文字数 9,435文字

 海下とその補佐を務める土居の二人は、竹森から村を逃げ出した二人の行方を追って、森の中を二日間歩き続けて、彼らが辿りつくであろう村の近くに茂みに潜む事に成功した。予想したとおり、追跡目標の二人は昼過ぎにこの村に着いた。しかし、村の警備兵に連行されて、まるで捕虜のような扱いを受けているのは予想外だったが。
 村人に連行されている最中に、逃げ出した二人を土居と共に始末する事も出来たには出来たが、殺された二人の謎を追ってこの村の連中が何か行動を起こしたら厄介だ。二人の荷物を調べてデータの入ったUSBの中身を調べて、すぐさま他の村と連絡を取り合い、警戒態勢を強めるだろう。そうなれば情報が漏れた初期の段階、スパイが情報を誰かに伝える前に始末する事は不可能になる。
「無線で報告するか?」
 土居が海下に囁いた。この辺りは敵の警戒エリアの範囲内だから、普通の声の大きさで話したら敵に聞こえる可能性がある。だから会話は耳の近くで聞き取れる程度の声で話さなければならない。
「敵の警戒線の内側よ。傍受されるかもしれないわ」
「そうだな。宇野さん達は別の奴等を始末したかな?」
「始末したと思うわ。あの人追跡者としては二流だけど、相手は素人よ」
 海下が呟くと同時に、ガサッと近くの茂みが揺らめいて、地面に落ちた枯れ枝を踏み潰す音が聞こえてきた。二人は一瞬身をこわばらせ、音の聞こえた方向に注意を払うと、パトロールに出ていた警備兵三人が彼らの八メートルほど脇を通り抜けて行った。彼らは村に戻る途中なのか、なにやら楽しげな会話を漏らしながら特に警戒する様子もなく二人の間を抜けて、森の中へと消えていった。海下と土居はホッと溜息を漏らした。
「やり過ごしたみたいね」
 海下が囁き声で漏らした。ギリースーツを頭から被って六時間近く同じ体勢のままだ。そろそろ体中の筋肉が悲鳴を上げ始めている。海下は偽装を施したM40A3のスコープを覗き込み、村の中央にある建物の入り口に昼夜兼用のスコープの十字線を合わせた。距離にして645メートル。風も無風状態で狙撃には最高の状況だったが、ここで一人殺しても意味は無い。仮に殺しても誰かが後を引き継ぐ。世の中はそういう風に出来ているのだ。
 そんな風に物思いに耽っていると、入り口から一人の男が出てきた。男と言っても、打てば響くような感じの、背の低いやせっぽちの十代半ばの子供だが。
「あんたが例の殺し屋さん?一度会ってみたいわ」
 海下は独り言を呟きながら、舌で上唇を舐めた。横では土居が陣地や監視塔などの位置や距離、方角などを記したノートに目を通して、細かい修正を加えていた。

 外に出ると、太陽はもう西側にある山の頂上の真上にオレンジ色の光を放ちながら、まるで自分達を見下ろしているかのよう浮かんでいる。その様子はどこか物悲しげな感じでもある。だけれど、太陽というのは熱を放ちながら光を放っているから、たとえ悲しいようなことを思い出しているとしても、その中にあるものはまだ熱い何かが残っている。だからこそ、どんな時でも人々を照らす事が出来るのだ。昔の人々が太陽を神聖視したのは、そんなところの人の生き方みたいなものを重ね合わせたからじゃないだろうか?
