エピローグ

文字数 7,633文字

 辺りを覆っていた靄は日が昇ると同時に薄れ始め、森の中を走る道路もポジションランプ無しで走れるほど視界は良くなって来た。その道路の間に生える木々は朝露を浴びてみずみずしく淡い緑に光り輝き、その間に生えた小さな白い花が、太陽が昇る時をまるで親の帰りを待ちわびる子供のように顔を出している。もうすぐ朝が来る、というその静かな喜びの風景は、例えどんな人間であっても美しいと感じるに違いない。
 そんな事をぼんやり考えながら、魚崎はジャガー・XJSクーペのステアリングを握りながらフロントウィンドウ越しにその風景を眺めていた。あの大規模な戦闘が終わってもう五日が経つ。中々芽を出さない春の萌芽は、今更になって大慌てで頭を出したようだ。
 タイヤが道路の凹凸を拾うと、その振動で隣の助手席で眠っていた政彦が目を覚ました。政彦は倒していたベージュのレザーシートを起こして、眠たそうに目元を擦りながら、こう口を開いた。
「寝ていました?」
「ああ、ぐっすりと」
 魚崎は静かにそう呟くと、ヘッドライトのロービームを消した。既に辺りはかなり明るくなり、ライト無しでも先頭を進む護衛の高機動車の後姿が、はっきりと確認できる。政彦が岡谷に貰ったパーカーのフードを直していると、魚崎はカップホルダーに注した魔法瓶を手に取り、お茶を一口飲んでこう続けた。
「あと一時間もすれば目的地に着く。昨日は何時に寝たんだ?」
「十二時ちょい過ぎに、房人達に無理矢理映画鑑賞に付き合わされたんですよ」
 政彦が不満そうに呟くと、魚崎は苦い笑みを漏らしながらこう答えた。
「そらきついよな。映画は何を見たんだ?」
「『フィフス・エレメント』と『ボディーガード』って奴を」
 政彦が眠りから覚めていない様子で答えると、魚崎は納得したように頷いた。
「まあ、良いんじゃないか。そういうのが出来るのは若いうちだし・・・」
「こっちの事くらい考えて欲しいですよ。でも、楽しかったのは事実ですけどね」
「ならそれで良いじゃないか、何事も経験だよ」
「確かに、そうですね」
 政彦は笑いながら答えると、窓を少し開けて外の空気を取り込んだ。湿った木の葉と草の匂いが、革臭い室内の澱んだ空気に慣れた二人の鼻を綺麗にしてくれる。外の空気の匂いを嗅ぐと、政彦はようやく自分の住処に戻ってきた気がして、不思議と心が落ち着いた。
政彦は窓に頬杖を突きながら、流れる景色と窓の風切音に心を委ねて、理奈子とコウタローに会ったときに話す言葉をぼんやりと考えた。


 無機質なコンクリートで覆われた部屋で横になっていると、昔小さな部屋の片隅に押し込められていた時のことを思い出す。ちょうど二年ほど前だろうか、ここから遠く離れた新潟の雑居ビルの汚い部屋で玩具にされていたのは。カレンダーをあまり見ないせいで、時間の感覚が少しおかしくなっている。あの時は朝起きて簡単な食事を取り、少しの間だけは部屋から出て外の景色を眺めたり、近くを散歩して僅かな自由時間を過ごした後、男達の欲求の捌け口になる日々を送っていた。男達の行為は休むことなく続き、時には次の日の昼まで行為が続いた事もある。お嬢ちゃん悪いがこいつを男にしてくれないかと言われて、自分より年下の男と寝た時も有った。
 そんな毎日に比べれば、今ここで過ごす毎日は天国だ。と理奈子は思った。ここには自分の肉体を貪る野蛮な人間も居なければ、暴力を振るう奴もいないし、自分を虐める嫌な淫売女も居ない。自分を助けてくれた政彦がここに居ないのは辛いが、彼の言葉を信じて待っていればその辛さに耐えられる。私はもう男達の欲望の寄せ集めでは無い。地に足のついた人間なのだ。
