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文字数 10,024文字

 夜の闇に包まれていた森に少しずつ太陽の光が差し込んで、辺りが白く濁ってくる。闇に塗りつぶされた木々の輪郭も、日が昇るに連れて形がぼんやりと浮かび、それと同時に眠たげ立ち込めていた靄も次第に薄くなってゆく。靄が晴れてくると同時に、閉じていた山の花達が太陽の光に当たろうとするかのように、花びらを開いて、いつもの美しい姿を見せ始めてゆく。
 瞼の裏側で木の枝葉の間から刺しこんでくる光を感じていると、身体を誰かに揺さぶられる感触がして、英司は目を覚ました。毛布代わりのポンチョに包まったまま身を起こすと、隣で綾美が優しく「おはよう」と声を掛けた。
「おはよう」
 英司が眠たげな声で答えた。気温は既に高く、体感温度で摂氏十度くらいあるだろうか、鼻から空気を吸い込むと、木と土の香りに満ちた空気が体の中に満ちてゆく。
「美鈴と房人は?」
「もうすぐ見張りから戻ってくるはずよ」
 英司は軽く頷くと、ポンチョを脱いでバックパックに仕舞い始めると、すると、綾美が口籠るようにして「あの」と小声で漏らしたのに気が付いた。
「どうかしたの?」
「いや、その、何でもない」
 綾美は何か触れてはいけないものに触れてしまったようにして、目を逸らす。
「なんだよ、気になるじゃないか」
 英司が優しく諭すように尋ねると、綾美は恥じ入るような声でこう答えた。
「一昨日のこと」
 綾美が一体何の事を話しているのか英司には分からなかったが、すぐに二日前の寺田の村でのプレハブ小屋の中で話した台詞が、巻き戻しのように蘇って来た。
「ああそれね」
 英司はポンチョを仕舞い終えると、急に自分のした事が恥ずかしく思えてきた。あらかじめ用意した台詞を吐くならまだしも、あの時話したのは、ほぼ反射的な台詞だった。
「あの時はごめん。ほぼ反射的に、何と言うかその」
「違うの、怒っている訳じゃないの」
 綾美は慌てて英司の言葉を遮った。てっきり何かまずい事をしでかしたと思い込んでいたが違うらしい。綾美の瞳の中には、小さくなった自分の姿が浮かんでいる。
「あの時英司がビシッと一言言ってくれなかったら、気持ちの切り替えが出来ずに迷惑かけていたかもしれない。ありがとう」
「いいよ気にしなくても、特に深い意味は無いから」
 英司は狼狽するように答え、視線をずらした。同じ年頃の女の子から何か感謝されるなんて、考えてみれば初めての事だ。初めての事だから、どうやって答えていいかよく分からない。
 すると、奥のほうから誰かが近づいてくる気配がした。気配の方に視線を移すと、房人と美鈴が見張りから戻ってきた所だった。
「おはよ、起きたか」
 房人が微笑むようにして言った。寝起き顔の英司と横にいる綾美の組み合わせが面白いのだろうか、それとも何かこの組み合わせから何か変な事でも妄想しているのだろうか。別にどちらでも構わないが、今の英司にとってはどうでもいいことだ。
「メシ喰ったらすぐ出発だよ」
 隣の美鈴が呟くと、彼らはバックパックから食糧の入った紙の包みを取り出す、食糧の包みは細かくした乾燥野菜入り乾パンと干し肉、飴玉などが一食分にまとめられていて、それを十五個、計五日分携帯している。しかし、何日行動するか分からない状況下では、一食の量を減らして二、三日長く行動できるようにした。一度に食べる量が少ないから満腹感は無いが、その分カロリーは多めに摂れるように工夫されていた。
