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文字数 10,646文字

 土居の率いた先発隊は、住宅街に展開していた部隊の救援に向かうと、後から来た宇野の部隊と合流した。敵には航空機や重迫撃砲の支援などは無かったが、戦力の差はいかんともし難く、宇野達の部隊は苦戦を強いられていた。
「どうする、このままここで殺されるか?」
 土居が銃に新しい弾倉を装填しながら宇野に聞いた。彼らは先に展開していた部隊の生き残りを引きつれて、何とか住宅と工場が立ち並ぶ地域まで逃げ込んだのは良いが、例え人口密集地であっても自衛隊の火力が弱まる事は無かった。恐らく敵部隊殲滅の為なら、多少民間人に犠牲が出ても仕方ないと言う敵の指揮官の判断だろう。敵のM2重機関銃の音が、狐狩りのときに吹く笛の音のように聞こえてくる。
「奴らは民間人が居る所で派手な立ち回りはしないと思っていたが、当てが外れたな」
 宇野は半ば上の空の状態で漏らすと、近くに居た無線兵に向かってこう口を開いた。
「負傷者を一箇所に集めてくれ、残った奴らはここで増援到着まで防御戦闘に加わるよう各班に通達しろ。それと土居は何処か見晴らしのいい所に行って敵の進行方向を教えてくれ。少しでも敵を消耗させたい」
「了解!最後の大仕事だな」
 土居は威勢良く答えると、そのまま飛び上がって、交差点の反対側にある運送会社のビルに駆け出していった。ドアに掛かっていた南京錠を銃で壊し、中に入って黴臭く湿った内部を抜けると、階段を一気に駆け上がって屋上に出た。交差点の角に突き出た場所に陣取り、スコープで敵の居る方向を覗きこむと、二つほど向こう交差点に。迷彩柄の戦闘服を着た自衛隊員達がせわしなく動き回っているのが見えた。さらにその向こうには、増援の隊員を乗せた車列も見える。土居はヘッドセットマイクに向かってこう叫んだ。
「二つ向こうの交差点に敵!増援も到着した!」
「分かった。重火器や無線兵を優先して始末してくれ」
 宇野がそう指示すると、土井はSAM‐Rのバイポットを下ろして床に伏せると、呼吸を整えながら敵が居る交差点までの距離を測った。距離は五二メートル。当てられない距離ではないが、気まぐれに建物の間を抜ける横風も計算に入れないといけない。土居は無謀にも突っ込んできた一人の自衛官の胸に照準を合わせ、闇夜に霜が降る如く引き金を引くと、自衛官は胸に鮮血の赤い花を咲かせて倒れた。その調子で近くに居た二人の隊員に弾丸を撃ち込むと、狙撃されている事に気づいたのか後に続く隊員がぱっと物陰に隠れた。
 よし。土居は胸の中でそう静かに呟くと、今度は照準を01式対戦車誘導弾の発射準備をしている隊員に合わせて、引き金を引いた。左肩を撃たれた隊員がよろめいた衝撃で引き金を引くと、発射されたミサイルは天高く上昇して背の低い建物を跳び越し、屋上に居る土居に目掛けて飛んできた。ミサイルの弾体がスコープに映った瞬間、土居は身の危険を感じてその場を離れようとしたが、逃げるよりも早くミサイルが屋上付近に着弾して、爆風が彼の身体を宙に浮かせた。ミサイルの破片とコンクリートの欠片が彼を包み、目の前が真っ暗になって、自分が何処にい居るのかさえ分からなくなる。閉じた目を少しだけ開けると、天地が引っくり返って、自分が頭から地面に向かって落ちるのが分かった。
 俺の人生もここまでか。出来るなら綺麗で優しい奥さんを貰い、子供をもうけて、良き父親になりたかったなと土居が後悔の念を呟くと、彼の記憶はそこで途切れた。

 爆発音を無線機越しに聞いた宇野は、無線機の向こうに居る筈の土居に向かって叫んだ。