 理奈子はコンクリートの床の上に引いた布団の上で寝返りを打つと、同じ布団で眠っているコウタローの寝顔を見た。コウタローは口を半開きにし、時折もごもごと動かしながら深い眠りについている。その何物にも汚れていない寝顔を見つめていると、あの時死なせてしまった娘の事がぼんやり呼び起こされる。もしあの子が生きていたら、このように私の側で健やかに眠っていたのだろうか。
 この部屋で寝起きすることになった時、二人は離れた所に布団を少し離して寝ていた。だが昨日の夜、コウタローは自分の布団を理奈子の布団にくっつけると、そのまま理奈子の布団に潜り込んだ。
「どうかしたの?」
 布団の中で理奈子は尋ねた。もし悪戯か何かが目的なら、叱らないといけない。
「何だか怖いんだ、それで眠れない」
「大丈夫よ、部屋の鍵は閉めてあるし」
「そうじゃないんだ」
 追い詰められたようなコウタローの言葉に、理奈子は首を傾げた。普段は気丈に振舞っている筈の彼が、こんな弱々しい言葉を口にするなんて、何かあるのだろうか。
「何だか、一人でいると暗闇に飲まれそうになるんだ。だから、一緒に寝ていい?」
 コウタローはカタカタと小さく震えながら、理奈子の身体にしがみ付いた。始めは戸惑った理奈子ではあったが、次第に彼を助けてあげられるのは自分しかいないという気持ちが芽生えてきて、優しく彼の身体を自分の身体に抱き寄せた。
「いいわ、おいで」
 理奈子は静かにそう呟くと、コウタローの背中をとんとんと優しく叩きながら、彼の体温を感じて目を閉じた。コウタローの身体は政彦に比べればまだ小さな身体で、所何処に幼さが残っている。コウタローが彼女の腕の中で動く度に、彼の腕や頬が乳房に触れたが、怒る気にはなれなかった。
「理奈子って、お母さんの匂いがするよね」
 殆ど眠りかけていた瞬間、コウタローのその言葉が理奈子を呼び起こした。
「何でそう思うの?」
 理奈子は氷のナイフで心臓を突かれたような気分を味わいながら、擦れた声でコウタローに問い掛ける。
「赤ちゃんの頃にこうやって寝た気がするんだ。殆ど覚えてないけれど」
「そう」
 理奈子は一言そう呟くと、コウタローを胸に抱いたまま眠りに就いた。
 そうして眠りに就いた夜の事を思い出していると、寝ていたコウタローが眠そうな声をあげて目を覚ました。コウタローは布団の中で身じろぎすると、瞼を半分開けて理奈子を見た。
「ごめん、起こした?」
 理奈子が小さく謝ると、コウタローはもう一度寝返りを打ってこう答えた。
「朝なの?」
「ええ、もう少し寝てる?」
「どうしよう」
 コウタローは口籠りながら布団に潜り込んだ。理奈子は自分ももう一眠りしようと布団に潜り込もうもうとした瞬間、上のほうから自動車のエンジン音が聞こえてくると、すぐに飛び起きて、枕元に隠してあったニューナンブ・M60を手に取り、シリンダーをスイングアウトして弾が装填されているか確認した。
「どうしたの?」
 異変に気付いたコウタローが不安げに尋ねる。
「誰か自動車で乗り付けたみたいだわ、ここに居て」
 理奈子は一言そう告げると、金属製のドアを開けて部屋の外に出た。
 階段を登ると、上の窓から太陽の光が差し込んできて、コンクリートの壁一面をクリーム色に染めていた。一階の入り口付近まで来て窓の外を見ると、泥で汚れたカラスの向こうに、青々と光り輝く春の風景が広がっている。外の気温はそれなりにあるのだろうだが、汗ばんだTシャツ一枚では、風が吹いた時襟元がひんやりとした。
 理奈子は一階に出ると、そのまま一回のロビーを抜けて外に出ると、無残に朽ち果てた三菱・デリカスペースギアの陰に隠れて駐車場の様子を伺った。日当たりのいい場所に緑色の車が二台と大型ワンボックスが一台停まっているのが見えた。そしてその東側には、89式小銃を抱え周囲を警戒する自衛官三人の姿が見える。さらに視線を南の方に視線を移すと、グレーのスーツを着た男と、見覚えのある髪型をした若い男が居るのに気付いた。
