どアサルトライフルかマシンガンだから、9mm機関拳銃を使っているのは一人しか居ない。
「上だ。近いぞ!」
 房人は反射的に叫ぶと、バックヤード南側のドアまで走り出して、殆ど体当たりする形でドアを開けた。バンという金属がたわむ音が響いてドアが開くと、上のほうから火薬と血の臭いがどろりと彼らの居る所まで流れてきた。そのまま階段を登っていくと、踊り場の所に顔を半分吹き飛ばされた兵士の死体と、9ミリパラベラム弾の薬莢が何個か転がっていた。そして二階の通路に続くドアの所には、うつ伏せに倒れた兵士が上半身から血を流し、血を緩やかな渓流のように階段へと滴らせている。
「生きているぞ、英司と綾美は」
 房人が喜びを露わにして呟いた。
「なら、二人は何処に?」
 政彦がすがる様に尋ねる。
「分からん。だけど火薬の臭いも残っているし、薬莢もまだ熱いから、そんなに離れていない筈だ」
「なら早く見つけよう。急がないと敵のほうが先に見つけちまう」
「お前なら、二人は何処に行ったと思う?」
「ここで敵を倒したら、俺なら前に進むね」
「美鈴は?」
 房人が美鈴に話を振る。
「考えた事無いよ。だから先に行こう」
 美鈴が答えると、三人は階段を駆け上って二階の通路に出た。通路に倒れていた兵士は既に息絶えていて、上を跨いでも何の反応もしなかった。
 周囲を見回すと、辺りに人の気配は無く、がらんと静まりきっていた。真っ暗な通路を奥に向かって進んでいくと、まるで罠に誘い込まれているようだ。どこかに敵が潜んでいるかもしれないし、ブービートラップが仕掛けられているかもしれない。余計なものが一切そぎ落とされて、感覚かクリアになってくる。
 すると、突然壁の影から人の腕が飛び出し、先頭を進む政彦の持っていたクロスボウのスリングを掴んで、引き倒すように彼を倒した。押し倒した男は隙を就いて上に馬乗りになると、右手に持っていたナイフの刃を政彦に向け、そのまま頚動脈を切り裂こうとした。政彦は身を固くして、もうここまでか・・・と観念しようとしたその瞬間、壁の影から悲鳴が聞こえた。
「やめて!」
 突然綾美が叫ぶと、英司は自分が馬乗りになっている人物が政彦である事に気が付いて、カミラスのエアフォースサバイバルナイフを持っていた右手をゆっくり下ろして、「政彦?」と尋ねると、彼の上から退いた。政彦は小さく舌打ちを漏らすと、ゆっくりと起き上がりながら呆れるようにこう呟いた。
「ったく。助けに来てこんな乱暴な出迎えは無いだろうよ?」
「ごめん、ごめん。暗かったからつい」
 英司があまり謝意のこもっていない言葉で答えると、政彦の手を取りながら彼の目を見てこう言った。
「けじめは付けたぞ」
「ああ、上等。大した奴だよなお前は」
 政彦が鼻で笑うように答えると、美鈴が影の影に隠れていた綾美を見つけた。
「美鈴!」
 暗闇の中で目が合うと、綾美はすぐに美鈴に抱きついて、喜びの涙を少し流した。
「無事でよかった。怪我は無い?」
「大丈夫だよ。会いたかった」
 綾美が美鈴を強く抱き締めると、美鈴は辛い中良く頑張ったねと優しく彼女の後頭部を撫でた。その様子を眺めていた房人は、俺だけ仲間はずれかと思いながら溜息を漏らすと、階段のほうで何かが動く気配を感じて素早くその方向に銃口を向けた。彼らがやって来たドアが半開きになると、何かの叫び声と一緒に銃を構えた敵兵が姿を現した。
「敵襲!」
 房人は叫ぶのと同時に、M249PARAの引き金を引いた。岩を砕くドリルのような音と共に銃口から激しい発砲炎が上がり、周囲を昼間のように明るくした。弾を喰らった敵兵は倒れ、後に続こうとしていた敵はドアを半開きにして、その間から銃を撃とうとしたが、敵の存在に気付いた英司と政彦がその隙間に銃弾を撃ちこんで敵を牽制すると、美鈴が素早くMk26手榴弾を投擲した。
「みんな逃げるぞ、こっちへ来い!」