「おい!大丈夫なのか!?」
 宇野はしばらく待って応答を伺ったが、骨伝導スピーカーからは何も聞こえてこなかった。宇野はもう一度土居の名を呼ぼうとしたが、もうこれ以上叫んでも虚しいだけだと思って、止める事にした。すると、どうしてなのか数日前に山賊に犯されていた女の子の事を思い出して、止めを指す前に見たあの輝きを失った瞳の眼差しの感触が脳裏にコバンザメのように張り付いた。くそ、何でこんな時に。宇野は必死にその眼差しの感触を振り払おうとしたが、振り払おうとすればするほどその感触は強くなってくる。
「宇野さん。竹森さんから連絡です」
隣に居た無線兵が彼の名前を呼ぶと、宇野は眼差しの感触と戦いながら無線の受話器を受け取った。
「宇野です」
 宇野は落ち着きの無い口調で答えた。
「もうすぐでそっちに着く。それまで持ちこたえられそうか?」
 聞き慣れた竹森の声がエンジン音と風切り音に混じって耳に響いてきたが、それでも不快な感触は消えなかった。それどころか、何かをするたびにその感触が強くなってくる。もし普通の人間がこの感触を味わい続けたら、きっと発狂してしまうだろう。
「分かりません。敵の数が多すぎて既に部隊の四割が戦闘不能。土居の奴も戦死しました」
 宇野が出来るだけ平静さを保とうと努力しながら答えると、竹森は特に驚く様子もなしにこう答えた。
「了解、到着まで持ちこたえろよ」
 宇野はそこで通信を切ると、M16A4に新しい弾倉を装着して、発射モードをフルオートに切り替えて、悪夢を吹き払うように弾丸を敵に向かってばら撒いた。しかしM16A4のデリケートなリュングマン方式の作動メカニズムは宇野の内なる断末魔に耐えることが出来ずに、弾倉を半分にしたところで弾詰まりを起こしてしまった。
「くそ、こんな時に!」
 宇野はアッパーレシーバー右側に取り付けられたボルトホワードアシストのノブを押したが、弾詰まりは直らなかった。すると、何処からか飛んで来た81mm迫撃砲の砲弾が近くで炸裂して、爆風と破片が獰猛な肉食動物の牙のように彼の右腕と両足を喰いちぎった。宙を舞った彼の身体はそのまま近くのビルの壁に叩きつけられると、そのまま地面に仰向けに落ちた。落ちた瞬間、宇野は自分の瞳が輝きを失っている事に気付いた。
 何か言う事は無いか?
 あの女の子に止めを刺した時に放った言葉が、宇野の中で小さく反響してそのまま消えてゆく。
クロコダイルⅡA装甲車の兵員室に居た竹森は、無線の受話器をラックに戻すと、近くにあったM933コマンドを手に取り、弾倉を装着して初弾を薬室に送り込んで安全装置を掛けた。
「前に出て戦うのか?」
 隣に居た松井が怪訝そうに尋ねると、竹森は怒りを込めた声でこう反論した。
「当たり前だ!指揮官が部下の前で戦わないでどうする。俺はここまで来るのに多くの部下を死なせた。だからもうこれ以上の死人は出したくない、文句はあるのか!?」
 竹森のあまりの豹変振りに松井は特に口答えする様子も見せず、ただ頷くだけだった。竹森は松井のだらしなさに侮蔑の念さえ思うと、これから起こる事にどう対処すべきか考えた。もうすぐこの不毛な戦いも終わりを迎えるだろう。その戦いが終わる時、自分の戦いもやっと終わりを迎えるのだ。思い返せば、今までの人生の殆どがこんな戦いの繰り返のためだけにあったような気持ちさえする。もしこの戦いが終わった時、自分は何処にたどり着くのだろうか?犯罪者として死刑になるか、それとも何らかの形で罪を償って第二の人生を歩むのだろうか?いや、そんな事はどうでもいい。今は自分に与えられた使命と責任を全うする事が全てだ。その途中で命を落としても、それはそれで運命なのだろう。