「はぁー喰った、喰った。どうだ英司、最高に美味かっただろう?」
 房人が満腹になった腹をさすりながら、英司に声を掛けた。ボケッと考え事をしていた英司は不意を付かれた英司は後ろを振り向き、「ああ」と答えた。
「もう少ししたら、風呂が沸くと思うから、入っちゃえよ。岩とコンクリで作った特製の風呂は最高だぞ」
「ありがとう。何から何まで用意してくれて」
「いいさ別に、その代わりと言ってなんだけれど、後でお前の銃とか装備を見せてくれないか?」
「もちろん。お安い御用だ」
 英司は笑顔で答えた。美味いカレーを食べた後か、あるいは同世代の人間と気兼ねなく会話できたせいだろうか、英司の中で薄い砂糖水のような充足感が溜まってゆく。 
「腹ごなしに少し歩くよ」
 英司は房人にそう告げると、村の入り口のほうに向かって歩き出した。後ろから房人が「村の外には出るなよ」と後ろから注意したが、英司は黙ったまま右手を上げて答えた。 
 入り口のほうに向かって歩くと、入り口の両脇に供えられた右側の防御陣地で、二人の男が食後の会話を楽しんでいる所だった。二人は中央に置かれたMINIMI軽機関銃を挟むようにして、今日あった事を振り返っているらしい。そしてその横では、マスコット替わりのミニチュアシュナウザーの犬が横を向いて眠っていた。
「誰かと思ったら、今日うちの村に来た名もなき狙撃手じゃないか、こっちに来いよ」
 片方の二十代前半の男が英司に気付くと、こっちに来て話の輪に加われと手招きした。英司は一瞬どうしようかと迷ったが、無意識のうちに足が前に進んでしまった。
軽く頭を下げて「失礼します」と呟き、言われるがまま防御陣地の中に入った。陣地の中は二、三人の人間が入れば丁度良いといった感じの広さで、中にはMINIMI軽機関銃以外にも89式小銃や予備の弾薬箱などが置かれていた。
「どうだよこの村は?気に入ったか」
「ええ、まあ」
 英司は少し狼狽しながら答えた。どうもこういうテンションが高めの人とのやり取りは苦手だ。
「おまえ、あの女の子と二人で来たけれど、どういう関係なんだい?」
 男は上機嫌な様子で聞いた。答えようとする英司の脳裏に、綾美の顔が一瞬浮かんだ。
「まあその、連絡役とその護衛です」
「なるほど、今のご時世に女の子一人でお使いなんていうのは危険以外の何者でもないからな。優秀な護衛が付いていれば、心強いよな」
 男は茶化すように笑いながら答えると、ズボンのポケットから煙草を取り出し、百円ライターで火を付けた。物が手に入らない今の時世では贅沢だ。男は英司にも吸うか?と一本を勧めたが、英司が煙草を断ると、反対側の男がこう言った。
「狙撃手や斥候は煙草を吸ってはいけないんだぞ。煙草に含まれるニコチンには依存性があって、切れると正常な判断が出来なくなるんだそうな。それに煙草の臭いは二百メートル四方に広がるし、暗闇では明かりで位置がばれるじゃないか、例えばこんな時間に遠くから」
「いけね!」
 注意された男は、慌てて煙草の火を消した。
「危なかった。もし敵か近くに潜んでいたら撃たれているところだったぜ」
「全くだ。呑気に煙草をふかしている警備兵なんていい的だからな、そうだろ?」
 注意した男は英司に同意を求めた。英司は「ええ、まあ」と呻くように答えると、かつて同じように呑気に煙草をふかしていた敵を撃った時のことを思い出した。確か彼にとって六人目の戦果で、今と同じくらいの一日の疲れがドッと吹き出てくる時間だった。相手の男は倒木に腰掛け、一日の疲れを出すかのように、煙を吐き出していたのを覚えている。その男が疲れを知らない世界へと旅立ったのは、それからすぐの出来事だった。四六〇メートルの距離から、英司によって男は煙草もろとも頭を吹き飛ばされたのだ。撃たれる瞬間、彼は煙草を咥えながら何を思い浮かべていたのだろうか。