 包みの食糧を半分ほど食べ終えると、彼らは野営箇所の痕跡を消して、目的の場所へ一列になって歩き始めた。まずポイントマンは美鈴が勤め、その十メートル後方に房人が、さらにその後方に綾美と続き、最後尾は英司が勤める事になった。こうすることで、戦闘訓練を受けていない綾美をガードする。英司が最後尾なのは、スナイパーの行動テクニックを用いて追跡を警戒するのと、その高い観察能力で前の人間が残した痕跡を隠してもらう為だった。さらに一五分進んだら、五分立ち止まって追跡されていないか確認するのを繰り返す。そうする事で危機的状況になるのを少しでも防ぐ為だった。また戦闘の際は、接近戦では美鈴と房人が中心になり、長距離戦では英司が中心になって攻撃を行うことになっている。中近距離では美鈴のM27IARと房人のM249PARAが敵をなぎ倒し、長距離からの狙撃には英司のM24で対応する。より強力な敵に対しては、二人のRPG‐22で沈黙させる。双方の長所を使って上手く弱点をカバーする事により、理想的な攻撃バランスがとれ、なおかつ戦術の幅を広げる事が出来る。少人数で敵地に潜入する特殊部隊などでは当たり前の事だった。
 森を一列に進んでいくと、次第にペットボトルや発砲スチロールのかけらといった、文明のゴミが目立ち始めた。さらに進むと、何十年も前に不法投棄されたと思いしき冷蔵庫やテレビ、炊飯器にフレームだけの原動機付自転車などが無残な姿を晒している。特に原動機付自転車は、むき出しになったヘッドライトの配線や錆びだらけになった排気管などが腸をぶちまけて死んだ動物の死骸を連想させて不気味だった。その変わり果てた文明の遺品を見ながら、昔の人間は贅沢だったのだなと房人は思った。物がない今の社会では、古くなって壊れたものは修理して徹底的に使うのが当たり前だ。調子が悪くなったからと言って平気で物を捨てる過去の価値観と意識が理解できなかった。
 しばらく歩くと、先頭の美鈴が急に立ち止まり、しゃがみこんで警戒態勢を取りながら後続の三人を待った。しばらくして三人が追いつくと、英司と房人が美鈴の元へと駆け寄った。
「何か見つけたのか?」
房人が聞いた。
「コイツを見て」
 美鈴は房人の方を振り向くと、自分の近くにある問題の品物を見せた。美鈴の近くの乾いてしまった泥濘には、運動靴やコンバットブーツ、長靴などの足跡が無数に残っていた。
「泥が乾いているから、少なくとも最近のではないな、靴底のパターンが様々だから、山賊か装備の質が良くないゲリラの仲間じゃないかな」
 英司がポツリと意見を述べると、美鈴は指で空中に九十センチの長方形を描いて、その長方形の中に入った足跡の数を二で割った。
「人数はざっと四人。見つかったら厄介だから移動ルートを変ようか?」
「そうだな、そうしよう」
 房人が答えると、隊列は再び美鈴を先頭にして前進し始めた。移動ルートを少し西側にずらし、また移動方法も釣り針型移動に切り替えた。釣り針型移動というのは、前に進んだら釣り針のようにUターンして追跡されていないか確認する移動方法で、敵地に潜入した特殊部隊や長距離偵察チームなどが用いる。また旧ソ連海軍の潜水艦が、西側海軍の潜水艦の追跡を受けていないか確認する時に同様の移動方法を用いていたため、「クレイジー・イワン」という別命もあった。
 そのような感じで一歩一歩石橋を叩いて渡るようにして森の中を進んでいくと、傾斜した地形は少なくなり、次第に未舗装の道や、不法投棄されたゴミなどが目立ち始めた。人里が近い証拠だ。人里が近くなれば、当然誰かに発見される確率は高くなる。自分達を発見した人物が、友好的な態度を取ってくれるかは分からないから、見つからないように慎重に進む以外に最善の手段はない。
 すると先頭を進む美鈴が、木の生えていない長方形の空間が有るのを見つけた。美鈴は立ち止まり、持っていたウォーキートーキーで後続の英司達にこう伝えた。
「こちら美鈴。前方に道路を確認」
「そこで待っていろ、今援護に向かう」
 房人が無線で応答したその瞬間、道路の左側から何人かの話し声と足音が聞こえてきた。美鈴は素早く近くの草むらに身を隠すと、「誰か来たから来ないで」と小声で連絡し、銃の安全装置を解除した。
 しばらくすると、道の向こうから、地元のゴロツキらしい四人組がやって来て、なにやら話している。 美鈴は藪に隠れたまま息を潜めてじっとしていると、アドレナリンが湧き出て頭の中を駆け巡ってゆく。