 竹森は胸に湧き出る雑念をそこで切ると、戦いに集中するように頭を切り替えた。

 畑を抜けて再び住宅街に戻った英司と綾美の二人は、片側二車線の道路を横切り小さな川に掛かる橋まで来ると、その橋のふもとで少し休憩を取った。戦闘騒音は相変わらず遠くから聞こえてくるが、一時期に比べてかなり静かになった。戦いの終幕がすぐそこまで迫っているのだろう。戦闘に巻き込まれる心配はもうしなくて良いだろうが、綾美にとってはそれよりも英司の容態の方が心配だった。ここに来るまでの道中、綾美は医療機関が無いか必死で探したが、工場や倉庫に密接した住宅街という事もあり、途中で見つけた動物病院跡以外に医療機関と呼べるものは無かった。この橋を越えれば埼玉県から東京都に入るが、それでも状況は変わらないだろう。
「具合はどう?」
 綾美は英司の身体を橋の欄干に寄りかからせながら尋ねた。浮かんでいた冷や汗は既に乾き、黒く澱んだ皮膚だけが彼の表面を覆っている。
「大丈夫、心配ないよ」
 英司は言葉が出来るだけはっきりと綾美に伝わるように答えたが、半濁音を発音する時に少し言葉が伸びてしまった。畜生、こんな所で……と英司は胸のうちで漏らすと、もう百回くらい振り絞った気力をもう一度振り絞って、橋の欄干から立ち上がろうとした。だが足の筋肉に上手く力が入らず、またよろけて今度は四つん這いになるように倒れてしまった。体重が両腕に圧し掛かると、負傷した左腕に稲妻のような痛みが走った。
「駄目よ!無理に動いちゃ……」
「大丈夫、まだ動ける」 
 綾美が悲痛な声を上げても、英司は構わずに強がった。そのまま橋の欄干を支えにして再び立ち上がると、アーチ上に湾曲した橋の坂を登り始めた。既に頭の中は水飴のようにまどろんで、肉体と感覚の繋がりが時々壊れたオーディオから流れる音楽のように飛ぶ。自分を動かす精神力は湯水のように湧き出てくるのに、身体をその通りに動かせない自分に腹が立った。
 そのまま英司はM24のストックを杖にして、足を引きずるように橋の中央までで辿り着いたが、途中で足がもつれ欄干に寄りかかってしまった。こんな所でへばる訳には・・・と再び気力を振り絞って前へ進もうとしたが、どんなに立ち上がろうとしても膝から下に力が入らない。英司は腹の中に溜まった自分への怒りを爆発させたくなったが、そうしようとした瞬間に怒りが消え失せて、身体が鉛の固まりになったように重くなり、引きずり込まれるように倒れそうになる。すると、いつの間にか側に居た綾美が英司の身体をそっと支えて、冷え切った英司の身体を優しく抱きしめた。
「お願いだから、もうじっとしていて」
 綾美の澄んだその声に、英司は人間の温かさを感じた。彼女の匂いと体温がじんわり自分の身体に伝わってくると、英司は自分の行った事が本当は愚かな行為であったのではないかという疑問を始めて抱いた。
「なんでそこまでするの?もっと自分の事を大事にしてよ」
 綾美が少し熱っぽくなった声で続けると、英司も綾美の身体を抱きしめた。
「ごめん。自分一人で勝手に動いて、綾美に心配掛けたなら悪かった。謝るよ」
 英司は無にも近い感覚の中で、独り言のように呟いた。まるで自分という存在を成す輪郭線の一部が消えて、綾美のなかに取り込まれているような気分だ。このまま死ねたらと英司は一瞬考えたが、すぐにその雑念を払った。このまま死んでしまえば、自分は綾美を見捨てて逃げ出したのも同然だ。そんな事は絶対にしたくない。それに彼女の元から去ってしまったら、今の自分に一体何が残るのだというのだろう?