 すると、防御陣地の横で寝ていた犬が突然起き上がり、森の向こうの暗闇に向かってけたたましく吼え始めた。彼ら三人は一瞬何が起こったのか分らなかったが、すぐに怪しい人か動物が近づいている事に気付いた。さっきわかばを咥えていた男は近くに置いてあった89式小銃を手に取り、安全装置を解除してチャージングハンドルを引いて、初弾を薬室内に送り込んだ。注意した方の男もMINIMI軽機関銃に取り付き安全装置を解除して初弾を薬室に送り込む。英司もズボンのホルスターに挿していたM442センテニアルを取り出し、撃鉄を指で起こしてシングルアクションで激発できるようにした。
「パトロールの人は?もう皆戻ってきたんですよね」
 英司が銃を構え照準器越しに索敵しながら聞いた。太陽がほとんど沈んでいるため、どこに何が居るのか分らない。薄ら冷たい風が、三人の肌を嘗める。
「三十分前に戻ってきた奴らが最後だ。もう外に出ているやつらは居ない」
MINIMIに取り付いた男が答える。彼も照準器越しに、暗闇の中の不審者を探している最中だった。
「残飯をあさりにきた動物かな?」
「それは無い、残飯は一箇所にまとめて発酵させて肥料にする。専用の建物は反対側だから違うと思う」
 わかばを吸っていた男の質問にMINIMIを構えた男が答えると、それきり彼らは言葉を交わすことを止め、全身の神経を研ぎ澄まして、闇の向こうに居る相手を探した。脇では犬がワンワン吼えていたが、その泣き声は耳に残らず突き抜けていくだけだった。しばらくすると犬は吼えることをやめて、小刻みに震えながら辺りに注意を払っていた。
 すると、闇の向こうで枯れ枝を踏んで折れる小さな音が聞こえた。すぐさま彼らは「誰か!?」と音のした方向に大声で怒鳴ったが、反応は無かった。
 やはり動物か?と思った瞬間、闇の中で人影がうごめいた。三人は引き金に指を掛け、いつでも撃てるようにしたが、相手の反応は無い。どうやら武器は持っていないらしい。
「両手を上げて跪け!」
 MINIMIに取り付いた男が声を荒げたが、それでも相手の反応は無かった。しばらくすると、「助けて」という衰弱しきった声が聞こえてきた。その弱りきった声に、英司は聞き覚えがあった。
「ユウスケ?」
 英司はそう呟くと、撃鉄を親指で押さえたまま引き金を引いて撃鉄を安全な位置に戻し、飛び出すようにして防御陣地を出た。後ろに居た男二人が彼制止しようとしたが、構わずにユウスケの元に駆け寄った。
「ユウスケ、ユウスケだろ!しっかりしろ!」
 英司がユウスケの側に駆け寄るとユウスケは英司の姿を見て安心したのか倒れこむように英司にもたれ掛かった。ユウスケの身体は驚くほど冷たく、暗闇でもはっきり分るほど青白くなっていた。急いで適切な処置をしないと命が危ない。
「大丈夫か、何があった!?」
 英司はユウスケにも聞こえるよう大きな声とはっきりとした発音で質問した。
「村の皆が」
 ユウスケは息も絶え絶えに囁いた。英司は口元に耳を近づけて、その言葉を聞き取ろうとする。
「村の皆がどうしたんだ?」
「武器を持ったやつらがやって来て、殺された」
 その言葉を聞いた途端、思わず英司は耳を疑ったが、聞き間違いなどではなかった、。ユウスケは彼の耳元で「村の皆が殺された」と残った力を搾り出すように言った言葉がはっきりと聞こえた。
「何があったの!?」
 騒ぎの様子を聞きつけた綾美が、房人や美鈴といった村人達とともに彼らの元へやって来た。房人と美鈴もただ事ではないと感じたらしく、手には9mm拳銃とM27IARを持っている。
「ユウスケ!?何でここに?」
 綾美は興奮した様子で呟いた。すると同時に、ユウスケやミレナの身に何か悪い事が起こったのだということがすぐに解った。それが解ると同時に、鉛のように重くて有害な何かが彼女の横隔膜辺りに溜まってゆく。
「とにかく、今は手当てしないと!急がないと手遅れになる!」
 英司は綾美にそう告げると、房人とともにユウスケを村の建物まで運び込んだ。



 ユウスケの容態は決して良いものとはいえなかった。