「政彦?」
 理奈子は一言そう漏らすと、握っていた銃を落として車の陰から出た。アスファルトの地面に銃が落ちるガチャンという音がすると、その音に気付いた政彦がこちらを向いて、呆然と立ち尽くしている理奈子を見つけた。
 視線が合うと、理奈子は見えない糸に引っ張られるようにして政彦の方に向かって走り出した。理奈子に気付いた政彦も催眠術に掛けられたような足取りで彼女の方に二、三歩歩き出すと、そのまま両手を広げて胸の中に飛び込んできた理奈子を抱きしめた。
「政彦、政彦」
 政彦の唇にキスをした理奈子は声を押し殺すようにして、何度も彼の名前を呼んだ。政彦は周囲の人間から向けられる視線を首の辺りで感じながら、春の暖かさを持ち合わせた理奈子の身体を優しく抱きしめた。
「本物だよね?幽霊じゃないよね?」
 理奈子は瞳に涙を浮かべながら、政彦に聞いた。
「もちろん、正真正銘の本物の俺だよ。ごめんな、色々と心配を掛けさせて・・・ただいま、今帰ったよ」
「お帰り」
 理奈子はそう呟いて政彦の頬にキスをすると、彼の後ろで何処に視線を投げてよいのか困惑している魚崎を見つけた。
「この人達は?」
 理奈子は政彦を抱きしめたまま訪ねた。
「自衛隊の人たちだよ。俺達を助けてくれた」
 政彦が答えると、魚崎は理奈子の方を向いて照れくさそうに会釈をした。すると、今度は正面玄関の入り口からコウタローが頭を出して、こちらの様子を伺っているのが見えた。
「コウタロー!」
 政彦はコウタローの姿を見つけた途端、すぐに名前を叫んだ。突然の事にコウタローは困惑している様子だったが、政彦が手招きすると、すぐに元気を取り戻して彼の元にやって来た。
「政彦、お帰り!」
「ああ、ただいま」
政彦がそう返事するとコウタローは彼の腰の辺りに抱きついた。合計二人の人間に抱きつかれた政彦は流石に狼狽すると、興奮冷めやらぬ二人を離し、急に真顔になってこう口を開いた。
「二人に良い報せだ、聞いてくれ」
「なあに、良い報せって」
 理奈子が嬉々とした表情で尋ねる。
「新しい生活の場所を見つけられた。もう山賊の連中に怯える必要も無い。それだけじゃない、勉強だって出来る所だ」
「何処なの?教えてよ」
 コウタローがはしゃいだ様子で聞いた。
「房人達の村だよ、これから俺達そこで暮らすんだ。いいだろ?」
「ええ、もちろん!」
 理奈子が政彦の身体を抱きしめながら答えると、脇に居た魚崎がわざとらしく咳払いをして、三人の注意をこちらに向けさせた。
「あのー、いいかな?」
 魚崎は一言漏らすと、急に善良な大人に変身してこう続けた。
「俺は政彦に頼まれて君らを迎えに来た魚崎と言う者だ。荷物を運ぶ為のトラックも、君らを乗せるワゴン車も用意してある。君らが良ければ、すぐにでも引越しの準備ができるが?」
「ええ、お願いします」
 理奈子が答えた。
「なら、善は急げだ。必要な物を取りに行って来るといい。重たい物があれば、隊員達にも手伝わせるが?」
「大丈夫ですよ、そんなすごい物はありませんから、身の回りの品くらいですよ」
 政彦が言った。
「なら、持って行く物を取ってこようか」
 魚崎はそう答えると、おもむろにホテルの方へと足を進めた。警戒位置についていた隊員達も、ぼそぼそとした足取りでその後に続く。三人が青空の中に聳え立つホテルの建物を眺めていると、理奈子が政彦の耳元でこう囁いた。
「ありがとうね、政彦」
「何?」
 不意の質問に、政彦は理奈子に聞き返した。
「あの時私に、〝幸せになって欲しい〟って言ってくれて」
「いいよ、別に。当然の事をしたかっただけだからさ」
