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文字数 9,938文字

 先程まで激しく響いていた砲撃の音も静まり、芳香剤の残り香と長年積った塵が充満した狭苦しい空間は、息をするだけで鼻の奥がちりちり痛んだ。壁に貼られていた鏡は砲撃の衝撃で粉々に砕け散り、足元には銀色に鈍く光る欠片が床に散乱している。
 綾美が女子トイレに入ったとき、砲撃はまだ続いていた。その音と衝撃は彼女が今までに体験したことも無いもので、爆発するたびに内臓と横隔膜が揺さぶられる。すると彼女は薄明かりの中で、つばきが何か無線のようなもので会話しているのを見つけた。
「動かないで!」
 綾美は持っていた銃を突きつけて叫んだ。つばきは無線を持ったまましばらく銃を構えた綾美を見つめていたが、砲撃の揺れが収まると同時に持っていた無線機を投げつけ、避けようとした綾美を捕まえて、そのまま持っていた銃を奪い取り、銃を持っていた手を後ろに回して綾美の行動の自由を奪った。綾美は咄嗟に腰のナイフに手を引き抜こうとしたが、それよりも早くつばきにナイフを引き抜かれ、刃を綾美に向けてそのまま首筋に押し当てた。冷たい金属の刃が頚動脈から数センチのところにあるだけで、綾美は死という物の恐怖を初めて意識した。
「まさか、私達を罠に嵌める為に、あの村の人たちを皆殺しにしたの?」
 綾美がつばきに質問する。
「もちろん。あんた達ってバカで甘ちゃんだからこの手の罠にすぐ引っかかると思ったの。そしたら見事に引っかかって、ブルズアイターゲット並みの単純さよ。私たちはあんたがあの英司とか言うガキと一緒に出た時からずっと後を着けてたから、どんな事するかは解かっているたんだよね」
 つばきはそこで殺人鬼のような笑い声を漏らして悲劇の少女の仮面を脱ぐと、さらに続けた。
「意外と言っちゃ失礼かも知れないけれど、あんたって結構骨のある子だったんだ。唯の弱虫お嬢様だと思っていたわ」
 海下は完全に元の冷酷な殺し屋に戻ると、さらにナイフの刃を綾美に近づけた。
「仲間を呼んでデータの入ったディスクを渡せば、あんたを助けてやれるよ。どうする?」
 不敵な笑みを浮かべながら耳元で囁く海下の言葉に、綾美は恐怖に震えながら、ほぼ無意識にこう答えた。
「バカ言わないで、私は命を落としてもいい覚悟でここまで来たのよ。あんたみたいなクソ女の言う事を聞くくらいなら、虫けらみたいに死んだ方がマシよ」
「そう」
 海下は納得したような声で呟くと、静かにこう続けた。
「じゃあ、死んでちょうだい」
 海下がそのまま持っていたナイフを綾美の喉に刺し込もうとしたその瞬間、はがれ落ちた天井の破片を踏みしめて、9mm機関拳銃を構えた英司が立ちふさがった。
「動くな!」
 英司は自分でも気が動転しているのが分かるくらい、大きな声で言った。海下は構えていたナイフ綾美の首筋に当てながら、そのまま彼女の身体を盾にする。
「いまさら気付いたの?バカよね、あんた。皆殺しにあった村でただ一人生き残っている奴を疑ったりしないの?」
「うるさい!綾美を離せ」
 英司は血走った目で叫んだ。彼の気が動転していると読んだ海下は、ズボンの間に差し込んだSIG・P230JPを引き抜き、銃口を英司に向けた。
「味方に何か、特に自分の好きな女の子が巻き込まれるとすぐ取り乱す。狙撃の技術はあっても、いい兵士になる素質は無いみたいね」
「いいから綾美を離せ!」
「まさか敵を捕まえて自分達の仲間に加えて裏切られるなんて、お笑い以外の何物でもないわ。バレたら末代までの恥よ」
 海下はなおも、勝ち誇った口調で英司を挑発し続ける。英司は9mm機関拳銃の発射モード単発に切り替え、照準を海下の脳天に合わせた。海下はさらに綾美の身体を引き寄せる、女とは思えない力だった。自分の頭が綾美の頭で半分隠れるようにした。引き寄せられた時の衝撃で思わず顔を歪め、苦しみに耐える目で英司を見つめた。