「こちら陸上自衛隊の岡谷。英司に綾美、聞こえるか?」
 英司がぼんやりと空想に耽っていると綾美の肩から提げた個人用携帯無線機に突然連絡が入った。綾美はすぐさまヘッドセットマイクを掴むと、通話ボタンを押してこう答えた。
「聞こえます!そちらは誰ですか!?」
 綾美が浮き足立った様子で答えると、無線の向こうの岡谷は静かにこう答えた。
「俺は陸上自衛隊の岡谷一俊。防衛大学校で山内の同期だった男だ。房人達から君らの事を聞いたよ」
 無線の相手はヘリコプターの中から通信しているのか、音声に混じってローター音とエンジンの高周波音が聞こえてくる。綾美は再び通話ボタンを押して、岡谷に尋ねた。
「房人から?美鈴と政彦は居るんですか?」
「心配しなくていい、三人とも無事だ。今一緒に居るよ。彼らの要望で、今君らが何処にいるかヘリで探している」
 その言葉に、綾美と英司は思わず小さな笑みを漏らした。だが自分達の置かれている状況を見れば、呑気に仲間の無事を祝ってなど居られない。こうしている間にも英司の身体はどんどん衰弱し、意識は遠のいて来ている。
「すぐに来て!英司が負傷して失血の症状が出ているの」
 綾美が敬語で話すのを忘れて叫ぶと、岡谷は冷静な口調でこう答えた。
「分かった、すぐに行く。場所は何処だか分かるか?」
「分からない、でも何処にいるかは言えるわ。埼玉と東京の間を流れる細い川に掛かった橋の上。橋はアーチ状になっていて、その真ん中に居ます」
「了解、それまで持ちこたえろよ!」
 岡谷は無線の向こうに居る二人に気合を入れるようにして叫ぶと、そのまま無線を切った。
「何だって?」
 うつろな目をした英司が尋ねた。
「聞いて、岡谷って人からヘリで私達を探しているって連絡があったの。もうすぐ助けが来るわ。分かれた三人も一緒に居るって」
「そう」
 英司は小さく答えた。もう返事を返すのも一苦労だ。何とかしてこの苦痛から逃れる方法は無いのかなと英司が思うと、今居る橋からそれ程遠くない場所で、大きな爆発音が聞こえた。衝撃波が二人のところに伝わると、英司は気が紛れるかも知れないと思って、爆発音が聞こえた方向に顔を向けた。
 英司が振り向いた方向の先には、産業道路らしい片側二車線の道路の交差点で戦う自衛隊と敵部隊の戦闘が見えた。武装勢力の部隊はもう殆ど壊滅状態で、どうやら退却の準備に入っている様子が伺えた。道路の奥に装甲車が二台停車しているが、あれは撤退する兵士達を乗せるためにやってきたのだろうか。
 すると、その装甲車の脇に、どこかで見たことのあるような男が立っているのに気付いた。英司は鉛のように重くなった腕を動かし、ポケットスコープでもう一度その方向を見ると、装甲車を盾にしてアサルトライフルを撃つ竹森の姿が見えた。その瞬間、英司の中で眠っていた何かが突然弾けて、英司は杖代わりにしていたM24のボルトを引くと、ポケットに残っていた7・62mmNATO弾の実包を薬室に送り込んだ。
「どうしたの?」
 英司の突然の行動に綾美が尋ねた。
「あいつが、竹森が居た。今なら一発で仕留められる……」
 英司が幾らかはっきりとした口調で答えると、寄りかかっていた欄干から離れて膝撃ちの体勢を取った。だが全身の筋肉に十分な酸素が行き渡っていないせいで、構えた銃を上手く固定する事ができない。何とかして銃のブレを押さえようとはするのだが、力の加減が分からないのでブルブルと銃身が小刻みに揺れてしまう。
定まらない射撃姿勢に英司が怒りを覚え始めると、隣に居た綾美がそっと構えていた銃のストックに手を添えて、銃の振動を止めさせた。
「綾美?」
 突然の出来事に、英司は目を丸くして綾美に尋ねた。
「私にも手伝わせて、いつも守られてばかりいるのは嫌だから」
「だからって、人殺しの手伝いなんか」
「いいの、別に」
 綾美は英司の小さな優しさを踏み潰すように、きっぱりと言い放った。
「英司だけに手は汚させない。あなたが背負う罪の十字架を、私も一緒に背負わせて。お願い」
 英司は綾美の狂気とも英断とも形容できないその言葉を、ただ黙って聞くことしか出来なかった。欄干の間を通った微風が、埃で薄汚れた二人の頬に虚しく吹きかかる。
英司は急に綾美から伝わってくる温かい何かを胸に感じて、静かに聞き返した。
「いいの?もしそうすれば、もう二度と人を殺す前の自分には戻れないんだよ?」