 政彦は照れくさそうにそう呟くと、三人揃ってホテルの方へと歩き出した。


 朝方には空を覆っていた雲も今ではすっかり流れて、空は優しく淡い水色を湛えていた。時折海のほうから冷たくて塩気を含んだ風が吹いてくるが、暖かな日差しのお陰でそれ程寒くは無い。上空にはその風を受けたユリカモメは翼を広げて、悠々と気楽そうに空を飛びながら時折物珍しげな目で下界の人間達を見下ろしていた。
 ひゅうがの医務室のベッドで目覚めた英司は、科員食堂で軽い朝食を済ませると、女性用居住区に居た綾美に一緒に海でも見ないかと提案した。綾美はその提案を快く承諾すると、英司と共に飛行甲板に登った。広い甲板に二人以外の人の気配は無く、艦尾に掲げられた自衛艦旗の横ではユリカモメが羽を休めている。
 二人は艦首の方まで歩き、目前に広がるレインボーブリッジと、半ば前世紀の遺物と化した臨海地区のビル群を眺めた。海に近く、周りに高い建物が多いせいで風は強かったが、暖かい日差しと晴れ渡った空のお陰で、絶好のお出かけ日和だった。
「晴れたね、今日は」
 フェンスに寄りかかった綾美が風に吹かれる前髪を気にしながら呟いた。
「ああ、そうだね」
 英司は目前に広がるビル群を眺めながら答えた。あんな細々した建物の中に入って人間は生活していたのかと思うと、自然の中で育った英司は奇妙な違和感を持った。だが人の気配が全くしないビル群というのも、それはそれで寂しい気がする。人間が作った物は人間が使ってこそ初めてその意味を持つ。そんな気がした。
「なんか不思議だね、こうしていると」
「なんで?」
 英司が尋ねると、綾美は英司の方を向いて、朗らかな笑みを浮かべながらこう言った。
「だって、こうしていると世界で英司と二人だけになった気分になるんだもん」
 綾美が言ったその言葉に、英司は自分の奥にある芯の部分がかっと熱くなるのを感じて、どうやって返そうかと言葉に悩んだ。適当な言葉で返しても良かったが、それはそれで綾美に対して悪い気がする。頭の中の辞書をひっくり返してみたが、混乱するばかりだ。 
「確かに、そう言われるとそうかもね」
 英司が苦し紛れに呟くと、綾美はその言葉が気に入ったのか、ほくそ笑んだ。でも、その何気ない笑みがようやく綾美本来の姿を取り戻したような気がして、英司は少しだけ安心して、自分も小さく笑った。
「ここに居たのか、探したぞ」
 突然、後ろの方から岡谷の声が聞こえた。二人が声の聞こえた方向に振り向くと、右手に紙袋を持った制服姿の岡谷がこちらに向かって歩いてきた。
「二人でおしゃべりか?平和だな」
 岡谷は冗談めいた言葉で二人に声を掛けると、手に持った紙袋を英司に手渡した。
「なんですか?これ」
「俺からのお祝いだ。袋から出してみろよ」
 岡谷に言われるままに英司は紙袋から中身を取り出すと、中には折り畳まれた新しいオリーブドラブのM51パーカーが入っていた。
「前のと同じモデルの奴だ。クリーニングして新品同様にしてある。もう着るシーズンは過ぎているが、大事にしろよ」
「うわ、ありがとうございます」
 英司は嬉しさを噛み締めながら、早速ジャケットに腕を通してみた。クリーニングされた布の匂いが、英司の鼻先をくすぐる。
「腕の具合はどうだ?もう何とも無いのか?」
「はい、感染症も壊疽の心配も無いと言われました。脅威の回復力だって医者が驚いていましたよ」
 英司は撃たれた左腕を持ち上げて、拳を軽く握って見せた。
「なら良かった。もう心配する事は無いな」
「そういえば、房人と美鈴は?」
 綾美が岡谷に尋ねた。
「あの二人なら、中田と一緒に上野に遊びに行くとか言って一時間くらい前に出掛けたぞ」
「そうですか」