 四人組の男達は年齢六十歳から二十歳前後の年齢層で、足にはゴム製の長靴や運動靴に戦闘靴などを履いていた。さっきの足跡を残した奴らはこいつらか。と美鈴は思うと、一番若い男が苦しそうな顔をして、呻き声を上げながら両肩を抱えられているのに気がついた。さらにその両足からは、真っ赤な鮮血が滴り落ちている。負傷しているのだろうかと思ったその矢先、男の背中には深々と黒いクロスボウの矢が突き刺さり、ツナギの作業服を真っ赤に染め上げていた。
「しっかりしろ、戻ったらすぐに手当てをしてやるからな。それまでの我慢だぞ」
リーダー格と思いしき男が矢を刺された男に声を掛けたが、男は苦しそうな顔をするだけで答えなかった。
 美鈴が男達を見送ると、フウと息を吐いて力を抜き、ウォーキートーキーの通信ボタンを押した。
「敵さんはいなくなったわ」
「そっちに向かう」
 今度は英司の声だった。
 しばらくすると、三人が美鈴の元へやって来た。まず房人が美鈴の側に駆け寄り、目の前の道路から誰も来ないのを確認すると、美鈴の側によって耳元でこう囁いた。
「何があった?」
「さっきの足跡の主達が、背中を矢で刺されて家に帰るところよ」
 美鈴があった事を手短に話すと、房人は意外そうな顔をしてこう聞き返した。
「どういうことだ、つまり?」
「つまりマヌケなゴロツキが背中に矢を刺されたってこと。この先に誰かいるのかも」
「数は?」
「分からない。多かったらちょっと厄介よ」
 美鈴が言い終わると、今度は横から英司が口を出した。
「移動ルートを変えるなら今のうちに変えないと。美鈴の言うとおり敵の規模が分からないから、多少遠回りでも安全に移動できるルートを探そう」
「そうだな」
 房人はそう漏らすと、持っていたマップケースから地図を取り出して、現在位置を確認した。
 彼らがこのまま真っ直ぐ進むと、旅館やホテルなどが並ぶ観光街に出るが、そこは山賊のアジトや中継基地などがあるという情報があるから、避けるのが無難だ。だが観光街の裏側を通るルートなら、廃墟と化した温泉ホテルが一軒あるだけなので、そちらの方がリスクが少ないといえば少ない。二キロほど遠回りになってしまうが、このくらいのロスはすぐに挽回出来るだろう。
「ちょっと遠回りになるけれど、この先の観光街の裏を抜けるルートを通ろう。そこならパトロールの連中も少ないだろうし、警戒しながら行けば大丈夫なはずだ」
「他のルートは無いの?」
 綾美が房人に質問する。
「移動速度と距離から判断して、このルートが最適だ。他のルートもあるにはあるけれど、そのルートだと一日ロスをする事になる」
 房人が答えると、綾美は黙ったまま頷いた。綾美は何か言いたいような顔をしていたが、口出しして何か言われるのも嫌だったし、しかも自分は身を守られている立場だったので彼の意見に従うほか無かった。
 簡単な会話を終えると、彼らは一斉に道路を渡り、再び隊列を作って前進を再開した。人里に近づいてきたとはいえ、まだまだ森は深い、何も持たずに入り込んでしまったらきっと遭難してしまうだろう。自分を覆いつくす緑の壁からは、何かの鳥の囀り以外は何も聞こえてこない。地面を踏みしめる音でさえ、自分の存在がハッキリしていないかのように不鮮明だ。そんな風に考えながら歩いていると、優秀なジャングル戦士はジャングルそのものでなければならない。という昔に父から聞いた言葉が英司の中で思い起こされた。
 少しの休憩を挟んで二時間ほど釣り針型移動で歩くと、美鈴が再び立ち止まった。三人が美鈴の側に向かうと、二本の木の間に、一本の麻縄が足首の高さ辺りで張られていた。その縄の先がどこに繋がっているか慎重に調べると、二メートルほどの高さの所にある枝の裏に空き缶を利用した鳴子が仕掛けてあった。
「参ったな、警戒が薄いと思ったのに」
 房人が鳴子を眺めながら漏らした。
「鳴子があるって事は何かの拠点が近いか、移動中の誰かさんが休んでいる事ってことだろうな」
英司が房人に意見を述べると、再び地図を取り出して現在位置の確認に入った。彼らが今いる場所は、さっき通過した道路からおよそ三キロ進んだ所だった。このまま二キロ進めば、もうすぐ廃墟になった温泉ホテルの近くに出るはずだ。
「この廃墟に何かあるみたいだな」