「この期に及んで撃てないの?好きな女の子が盾になっているだけで」
 海下のその言葉に、英司の心がびくんと揺れ動く。その心情の変化を読み抜いた海下は、さらにこう続けた。
「分かるよその気持ち、人を殺す事に慣れていても、自分にとって大切な人がいると躊躇してしまう。だけれど、今のあんたにはこの子を助ける以外にもするべきことがあるんじゃないの?この子の命よりも大事なのが」
 英司はその言葉に対して何か言い返したい気持ちになったが、自分でも分かるくらい頭の中が混乱していて、心拍数もかなり上がっている。何かしなければと念じていると、混乱した脳神経が一つだけ繋がって、ある事を彼に思いつかせる。
「お前の目的は、確かこれだったよな?」
 英司は静かに呟くと、腰のベルトに付けたポーチから袋に入ったUSBを取り出した。
「それは」
「お前らの組織の最重要人物リストが、この中に入っている。これが目当てで、ここまでやってきたんだろう?」
 英司の意外な一言に、海下は目を丸くした。USBをここで渡しても、同じ内容の物がもう一枚こっちにある。それを届けさえすれば、こちらの勝利だ。
「綾美とこれを交換する。それでどうだ?」
 英司の言葉に、海下は思わず目を丸くして、動揺を押し殺しながら英司に聞き返した。
「いいの?そんな大切なものを渡して」
「構わないさ、別に」
 英司が「どうせこれを渡した所で、今の俺が変われるわけじゃない」と続けようとしたその瞬間、綾美が苦しそうに口を開いた。
「それだけは、やめて」
 英司と海下の意識が綾美に向けられると、綾美はさらに続けた。
「それは山内さんが残した大切なものだから、私が死んでも、それだけは絶対に渡さないで。皆の為にても」
 綾美の言葉に呆然としていると、奥のほうで大きな爆発音と、5・56mm弾の銃声が何発か聞こえてきた。さらにその二秒後に女子トイレの側で大きな爆発が起きると、爆風と衝撃と一緒に、粉塵かれらの元に参り込んできた。その音と衝撃に彼らは思わす身を屈めると、隙と見た海下が綾美を掴んだまま猛然とダッシュした。不意を突かれた英司は持っていた9mm機関拳銃で海下を足止めしようとしたが、逆に海下の拳銃で足止めされてしまい、すぐにその後を追ったが、粉塵が充満した薄暗い空間で二人の姿を見つけることは出来なかった。
 それから少しすると、埃まみれになった房人たちが英司の元にやって来た。どうやら侵入してきた敵と小規模な戦闘があったらしく、身体からは火薬の臭いか漂っている。
「何があった?」
「侵入して来た奴らが上に上がって来ないように階段にトラップを仕掛けようとしたら、敵の斥候と撃ち合いになっちまった。こっちが先に気付いたから返り討ちにしてやったけどな、政彦がフォローしてくれた」
 房人は埃にまみれた鼻を擦りながら答えた。今はまだ実感無いだろうが、時間が経てば自分か人を殺した事に震える筈だ。
「ところで、綾美はどうしたの?」
 美鈴が何気なく尋ねると、英司は申し訳なさそうに俯いて、こう呟いた。
「すまん、助けようとしたけれど、後ちょっとの所で逃げられた」
 その言葉を耳にした政彦が、突然脇にいた房人を払いのけ、熱のこもった目をして、力いっぱい右の拳を英司の顔面に殴りつけた。殴られた英司は軽くよろめいて、反射的に政彦に殴り返そうと思ったが、殴られた左頬が熱くなって来ると同時にあることに気付いて、殴り返すのを止めた。
「助けようとして助けられなかっただと?ふざけんな!それなんだったら、始めから助けるなよ。本当に助けてやりたかったら、自分の命も顧みずに助けるのが普通じゃないのかよ!」
 政彦は震えながら叫んだ。その言葉に、英司は返す言葉が思い浮かばなかった。