「戻れなくても全然構わないわ。これからの自分に何があっても逃げたりはしない。例えこれが地獄への入り口であったとしても、後悔はしない。自分で決めた道だから」
 綾美は静かにそう言うと、英司は静かに頷いた。
「分かった。なら、俺の言う通りに銃を持って」
 英司が一言呟くと、綾美も小さく頷いた。英司は綾美にもう少しストックの銃口側を持つように支持すると、足を使って自分の身体を上手く固定できるように言った。綾美の足が英司の腰の辺りに絡みついて、二人の身体が密着する。血の匂いと女の匂いが入り混じり、互いの息遣いが顔に掛かって髪を微かに揺らす。
「俺が合図したら、静かに息を吐いて止めて」
 英司は綾美に次の動作を指示しながら、相手までの距離と風力を計ろうとした。しかし出血したせいで頭に血が回らず、風の計算がどうしても上手く出来ない。恐らく照準を合わせて引き金を引くだけだろう。相手に命中するかは分からないが、それでも別に構わない。英司は照準を瓦礫の影に隠れている竹森の胸に照準を合わせると、呼吸のリズムを一定にした。
「二秒後に息を吐いて、静かに止めて」
 英司が綾美に囁くと、二人はきっかり二秒後に息をゆっくりと吐き出して、同時に止めた。同じタイミングで脈が二回打つと、英司は引き金に掛けていた人差し指を静かに絞った。その瞬間、ロックされていた撃針が小さな金属音と共に薬莢の雷管を叩き、内部に充填されていた発射薬に火花が飛んで、発射薬は高温高圧の火薬ガスになった。火薬ガスは弾頭の7・62mm弾を押し出すと、鋼鉄の銃身を通って回転しながら空気中に放たれた。
 ドーンというライフルの発射音が当たりに一面に響き渡ると、辺りは死んだような静寂に再び包まれた。

 壊れた瓦礫に隠れながら傷ついた兵士達の援護をしていた竹森は、耳元に銃弾が掠める音を聞くと、自分の右胸に固くて小さいものが突き刺さるのを感じた。固い物体は彼の胸を突き破り、右肺の組織をぐちゃぐちゃに破壊しながら砕けて無くなった。右肺の中に真っ赤な鮮血がたまり、溢れた血が気管を通って口元まで溢れてくる。竹森は撃たれた右胸を左手で押さえながら地面に跪くと、その衝撃で口から血を吐き出した。
「おい、竹森!」
 撃たれた事に気付いた松井は竹森の襟首を掴んで、彼の身体を弾丸の届かない所まで引き摺った。しかし竹森の顔色は悪く、末期ガンの患者のように生気を失っていた。近くに最高の救急医療設備があっても、彼の命は助からないと松井は感じた。
「撃たれたのか?」
 竹森は口から血を吐きながら、松井の肩を握り締めて掠れた声で尋ねた。
「そうだ。だがまだ生きているぞ」
「一発で死ねないのか、虚しいな」
 竹森は諦めきった顔でそう呟くと、目を閉じてこう続けた。
「今まで報われない労働をずっと続けていたような気がするよ。だがそれももうすぐ終わりだ・・・」
「馬鹿言うな、この世に無駄な人生などあるものか。たとえ道をどこかで外しても、必ずどこかで自分の為になる事があるのが普通だろう!」
 松井の言葉に、竹森は笑いながらこう返した。
「そうかな?俺は今までに多くのものを失い、そして奪ってきた。それの繰り返しに何かの意味を見出せるのか?」
「それは今考える事ではないだろう!静かに大人しくしていろ」
 松井は弱音を吐く竹森を叱った。戦争が終わり、社会が混乱を極めてからの彼の人生は堕落し、多くのか弱き者達を泣かせてきた。だがそんな彼でも、もうすぐ命の炎が消えようとしている人間の声を聞くと、急に自分が純粋だった事に戻ったような気持ちになって、急に胸の奥が捩れる様に痛くなった。
「構わんさ、このまま言わせてくれ……」
 竹森は苦しそうに咳き込みながら答えると、頭上に広がる青空に目を向けた。
「俺は人生の半分を戦争にささげて、必死に何かを探していたのだと思う。政治的な思想は自分を何かの立場や状況に追い込むための道具で、本当の目的はそれとは正反対のものだったんだ。だけど、もうそれは手に入らない」
「じゃあ何だったんだ?お前が手に入れたかったものは?それだけ聞かせてくれ」
 松井が彼の手を強く握って尋ねると、竹森は強風に晒されている蝋燭の炎のように弱々しく、こう答えた。
「それは」
 竹森はそこまで言おうとして、竹森は命の炎を燃やし尽くした。松井は握り締めていた彼の右手を静かに離すと、近くで応戦していた兵士に声を掛けた。