 房人が呟くと、突然耳元を細長い何かで空気を切り裂く音が聞こえ、目の前を黒い何かが通り過ぎた。そしてそれから瞬き一つほどの間を開けて、空気を切り裂いた細長い何かが木の幹に突き刺さった。
「伏せろ!」
 叫んだのは英司だった。それとほぼ反射的に彼らは身を地面に伏せると、あらかじめそうプログラムされていたかの様な手つきで銃の安全装置を解除し、照準器越しに敵の姿を紗出した。
「どっから撃たれた!?」
 美鈴が声を張り上げて叫ぶ。さっきまでの静かだった空気か一変し、辺りに殺すか殺されるかの張り詰めた空気が漂う。
「銃声は無かったぞ」
 房人が照準器越しの景色を睨みつけながら答えた。必死に五感を総動員して、僅かな変化も見逃さないように務めたが、目の前にある木の枝はピクリとも動かないし、地面の草を踏む音も聞こえない。どうやら敵は一枚上手のようだ。
 すると、突然の出来事に驚いた綾美が、恐る恐る状況確認のために後ろを振り向くと、鳴子の缶が仕掛けてあった木の幹の丁度人間の頭の高さ辺りに、一本の金属製の矢が突き刺さっているのに気がついた。
「ねえ、あれ」
 綾美は明らかに怯えた様子で、木に突き刺さった矢を指差しながら英司のM51パーカーの袖を引っ張った。それに気付いた英司が振り向くと、皆に分かるようにこう言った。
「どうやら、さっきの先客を襲った奴らしい。厄介だぞ」
「だったらなんで始めからアタシ等を狙わない?位置は分かっているのに」
「警告じゃないか、俺らに出て行けとか言う感じの」
 美鈴の言葉に房人が答える。
「いまさら後には引けないよ、どうする?」
「どうするって、突っ切るしかないだろう」
 房人が答えると、今度は英司の方を振り向いて、彼にこう言った。
「ギリースーツは持っているよな?」
「あるけれど、どうするんだ?」
「奴をおびき出すから仕留めてくれ。俺の勘だと、敵は多分一人だと思う」
「まだ敵と接触してないじゃないか、何で?」
 英司が反論すると、房人は自信ありげにこう返した。
「もし複数なら、さっきの敵は全滅しているし、俺たちだって包囲されて今頃死体になっているよ。だから上手く姿を隠して、敵の動きを止める。狙撃手の運用方法の一つじゃないのか?」
 房人の言葉を聞いて、英司は父から教わった狙撃手の運用方法の事を思い出した。狙撃手は観測員と組んで敵前線後方に進出し、身を隠しながら敵の伝令や輸送部隊を攻撃して敵を混乱させるほかに、身を隠して進撃してくる敵部隊をストップさせる役割がある。狙撃する狙撃手はギリースーツと呼ばれる偽装服に身を包んで茂みや草むらに潜み、廃墟や遺棄された戦車などの兵器などの中に隠れて敵を狙い撃ちにして、敵を行動させなくする。敵にはこちらがどこに居るか分からないから、迂闊に動けば容赦なく撃たれてしまう。   
 そのため、足止めされた敵は自分達の狙撃手を呼んで、隠れている狙撃手を探し出して始末する。だから狙撃手は隠れている敵の狙撃手を探し出すために、僅かな地形の変化などを見つける鋭い観察力も習得しなければならない。勿論、身を隠すための偽装術も必要だった。
「お前は少し離れて行動しろ。無線で連絡する時はお前の方からだけで、こっちからは連絡しない。無線で話しかけているところを見られたらこっちの作戦がバレるからな」
「分かった。その作戦で行こう。無線に出るのは房人だけ、専用のチャンネルで通信しよう」
 英司はそう答えると、背負っていたバッグパックを下ろしてギリースーツに袖を通し、ライフルバッグの中からM24を取り出して実包を込めた。すると、不安げな目で英司達のやり取りを見ていた綾美が、こう口を開いた。
「私はどうすれば」
「綾美はアタシ達と一緒に行動して、英司には単独で動いてもらうから」
 美鈴が綾美の言葉を遮るように言った。
「そうと決まれば、早速行動開始だ。英司、動いてくれ」
「ちょっと待って」
 英司はそう答えると、M24に取り付けられたスコープで辺りを覗きこんだ。ほんの数十メートル手前の景色が、何倍にもズームアップされて目の中に飛び込んでくる。すると、木の間を縫って移動する人影が一瞬スコープの左半分に写り、すぐに捉えて引き金を引いたが、発射音はおろか撃鉄が落ちる音もしなかった。故障か?と思って銃をチェックすると、安全装置が解除されていなかった。