「心底失望したぜ、もう少し骨のある奴かと思ってたのに。結局は最後に自分の事を優先して逃げ出すヘタレかよ」
 政彦の言葉は、まさにその通りだった。綾美への気持ちもハッキリしないで、思いつきで行動してしまった自分が憎い。殺したいほどに。USBをエサにして海下の動揺を誘ったのは上手く行ったが、返ってその慢心が仇になったのかもしれない。とそこまで考えて、英司は自分に言い聞かせる為の言い訳をやめた。政彦の言っている事は真実だ。それを否定する権利なんて、今の自分には無い。
「彼女が犯されたり、殺されたりしたら、全部お前のせいだからな。悪いのはあいつ等じゃない。お前だからな」 
「もう言うな。けじめは付ける」
 英司は殴られた左頬を撫でながら静かに答えた。
 しばらく沈黙が続くと、あたりを覆っていた粉塵が薄らぎ始め、視界が開けてきた。それと同時に、房人たちがやって来た階段の方から、侵入してきた敵の叫び声が聞こえてきた。
「野郎、来やがった」
 房人が小さく呻く。
「脱出ルートは、あるのか?」
 英司が聞いた。
「非常階段はまだ調べてないよね、あそこからなら逃げられるかも」
 美鈴が呟いた。
「敵と出くわしても強行突破か、ここで殲滅されるよりはマシだ」
 政彦が呟くと、手に持っている89式小銃のマガジンを、三十発フル装填されているものと取り替えた。
「とにかくここから逃げよう。次はその後だ」
 政彦が言うと、彼らは非常階段に向かって走り出した。

 竹森がスーパーに入る頃、建物内の捜索は一通り終わって、周囲はつかの間の平穏を取り戻していた。81mm迫撃砲で攻撃した屋上駐車場には大きな穴が開き、焼け焦げた臭いと粉塵が下の階層一面に漂って、ゆっくりと彼のいる一階付近まで流れ込んできた。建物に入ると、薄暗い空間の中には上に繋がる階段から粉塵が水に垂らした牛乳のように流れて込んでくる。その階段の踊り場には撃たれた兵士の血がべったりと残っていて、そのあとが自分のいる階まで延びている。その後からしばらく離れると、シートに包まれた三人の兵士の亡骸が置かれていた。二人はこのスーパーに突入した時に撃たれて、もう一人は逃げた敵を追った時に撃たれて死んだ兵士だった。
 竹森は彼らの近くまで立ち寄ると、近くにいた衛生兵に聞いた。
「損害は、彼らだけだな?」
「はい三人とも出血が酷く、手の施しようがありませんでした」
 衛生兵は決まり文句のように答えた。竹森自身、ここに来るまで多くの人の死を見てきたが、こういう死んだ兵士を目の前にしたときの感想は何時も同じだった。他に形容する言葉がないのか、それとももう人の死に対する何かが錆び付いて用を成さなくなっているだろうか。とはいえここでその謎を解明したところで、それが今の状況で何の役に立つというのだ。
「近くの茂みに穴を掘って埋めてやれ。墓標を忘れるなよ」
 竹森は一言言い捨てると、海下が待つ一階の事務所に向かった。
 六畳ほどの事務所に入ると、海下が両腕を後ろで縛られた綾美がパイプ椅子に座らせられていた。部屋の中には事務用机とレターケースがあるくらいで、壁に貼られた汚れた広告がかつて大型スーパーの名残を感じさせた。海下は縛られた綾美の前に立って、何かを聞き出そうしていたようだが、下を向いた綾美は口を割らず、固い決意を胸に尋問に耐えている様子だった。
「何か話したか?」
 竹森が聞くと、海下は首を小さく横に振った。
「思っていた以上に口が堅くて、どうしようか悩んでいる所です」
 海下は綾美を見つめながら呟くと、竹森の方を向いてこう聞いた。
「私の装備は?」
「部下に持たせてある。後で受け取りに行くといい」
 竹森はそう答えると、綾美の下顎を掴んで強引に顔をこちらに向けさせた。綾美は一瞬暴かけ、たとえ危機的状況に陥っても、最後まで反抗的態度を改めない。一体誰に似たのだろうか?