 房人が叫ぶと彼は奥にあったドアを蹴破って、隣の部屋に飛び込んだ。その後に政彦が続き、次に綾美の手を引いた英司、そして最後は美鈴が続いた。全員が部屋に入ると同時に、投擲した手榴弾が爆発して、階段のドアが吹き飛ぶ音と一緒に爆風が英司達のところまで吹き込んで来た。敵を倒したかどうかは分からないが、足止めできたのは間違いない。
「助けに来てくれたのはいいけれど、小島さん達は?」
 ドアの脇に張り付いた英司が9mm機関拳銃の弾倉を交換しながら尋ねた。
「お前らを助けたら、連絡してこっちに援護してもらう事になっているから……」
 房人が答えようとすると、さっき爆発したドアの所から、敵が雄たけびを上げながら、英司達の居る所に一斉射撃を加えてきた。けたたましい銃声がコンクリートの壁に跳ね返って当たり一面に響き、壁に当たった弾丸が彼らの足元にも飛んできて、彼らはその場に動けなくなった。特にあまり銃の音を聞いた事が無い綾美にとっては、本当に生きた心地のしないような音だった。
 銃声が止むと、英司はお返しにとドアの吹き飛んだ階段に向かってフルオートで銃弾を打ち込んで、房人に向かってこう叫んだ。
「なら今すぐに呼べ!このままだと二分で弾切れだ」
「了解、美鈴!援護するから小島さん達を呼べ!!」
 房人が叫ぶと、美鈴は肩から提げていた無線機のチャンネルを合わせて、骨伝導マイクに向かってこう叫んだ。
「バッタよりローエングリンへ、ケワタガモを二羽確保。黒騎士の光臨を望む!繰り返すケワタガモを二羽確保。現在敵と交戦中につき、黒騎士の光臨を望む!」
 美鈴は無線機のマイクに向かって必死に叫んだ。黒騎士とかローエングリンというコールサインは房人が付けたもので、第二次世界大戦のドイツ軍の戦車部隊が元ネタらしかった。
「こちらローエングリン了解。ケワタガモとバッタの救助に向かう」
 無線機の骨伝導スピーカーに小島の声が聞こえると、美鈴はホッと小さく安堵の溜息を漏らした。
「どれくらいで着きます?」
「どんなに頑張っても五分は掛かるな、それまで持ちこたえろ」
「了解、アウト」
 美鈴は通信を終えると、ドアに向かって銃を乱射している房人と政彦にこう叫んだ。
「五分で小島さん達が来るよ!それまで持ち堪えろだって」
「了解、移動するぞ!」
 房人はそう叫ぶと、タクティカルベストのポーチに押し込んでおいたスタングレネードを取り出し、安全ピンを抜いて敵の潜んでいる階段のドアに投げ込んだ。壁に跳ね返った時のカランコロンという金属音が響くと同時に、鼓膜が破けるような爆音と強烈な閃光がドアから漏れて、敵兵の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「行くぞ、こっちだ!」
 房人が叫ぶと、彼らは出口を目指して隣の部屋の奥に移動した。彼らが入り込んだ部屋は衣類の在庫などを保管するバックヤードらしく、床にはカゴ車や在庫品を置くスペースを示す白線が引かれていた。辺りに敵の気配は無いが、外に繋がりそうな廊下やドアも無かった。
「おい、こっちで道は合っているのかよ?」
 政彦が尋ねた。
「来た道はもう敵がいるから戻れない。だから別の抜け道を探す」
 房人が銃をM249PARAから9mm拳銃に持ち替えながら答えた。銃を替えたのは、これから先敵の猛追を受けるような状況になったと時の為に、出来るだけメインアームの弾薬を残しておきたいからだ。
「道はあるのかよ!?このままだと嬲り殺しだぞ」
 政彦が叫ぶと、その声をきっかけにして綾美があることを思いつく。
「英司が私を助けに来てくれたときの道は?あそこからなら抜け出せるかも」
 綾美の提案に、美鈴がこう返す。
「だったら急ごう。敵出口を塞ぐ前に抜け出さないと、ここで貴重な時間を浪費するだけだよ」
「よし決まりだ。英司、案内頼むぞ」
「了解!敵中突破だ」
 政彦の言葉に英司が答えると、彼らはそのままバックヤードから二階のフロアーに向かった。
 
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