「どうした」
「安全装置を解除し忘れた。逃がしちゃったよ」
 英司が自嘲気味に答えると、「反撃されると思って逃げたみたいだ」と付け加えた。
「この先で待ち伏せかな?」
「そうじゃないか、次は警告じゃないみたいだぞ」
 房人はそう漏らすと、英司の肩を叩いて、ハンドシグナルを使って回り込むように伝えた。英司はそれに無言で頷くと、バックパックを背負って音を立てないように小走りしながらその場を離れた。十メートルも離れると、本当にどこにいるのか分からなくなった。

 英司は房人たちに対し十五メートルほど離れて、さっき自分達に矢を放った相手の痕跡を探していた。頭からは布で出来た草のお化けのようなギリースーツを身に纏い、寺田の村で調達したフェイスペイントキットを使って、顔も迷彩柄で塗りつぶした。草むらや茂みの中にじっとして伏せていれば、まず見つかる事は無いだろう。久々の単独行動だ。綾美を連れていた時は何かと制約が多く、彼女の失態で危機的状況にも陥りかけたが今回は違う。自分の持つ経験と知識の引き出しをフルに使って、思う存分行動できる。神経を研ぎ澄まし、遠くの落ち葉の下に眠っている虫の息遣いも似た感じで一歩一歩前に進んでゆく。
 英司は敵が何か痕跡らしい物を残していないが注意深く探したが、足跡や折れた草、木の根っこに付いた泥といった痕跡は発見できなかった。もし相手がかなりの場数を踏んでいる相手だったら、残してきた房人たちが心配だ。彼らは高度な訓練を受けて、こういった特殊な場所での戦闘や行動の仕方を身につけているが、まだ実戦経験はない。危機的な状況に陥れば知識より経験が物を言うから、上手く乗り切れるか心配だった。
 すると、自分の左前に立っている木の根元に、光を反射する糸のようなものが張られているのに気付いた。近くによって見ると、ナイロンで出来た釣り糸が足元に引っかかるようにして、ピンと一直線に張られている。その糸の先には先には、反対側にある木の裏側の地面に刺した杭に巻きつけられたMkⅡ手榴弾の安全ピンに繋がっている。一般的なブービートラップという奴だが、さっきの鳴子とは違って、コイツは人を殺す為の罠だ。
 英司はブービートラップの糸を切らずに、その場を後にした。下手に解除したら、誰かがここを通った証拠になる。房人はさっき敵の数は一人だろうと言ってはいたが、他の仲間がこの辺りに潜んでいないとも限らない。
 歩き出すと、右の足首に紐のようなものが引っかかる感触がして、その糸の先につけられた何かが外れる衝撃が伝わってきた。まずい!と心臓が凍りつくような感触と共に心の中で叫ぶと同時に、一歩全速力でダッシュしてそのまま地面に体当たりするように伏せた。
 それとほぼ同時に、木の上からロープに吊るされた棘付きの巨大な枕のようなものが彼めがけて振ってきて、彼の体の上数センチで通り過ぎた。耳元に聞こえてくる棘が空気を切り裂く音と、背中に吹き付けて来る風はこの世の物とは思えないものだった。身体全体が防御体制に入っているから、自分の心臓の音さえも聞こえない。しばらく棘の付いた巨大な物体が前後運動を繰り返すと、次第に動きがゆっくりになって、玉が完全に静止すると、深呼吸をして全身の強張った神経をほぐして、立ち上ると自分を襲った棘の塊を眺めた。
 黄色と黒色のナイロンロープに吊るされた棘の塊は、切り落とした牛の頭二倍くらいの大きさで、木の枝を尖らせて作った棘が何本も四方八方に飛び出している。こんなのをまともに食らったら内臓にまで深く棘が突き刺さって致命傷になっただろう。
 ここから先は気を締めていかないと、本当に命取りになるな・・・・・。と英司は思った。