「所持品は調べたか?」
 竹森は横に逸らした綾美の眼を見ながら、海下に聞いた。
「武器と身の回りの品以外、特には。情報が記録されている思いしきUSBメモリは、こいつの逃げた仲間が持っていました」
 海下がズボンの尻ポケットに差し込んでいた綾美のワルサー・PPKを竹森に手渡す。
「逃げた奴らは?」
「逃げた連中は宇野と土居が追跡班を編成して追いかけている。じきに報告があるだろう」
 竹森は素っ気無く答えると、綾美の顎から手を離した。綾美は自分に触られたのが癪に障ったのか、刺すような視線で竹森を見つめ返した。
「あの山内とか言う男が好きそうな娘だ。奴の趣味に合わせて育てられたか?」
 竹森は嘲るような態度で綾美に言うと、綾美は刺すような視線のままこう答えた。
「あんたみたいな男の相手をするのは嫌よ。私の大切な人達を何人も奪ったあんたなんか、ぶっ殺されればいいのよ」
 綾美の口だけの反撃に竹森は小さく笑うと、今度は右手を綾美の顔に添えて、煙草臭い息が掛かるほど顔を近づけてこう答える。
「映画のヒロインのような台詞を吐くのは結構だが、情報を何も持っていない捕虜は唯のお荷物でしかないのをご存知かな?お嬢さん。もし命が少しでも惜しいと思うのなら、知っている事を全部話して、私達に協力するような態度で接するのが普通だと思うが?」
 竹森が児童性愛者のような笑みで言うと、綾美は口の中に溜めていた唾を竹森の顔面に吐き、こう続けた。
「冗談言うのもいい加減にしてよ。さっきもそこの女に言ったけれど、あんた達の肉便器になるなら、マジで死んだ方がマシよ」
 綾美が放ったその言葉に竹森はオルガズムにも似た快楽を覚えると、額に添えていた右手を離して顔に付いた唾を拭って嘗めると、半笑いを浮かべながら「死んだ方がマシか・・・」と精神異常者のように呟いた。頭のボルトが全て引き抜けて、ボルトが刺さっていたネジ穴がカタカタと音を立てて震えている。そして今までの綾美との会話を反芻すると、それ全てが自分の性感帯を刺激されているような錯覚に陥った。その快楽はやがて全身から脳肝に伝わり、大脳に拡散すると猛烈な怒りとなって彼の中を駆け巡った。竹森は持っていたワルサー・PPKの撃鉄を指で起こし、振り向いて綾美の襟元を左手で掴むと強引に引き倒して、彼女の上に覆いかぶさって銃口を綾美の口の中に押し込んだ。そしてそのまま彼女の下半身を両足で押し付けると、左手で彼女の着ていたベージュのボタンシャツを強引に引き剥がした。
「なら今すぐ殺してやってもいいが、それはそれで惜しいよな?」
 竹森は明らかに頭がおかしくなってしまった人間の顔で言った。口を銃口で塞がれ、両手を後ろで縛られている綾美は満足に抵抗する事もできず。ただ突然の出来事にもがくのが精一杯だった。
 竹森は綾美の股間に左の膝小僧を押し付け、拳銃の安全装置を解除して綾美に言った。
「このまま引き金を引かれて苦しんだ後に死ぬか、それともこのまま俺に犯されたいか?俺はお前みたいな人間が、現実を呪いながらもがき苦しんで死んでいく様子を眺めるのが最高に興奮するんだよ」
 竹森は低く張りのある声で迫りながら、股間に押し付けた膝を僅かに動かして、さらに続けた。得体の知れないおぞましい何かが入ってくると思った綾美は、思わず身を固くする。
「もしお前が今死にたくないと思ったら、二度と気丈な振る舞いはするな。さもなければ、どんな仕打ちをするか分からんぞ?」
 竹森が震えた声で話すと、綾美は怯えきった瞳に小さな涙を滲ませて、小さく頷いた。その鮮やかな瞳と怯えきった表情が、竹森をより一層熱くさせた。美しく弱々しい存在を、自らの醜い欲望で粉々にする。それが暴力で支配するという事の真骨頂であり、人間を狂わせる悪魔の思想でもあった。
 綾美が怯えきった目で竹森の目を見つめていると、事務所の入り口で部下の一人が呼んだ。竹森はすぐに立ち上がり、「なんだ?」と何時もの様子で聞き返した。
「追跡班から報告。敗走した敵部隊を追撃中に待ち伏せ攻撃に遭遇し三名死亡、二人重傷です」
「すぐに応援を出せ、敵の捜索より負傷者の収容が先だ」
 竹森はそう指示すると、銃をM65フィールドジャケットの右下ポケットに収めて、事務所の外に向かった。
「この娘はどうします?」
 海下が放心状態で横たわる綾美を見ながら聞いた。