 何日も森の中を飲まず喰わずのため、脱水症状を起こしていた。また道の悪い所を長い時間歩いていたせいで足の裏の皮が剥けて血が滲み、白い靴下を真っ赤に染め上げていた。脈も弱り意識も朦朧としていたが、こちらの反応には何とか受け答えが出来ていた。
 この村で有名ないわくつきの名医によれば、かなり衰弱しているが命に別状は無いらしい。その事を聞いて綾美はホッとした様子だったが、残してきた自分の村人たちのことが気になっていてそれどころではなかった。
 ユウスケの治療室には、英司たちが休む予定だったゲストハウスが当てられた。部屋の中にはテーブルの上に置かれたコールマン社製のランプの明かりがつけられ、部屋の中を明るく照らしてはいたが、その光に当たっている者達の心は暗かった。
「村の人たちはどうなっているのかな?」
 綾美はユウスケが寝ている反対側のベッドに腰掛け、俯いたまま答えた。丁度顔が光の影になって、黒く塗りつぶされて良く見えない。コールマンのランプの周りには、どこからか侵入した一匹の蛾がパタパタと音を立てて飛び回っている。
「分らないよ」
英司は窓の向こうの暗闇を見つめながら呟いた。突然の非常事態を受けて、今夜は夜通しで村人達が武器を持って警戒に当たっていた。
 一体誰があの村を襲ったのだろう?と英司は考えた。あの村からここまでは、歩いて二、三日は掛かる。ユウスケがこの村に着いたのは自分達が村に着いて四時間以上経っての事だから、襲った連中があの村に到着したのは、自分達が村を出て数時間後という事になる。そんなに早く村にたどり着ける武装集団といえば、心当たりがあった。
 すると突然、コンコンという部屋のドアをノックする音がして、さらに間髪を入れず「入るぞ」と房人の声が響いた。房人が中に入ると美鈴もその後に続いて中に入ってきた。美鈴は房人の一歩前に出ると、綾美の側に寄り添って「大丈夫?」と囁いた。こういうときは、男より女の方が心理的に安らぐ。
「具合はどうなの?」
「さっき皆が手当てしてくれたお陰で、今はぐっすり眠っているわ。初めは大丈夫かなと思ったけれど、もう平気みたい」
「そう」
 綾美の返答に、美鈴は満足そうに頷いたが、綾美の表情は暗いままだった。その様子を英司と房人は部屋の隅から横目で眺めていた。
「装備をまとめたか?敵が近づいているとなるとここも危ないぞ」
 房人が英司に聞いた。
「さっきやった。必要とあらばいつでもここを出られる」
「武器と弾薬の補給は?必要だったら銃と手榴弾くらいはやるぞ。それと仲間も何人か、これから先二人だけじゃ危険だぞ」
「そうだな。ありがとう」
 英司が答えると、ベッドで眠っていたはずのユウスケが目を覚まし、上体を起こそうとした。
「ダメよ、まだ寝てないと」
 綾美がユウスケに横になっているように、肩に手をかけて寝かそうとしたが、ユウスケはその手を振り払って、こう口走った。
「綾美姉ちゃんは、村の皆がどうなったのか知りたくないの?」
ユウスケの言葉に、綾美は凍りついた。そして、その凍りついた何かが胸の奥に溜まっていた不安とともに、解けて流れ出してくる。まるで雪解け水が勢い良く固くなった雪から流れ出してくるみたいだったが、それは雪解け水のように透明ではなかった。
「話してくれるの?」
 綾美は震えるような声でユウスケに尋ね、彼の両手を握った。
「村の皆は」
 ユウスケはそこで一旦言葉に詰まった。数日前に起きた惨劇が、彼の中の傷跡をなぞってゆく。
「殺された」
 吐き出すようにして一言そう漏らすと、ユウスケは身震いしながらこう続けた。
「みんな死んじゃった。山内さんも片岡のおばさんもみんな」
「嘘よ、冗談はやめてよ」
「嘘じゃない。本当だよ」
「嫌よ。私信じない」
「本当なんだ!」
 ユウスケは辺りの空気をひっくり返すかのような大声で叫んだ。そして大粒の涙を浮かべながら、さらに続ける。