 彼は一旦その場を離れ、改めてどうやって敵を誘い出すか考えた。敵はクロスボウを使って攻撃してくるから、マズルフラッシュや銃声で敵の位置を探れない。下手に探そうとすれば、このエリアに張られたトラップの餌食になってしまう。だからといって、そのまま素通りというわけにも行かない。さっきの警告を無視して深入りしてしまえば、こちらには相手に対し攻撃の意志があると受け止められて、攻撃される可能性がある。そうなる前に、何とかしてこのエリアを切り抜けないといけない。
 英司はしばらくその場に佇みながら、何かいい案は無いか考えこんだ。そしてしばらくすると、右のポケットに突っ込んだウォーキートーキーを取り出して、こう小声で囁いた。
「でっかい棘の玉がぶら下がっている所まで皆で来てくれ、近くにブービートラップが仕掛けてあるから気を付けろよ」
相手の無線からの返答は無かったが、しばらくの間空電音が聞こえてきたから多分聞こえただろう。房人と美鈴、どちらが答えたかは分からなかったが、言った事は伝わったはずだ。英司は房人たちを待つため、ギリースーツに落ち葉や草を点けて近くに伏せた
 しばらくすると、三人が彼の元へとやって来た。英司のバックパックを持った綾美をガードしながら、房人と美鈴は銃を構えて近くに潜んでいるはずの英司を見つけようとしている。だが、地形の僅かな変化を見つけるのに慣れていないのか、房人と美鈴は英司のすぐ足元まで来ても英司を見つけられずにいる。その様子が、なんだか英司には可笑しく思えた。
「どこにいる?」
「棘の付いた玉の近くって言ってからここら辺じゃないの?」
 房人と美鈴の会話が、さらにその様子を可笑しくさせる。自分はこんなに近くにいるのに・。
 そろそろ起き上がって、姿を見せてやろうと英司が思ったその瞬間、重たそうに彼のバックパックを持っていた綾美が、近くの地面の僅かな変化に気がついた。綾美は思わず「あっ」と小さい声を挙げて、その方向を指差した。
「どうした?」
 房人が聞くと同時に英司は立ち上がって彼らの目の前に姿を現した。三人は、まるで森に住む蔓状モンスターのような英司の姿を見て、何もコメント出来ないらしい。確かに英司の着ている緑やカーキ色の細長いキャンバス布をつけたギリースーツは見た目こそ滑稽だが、森林地帯などに潜む時は最高の偽装アイテムと化す。
「そんなところに居たの?」
 最初に見つけた綾美が呆気に取られたような声で呟いた。
「目の前に居る敵を見つけられないようじゃ、まだまだだぞ」
 英司が嬉しそうな声で答える。
「経験の差を考慮してよ、アタシ達とアンタじゃ場数を踏んだ数が……」
 美鈴が言い訳がましく漏らそうとすると、英司は声のトーンを切り返してこう制した。
「場数を踏んだ奴と踏んでない奴が一緒に放り込まれるのが戦場なんじゃないのか?」
「確かに。今回は自分らの負けです。〝神無助教〟」
 美鈴がふざけた様な言い方で答えると、英司は「よろしい」と答えた。こういう軽い冗談は、重苦しい雰囲気の時に一種の清涼剤として有効だ。
「それで、何で俺らを呼んだ?」
 房人が英司に訪ねると、英司は気持ちを切り替えて、房人の方を向いた。
「移動方法を変えよう。俺がポイントマンになって十五分進んだら、一旦そこで待つ。その間に三人が俺の所までやって来て、そこで一旦待機。その間に俺はまた十五分進んで、俺の所にやってくる。それの繰り返し」
「なるほど、そうすれば安全を確保しながら移動できるな。ブービートラップなんかの位置も確認しながら前に進める」
「私達を待っている間、英司はどうするの?」
 綾美が房人に聞いた。
「今みたいに隠れていればいいじゃないか。そうすれば、まず敵に見つかる事はないよ」
「誰が見つけるの?」
「綾美が見つければいいじゃないか、一番に英司を見つけたのは綾美だろう?」
「えっ、だけど」
 美鈴は口籠った。確かに英司を最初に見つけたのは自分だが、単なるまぐれだ。また二回も三回も見つける自信は無い。
「とにかく、早い所先に進んじゃおうよ、一日の間に長い距離を移動したいからさ」
 美鈴が強引に話を切り上げると、英司は早速彼らの元を離れて自分の提案した行動に移った。
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