「肉を保存する冷蔵庫が在っただろう。そこへ放り込んでおけ。見張りは置いておけよ」
 竹森はどこかに恍惚の表情を浮かべながら、事務所を後にした。海下はその後姿を見送ると、目元に涙を浮かべ、口を開け本物の恐怖を味わった表情の綾美に近寄り、彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。
「こっちに来な。今の世の中を生き抜きたいなら、男の暴力を認めて、自分もその暴力を使えるようにしないと死ぬよ」
 海下は言い捨てると、食肉売り場の冷蔵庫へと運んだ。


 スーパー内の事務所で綾美が尋問される少し前、幸いにも敵の追撃を交わした英司達は、スーパーから三〇〇メートルほど離れた小さな林に潜んで、追って来る敵がいないか確認した。本当ならもっと離れて、敵のライフルの有効射程外に逃れたかったのだが、この周囲には田畑が多く、道路に沿って移動すると敵から丸見えになってしまうため、適当な遮蔽物を探してこの林に逃げ込んだのだった。この林を影に移動すれば少なくとも敵に発見される率は低くなる。もし可能ならここにクレイモア地雷をセットしてこの林に誘い込み、突っ込んできた敵に出来る限りダメージを与えて置きたいからだ。
「ここで強くアンブッシュしても、敵は追撃を止めないと思うよ?」
 美鈴がバックパックの中からクレイモア地雷を収めた袋を取り出しながら、すぐ脇で防御体制を取っている房人に聞いた。彼はM249PARAの二脚を下ろし、地面に伏せた状態で遠くに見える敵の追跡部隊を待っていた。
「ここで敵にダメージを出来るだけ与えておけば、追撃の手が緩むかも知れないだろう。そうすれば、こっちが安全なエリアまで逃げ切れる可能性は高くなる」
「もし敵がここら辺の仲間を無線で呼んできたらどうする?数百人位の人数で包囲されたら勝ち目は無いぞ」
 政彦が口を挟んだ。
「敵の増援だってすぐに動けるわけじゃない。それに無線通信を使えば、ここら辺の自衛隊の通信傍受網に引っかかる筈だ。そうすれば助けが来るかもしれない」
「もし駄目だったら?」
「こっちの無線で救援を呼んでひたすら逃げるしかない。とにかく今は向こうに損害を与えるのが先だ」
 房人は呟くと、少し離れた草むらの中で狙撃ポジションに付いている英司をウォーキートーキーで呼んだ。
「敵が出てきたら真っ先に無線機を持った奴を狙撃してくれ、俺達はその銃声を合図に攻撃をして注意を引き付ける。それが終わったら、すぐさま撤収して一キロ後方にある二本目の道路で合流。いいな?」
「りょ、了解」
 先ほどの事がまだ尾を引いているのだろうか、無線機の向こうで英司は鷹揚に答えを返した。房人は英司に渇を入れるつもりで、もう一度こう言った。
「安心しろ、彼女の事は後で作戦を立てる。だから、今は自分の成すべき事をしっかりこなしてくれ、アウト」
 房人が無線を切り終えると、耳に当てていたウォーキートーキーを仕舞って、M24のスコープを覗いた。十倍ズームされたスコープの景色越しに、さっきまで彼らがいたスーパーが見える。あの中に綾美は捕らわれているのだ。どうして海下と対峙した時、綾美を救えなかったのだろう。機転を利かせるか、あるいは多少危険を冒せば、絶対に綾美を救えたはずなのに、あの時引き金を引けなかったのは何故だろう?絶対に引けた筈なのに、気が動転していたから?そんなのは理由にならない。自分だけ生き残りたかった?いや、そうでもない。彼女を救えなかった真の理由、それは一体何なんなのだろう。
 すると、彼らが降りてきた非常階段のドアが、ほんの少しだけ開いた。恐らくブービートラップが仕掛けられていないか確認しているのだろう。確認が終わると、ドアが一気に開き、中から武装したゲリラ兵が流れ出てきた。M16A4を持った兵士が先頭に立ち、その後ろからMINIMIを持った機関銃手、その後に一人が、無線機を背負った兵士はその後に続き、さらにその後から二人の兵士が続いた。彼らは銃を構えながら一列等間隔で階段を降りて、散会しながら周囲を警戒している。英司は無線機を背負った兵士の胸に照準を合わせ、静かに呼吸を整えた。三〇〇メートル程度の距離なら頭を狙って確実に倒せるが、攻撃された時みたいに撃ち損じると、房人たちを危機的な状況に陥れるかもしれない。だから相手の胸を狙った。静かに呼吸を整え、全身をリラックスさせる。習性というのは恐ろしい物で、さっきまでクヨクヨしていた感情が、嘘みたいにクリアになってくる。風は無風。最高のコンディションだ。