「みんな殺されたんだよ。おれとミレナ姉ちゃんは近くの小屋に隠れていたんだけど、撃たれるときの叫び声とか、みんなの鳴き声や悲鳴が聞こえてきた。誰が誰だか分らなかった。俺とミレナ姉ちゃんは二人で震えながら」
 ユウスケはそこで言葉を終わらせて、一旦嗚咽を飲み込んでさらに続けた。
「その後隙を見て、俺とミレナ姉ちゃんは逃げ出したんだ。その後俺達は何日かこの村を目指して森を彷徨ったんだけれど、ミレナねえちゃんは俺を逃がす為に山賊に」
「もうやめて」
 綾美は小さく叫んだ。知りたかった現実から目を背けるように。しかし、知りたかった現実を知ってしまった以上、もう目をそむける事はできなかった。綾美は涙で目を真っ赤にしながら、ベッドに顔を埋めて、周りに聞こえないように必死で泣き声を押し殺した。
 その様子を見て英司は、何か言葉の一つでもかけてやろうかと思ったが、やめる事にした。理由はいい言葉が浮かばなかったのと、ここで何か言っても綾美の心を傷つけるだけだと思った事。それにかつて自分も身寄りを亡くした時の記憶がよみがえって来たからだ。
 あの時自分は離れた藪の中で家の前で両手を後ろに縛られ跪かされている両親を見た。両親の周りには銃を持った何人かの男達が周り取り囲み、そのうちのリーダーらしき人物が何か話しかけている。リーダーの副官らしき男がなにやら罵声を浴びせていたが、両親はひるむ様子は見せなかった。まるで死を恐れぬかのように。
 しばらくすると、リーダーの男がやれやれといった様子で腰の拳銃を取り出し、立て続けに二発引き金を引いた。パンパンという音とともに両親の頭はスイカのように吹っ飛び、その場にゴロンと倒れた。リーダーの男は部下に指示を出して、死体を家に運びこませると家に火を放ってその場を離れた。その時英司は何もする事もできずにただ藪の中で泣きながら震える事しか出来なかった。
 それから彼は、家から少し離れた崖に掘った武器の隠し場所から必要な装備一式を手に入れて、一旦全焼した家へと引き返した。かつて彼が生まれ育った家は幸福の残り香さえ燃やし尽くして、唯の焼けた木材の山と化していた。焼け跡に入って何か燃え残ったものは無いか探していると、入り口の近くに燃えた木の下敷きになっている両親を見つけた。皮膚は黒く漕げて固くなり、顔はかろうじて目や口、鼻といった各部のパーツが分る程度だったが、どっちが父親で母親かは区別が付いた。ついさっきまで自分に何かを言ってくれていた人の顔が、こんなにも変わり果ててしまうとは夢にも思っていなかった。試しに二人の顔に向かって何か語りかけてみたが、返事は返ってこなかった。
 彼は上に乗っかっている木をどけて、両親の遺体を焼け跡から引きずりだした。両腕を掴むと、黒く焼け焦げた皮膚が剥けて掌にまとわりつき、剥けた皮膚の間から流れ出る脂の臭いを嗅ぎつけた蝿が何匹も辺りを飛び回った。
 遺体を焼け跡から引きずり出すと、近くに深めの穴を掘った。穴を深くしたのは、臭いを嗅ぎつけた山犬が食い荒らさないようにする為だ。掘った穴の中に遺体を埋め、あまり焼けていない木材を墓標にして、その側に近くにあった雑草の花を置いた。それが終わると、彼は銃を持って両親を殺した集団に復讐を誓い、自分が生まれ育った場所を後にした。見送りの言葉も、叶えたい夢も無い、孤独な旅立ちだった。
 その日の夜は、ただ一人で真っ暗な森の中で眠りについた。出来る事なら、目が覚めたときに殺された両親が何時も通りの生活を送っている事を望んでみたが、焼け焦げた両親を墓に埋めた時の臭いと焼けた皮膚の感触が思い起こされてしまった。そうすると、気付かないうちに鼻が詰まって瞼が熱くなり、すすり泣きながら眠りに就いた。両親にはまだ教えて欲しい事が山ほどあったし、何か凄いことして喜ぶ顔も見たかった。なにか失敗をして怒られたりもしたかったが、その願いはもう二度と叶うことは無いし、今までの生活は全て思い出になってしまった。
 その次の日、彼は始めて人間に向けて銃を撃った。