「お前らも気が向いたら遊びに行くといいよ。今日は行楽日和だし、目の前には都内有数の遊び場があるしな」
「はい。岡谷さんはどちらへ?」
 今度は英司が尋ねた。
「俺は偉いさんに呼び出しを喰らって、これから今後の作戦についての打ち合わせだよ。君らが命を掛けて持って来た情報のお陰で、極左の連中も含めた反政府勢力の拠点やら幹部連中の事なんかが全部割れた。仕事詰めは嫌になっちまうが、まあ仕方ない。この前の戦闘で敵も大きな損害を被ったらしいから、戦争が終わるのもそう遠くは無いかもしれんな」
 岡谷は独り淡々と述べると、「それじゃ」と断ってその場を後にした。二人は岡谷の何処か寂しそうな背中を見送ると、再び臨海地区のほうに振り向いた。
「これからどうするの?」
 英司が綾美に聞くと、話題を振られた綾美は少し憂鬱そうな目をしてこう答えた。
「もう村に戻っても山内さん達は居ないから、多分ユウスケと一緒に寺田さんの村で暮らすことになると思う」
「じゃあ美鈴や房人達と一緒か、政彦達も新しくそこで暮らすんだっけ?」
「ええ」
「それじゃ、大分賑やかになるね」
 英司は他人事のように空を見つめながら、静かに言った。
「英司は?」
「何?」
 綾美が小声で尋ねると、英司は不意を突かれた様に彼女の方を向いた。下を向いた綾美の顔は、風に吹かれた髪が顔を隠しているせいで上手く読み取れない。
「英司はこれから、どうするの?」
 綾美が風で飛んで行きそうな声で答えると、英司は急に思いつめたような顔になって、ぼそぼそとこう答えた。
「それ、なんだけどさ」
「何?」
 喉の奥で言葉が詰まったような英司の言葉を聞いて、綾美は英司の横顔を覗きこんだ。
「俺も多分、寺田さんの村で暮らすことになると思う。だから……」
「だから?」
 綾美が聞くと、英司は綾美の手を握った。いきなり英司が手を握ってきたので綾美は少しびっくりしたが、彼の手の温かさが伝わってくるにつれ、自分の中に英司の優しい気持ちが伝わってくるような感覚がする。英司と繋がっている。綾美はそう実感すると、自分が優しい人間になれるような気がした。
「綾美の側に、居ても良いかな?」
 英司が震えた声で小さく答えると、綾美は英司の手を握って「うん」と頷いて、彼の手を握り返した。もう自分達は一人ぼっちじゃない。かけがえの無い仲間がいて、大切な人が傍にいる。それさえあれば、どんな困難だって乗り越えられるし、どんな苦難も耐え凌いでみせる。確証があるとは言い切れないが、今の二人にはそれが出来るような気がした。

 ひゅうがを降りた岡谷は、埠頭を横切ってバスターミナルに止めたBMWに乗り込むと、エンジンを掛けた。久しぶりに自分でステアリングを握ると、それ程長いドライブで無いのに心が躍った。窓を開けると、外の空気が車内に春の陽気を運んでくる。
 今日は何もかもが良い。つい昨日まで無機物の寄せ集めでしかなった外の風景が、急に色づいて見事な花畑に生まれ変わったようだ。
 あの東京港に掛かるレインボーブリッジでさえも、それまでは世界を隔てる地獄の門のような存在ででしかなかったのに、今日になって新しい世界への扉を開く旅立ちの門に生まれ変わったみたいに、春の日差しを受けてきらきらと輝いている。きっとさっきの英司と綾美のせいだろう。あの二人がこの無機質な世界を希望に満ちたものに変えたのだ。二人はここまで来るのに多くのものを失い、幾多の苦難を乗り越えてきた。だがそうして失った物の代わりに、神は大切なものを二人に与えて下さったのだ。
 岡谷はその喜びを胸に秘めながら、車を走らせた。


             (セカンド・チャンス・ナウ  おわり)
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