 呼吸を止めて、静かに引き金を引く力が銃身と一直線になるように引いて、撃鉄が落ちる寸前に力を緩める。そうして撃鉄が落ちると、撃鉄によって押し出された撃針が薬莢の雷管を叩き、ドンと言う音と共に薬莢内部の発射薬が爆発して、弾丸が銃身を通り抜けて放たれた。弾丸はそのまま音速を超える速度で空気を切り裂きながら飛翔し、そのまま人間の肋骨を打ち砕き肺と大動脈を抉りながら進むと、背骨にめり込んだ所で止まった。ここまでに掛かった時間はほんの二秒。あっという間の出来事だ。二秒の時間と数グラムの弾丸があれば、何十年と言う人間の人生を終わらせる事が出来る。
 銃声を聞くと、すぐ脇にいた男が全員に伏せるよう大声で叫んだ。それと同時に房人たちが一斉に敵に向かって掃射を掛けた。掃射と言っても火力はアサルトライフル二丁と分隊支援火器一丁だけで、弾薬にも限りがあったから、敵を動けなくするのが精一杯だった。三秒ほど射撃を加えると、英司は素早く立ち上がり、出来るだけ姿を晒さないように身を屈めながら、房人と指定した合流地点に向かった。

 銃撃が収まった後、宇野は頭を上げないよう匍匐前進しながら、撃たれた通信兵の側に寄った、胸を撃たれた通信兵は心臓か大動脈に銃弾が当たったのか、息をするたびに胸に開いた拳大ほどの穴から大量の血が噴出し、もう助からないのは一目で分かった。宇野は撃たれた通信兵の手を掴むと、青白い顔色をして、焦点の合っていない目を覗き込んだ。もう意識は殆ど無い筈だ。後数分で死ぬだろう。
「俺は……」
 撃たれた通信兵は釣り上げられてしまった鮒のように口を動かしながら、かすれた声で呟いた。
「大丈夫だ、すぐ楽になる」
 宇野が一言彼に囁くと、通信兵はカッと目を見開いたまま絶命した。宇野は静かに彼の瞼を指で閉じると、背後で目の前の森に向かって銃撃している部下達に叫んだ。
「何人やられた?」
「グレネード弾の破片で一人負傷。後は全員無事です!」
 目の前の森に向かってM16A4ライフルを連射していた兵士が答えた。この距離なら5・56mm弾のM16A4でも有効射程ではあったが、森に遮られては意味が無かった。M16や89式小銃に使われている5・56mm弾は、反動が小さく撃ちやすい弾丸ではあったが、木の枝ななどに当たると弾道が曲がったり、威力か小さくなるという致命的な弱点を持っていた。 
 宇野は通信兵の持っていた無線機を手に取り、銃弾で損傷していない事を確かめて、無線の受話器を持った。
「土居、聞こえるか?」
「聞こえるぞ、攻撃を受けたようだな」
 土居は誰かの伝聞でも聞いているかのように答えた。その彼の言い方が、爆発で痛めた鼓膜に、骨伝導で入ってくる。
「一名死亡一名負傷だ。すぐに追撃に移る」
「敵の移動ルートは分かるか?」
「スーパー北側の小さな林だ。そこから攻撃してきて、撃ち返す前に逃げられた」
 宇野は無線機で話しながらマップケースを取り出し、現在位置から周囲五キロ圏内の、敵が逃げそうな込みそうな所を探した。目の前の林を過ぎると、一キロ先に二車線の道路が通っている。さらにそこから北東一・五キロに進むと、今は使われていない化学薬品工場の跡地があった。
「ここから二・五キロ先の先の化学薬品工場に逃げ込む気だろう。その前に待ち伏せをして奴らを叩く」
「何処で待ち伏せする?」
「今俺が居るところから一キロ進むと道路が走っているから、そこから化学工場までの間で潰そう。今どの辺りにいる?」
「スーパーから六〇〇メートル東の林の中だ。近くに交差点と住宅が少しある」
「よし、なら東側から攻めてくれ。俺達は林を迂回して直進する」
「了解、アウト」
 宇野は通信を切ると、撃たれた通信兵が持っていた無線機を背負って、銃撃をやめた兵士達に前進するように指示して、撃たれた通信兵の両腕を腹の上で握らせてやってから兵士達の後に続いた。
 仲間を殺した罪は命で償ってもらうぞ。と心の奥で呟きながら。
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