 森の中を東に向かって歩いている途中、地面の草むらに人が何人も通った後を見つけた。注意しながら慎重に前に進み、双眼鏡で覗き込むと三〇〇メートル前方で一個小隊程度の部隊が大した警戒もせずに休憩を取っていた。
 それを見つけた英司はほぼ無意識のうちに行動に移った。擬装用のギリースーツを上から被り、顔に泥を塗って近くの茂みに隠れた。
 そしてライフルケースからM24を取り出し、実弾を薬室内に送り込んで安全装置を解除し、照準を兵士達に合わせた。
 距離は三〇〇メートルほど。風もほぼ無風状態で狙撃には打ってつけの状況だった。ターゲットによさそうな相手を探していると、岩に腰掛けて携帯食糧の握り飯を食べている二十代半ばの兵士の姿が目に入った。
 英司はその男に照準を合わせ、呼吸を整えて引き金に指を掛けた。が、引き金を引くための力が右手の人差し指に入らない。父さんから訓練をマンツーマンで受けて、技術も腕前も確かなはずなのに、最後の後一歩で力が入らない。心臓が早鐘を打ち、額に脂汗が浮かんで、頭の中の血管がいつもの倍以上に開く。
 三回目の呼吸を整えた時に、胸の奥から「奴らは自分の大切な家族を奪った。例え今狙いをつけている奴が直接手を下さなかったとしても、仲間だから同罪だ。殺してしまえ、そうしたいのだろう?」と言う声が反響してきて、自分でも呆気ないほど簡単に引き金を引くことが出来た。
 次の瞬間、握り飯を上手そうに食べていた男は驚いたような顔のまま硬直し、胸から真っ赤な血を流してその場に倒れこんだ。辺りは蜂の巣を突いたような騒ぎになり、多くの兵士達が近くの物陰に身を隠した。さっきまで男が食べていた握り飯は、半分ほど食べられた状態で地面に転がり落ち、表面に泥が付いた。
 英司はそれからしばらくして潜伏場所の痕跡を消さずに、逃げるようにしてその場を離れた。敵に見つかるから逃げたのではない。人を殺した自分が怖くなって逃げ出したのだ。それからしばらくして、心が落ち着きを取り戻すと、胸の奥が焼き鏝を当てられたように熱くなり、声を押し殺して嗚咽を漏らした。今の日本の社会情勢において、十四歳といえば立派な大人といえたが、その時の英司はまだ子供だった。たった数日の間に、英司は大切なものを二つも失ったのだ。
 自分も彼らと同じ、人殺しになってしまった。もう戻れない。どんなに努力しても、絶対に戻れない所に来てしまったのだ。英司はそんな悲しいような悔しいような気持ちになったが、たった一人では何かに気持ちをぶつける事も出来ず、だだ一人で人を殺した自分の手に向かって自問自答を繰り返していた。きっと死んだ後天国で幸福にはなれず、地獄の底で永遠の苦しみを味わうのだろう。だが英司は胸の中でこう祈った。
 神様、自分は大切なもの立て続けに二つ失いました。もしどこかで自分の事を見ていらっしゃるのでしたら、一つ約束して頂きたい事があります。失ったものの代わりに、人生の道標になるような、何か大切なものを一つ下さい。例えそれがどんなに小さなものであっても、どんなに醜悪な外見であっても、一生背負い続けるような試練でも構いません。人を殺した自分を赦してくれなどと言う不埒な事は絶対に言いませんから、何か一つ大切なものを下さい。どうか、お願いします。
「しばらく一人にしてやろう」
 綾美を察した房人が英司に囁いた。英司は過去の記憶を反芻するのをやめて無言で頷き、彼とともに部屋を出た。美鈴もその後に続く。後ろ髪を見えない何かにつかまれているのを感じながら、彼らは部屋の外に佇んだ。
「何で声を上げて泣かなかったのかな?」
 美鈴が独り言のように漏らした。
「弱い自分を見せたくないんだよ。周りにも自分自身にも」
 英司が答えると「そう」と美鈴は生返事を返した。綾美が失ったものは、あまりにも多く、大きすぎるものだった。
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