「無線機はあるか?」
 松井に声を掛けられた兵士は一瞬戸惑ったような素振りを見せたが、すぐにこう答えた。
「ここに一台だけ残っていますが、何か?」
「早く寄越せ、向こうに攻撃を止めるよう要請するんだ。降伏するぞ」
 松井はそう答えると、彼の元に駆け寄って乱暴に無線機を取った。

 橋の欄干から竹森を狙撃した英司は、竹森が倒れたのをこの目で確認すると、そのまま沈み込むようにして橋の上に倒れ込んだ。銃を構える力はおろか、もう立ち上がる体力さえ残っていない。倒れたときに道路で頭を軽く打ったが、あまり痛いとは感じなかった。
 死期が近いのだろうか?と英司はぼやけてくる意識の中でそう思った。既に肉体は言う事を聞かず、水飴のようにまどろんだ意識だけが自分の言う事を聞いてくれる。やがてその意識も乾いた泥のように固くなり、何も出来なくなって、生命の源である魂が何処かに旅立って行くのだろう。そしてその魂は溶鉱炉のような所へと運ばれ、リサイクルされた後どこかにまた運ばれる。それが死というものであり、輪廻というものなのだろうか。
「英司!しっかり!!」
 綾美の叫び声が耳に入ると、英司の意識が僅かに鮮明になった。綾美の声は例えるなら乾ききった大地に流れた一粒の涙のようなものだったが、固くなった英司の意識を柔らかくするには十分な量だった。
「綾美、どこ?」
 英司は産道から這い出ようとする赤子のような声で、彼女の名を呼んだ。視界はあるが、彼女の姿を見つけることが出来ない。英司が残った力を振り絞りながら右手を挙げ、必死に彼女の痕跡を探そうとすると、その右手を綾美が掴んで、彼の上半身を起こして抱きしめた。
「ここに居るよ、しっかりて!」
 綾美がそう叫ぶと、英司は不思議と安心感を覚えて、小さい頃母親に抱きしめられた時の感触を思い出した。その感触にしばらく浸っていると、振り戻しを掛けるように、綾美が耳元で呟いた。
「意識をしっかり持って!竹森はどうなったの?」
 その言葉が耳に入ると、英司は相変わらず赤子のような感じで口を開いた。
「倒れたよ、撃った弾が当たったかどうかは分からないけれど」
「そう……」
 綾美が英司の意識が繋がるように耳元で囁くと、英司は油が切れたような言い方でこう一言続けた。
「終わったよ。もう何もかも……」
「終わりじゃない!まだ終わりじゃない!!」
 綾美が慌てて否定すると、全てが擦りガラスのようにぼやけた英司の中で、その声が一際大きく反響する。それと一緒に、遠くの空からヘリコプターの爆音が響いてくる。爆音はさらに大きくなり、ダウンウォッシュが彼の顔に吹き付けてくるようになると、迷彩塗装に塗られたUH‐1Jの胴体が、灰色に近い青磁色の空にはっきりと浮かび上がった。 
英司がぼやけた目でヘリを見つめていると、地上一メートルまでに迫った機体の側面ドアが開いて、機内から二人の人間が出てくるのが見えた。
「終わりなんかじゃない。私達にはこれからが本番なんだよ」
 綾美が初めて会った時と同じ声で囁くと、飛び降りた二人の男が担架を持って、二人の元に駆け寄り、大声でこう叫んだ。
「さっき無線に出た岡谷だ!彼の様子は?」
「意識はあるけれど出血が酷いの、急いで!」
 綾美が答えると、岡谷は一緒に飛び降りたメディックにすぐ血液増量剤の皮下注射を打つように指示した。メディックは手馴れた手つきで英司の血圧を測り、ジャケットの袖を切り裂いて血液増量剤のチューブを彼の静脈に突き刺し、そのまま担架に乗せた。一通りの処置が終わると、綾美はメディックと一緒に英司をヘリのキャビンに載せ、最後に残った岡谷をヘリに乗せた。
 岡谷はドアも閉めて機長に離陸するよう指示すると、天井から垂れ下がっているストラップを掴んで身体を固定した。ヘリが上昇し、機体がようやく安定飛行に移ると、機長がキャビンの皆に向かってこう口を開いた。
「生き残った最後の敵が降伏したそうです。戦闘は終わりました」
「そうか、良かった」
 岡谷が感慨深げに呟くと、担架に寝ている英司がジャケットのポケットからひびの入ったUSBを取り出して、岡谷に差し出した。
「これをお願いします」
 英司がおぼろげな声で呟くと、岡谷は英司の握っていたUSBを受け取り、戦闘服の胸ポケットに仕舞って、優しくこう声を掛けた。
「君が英司か、ご苦労だったな」
「ええ、まあ……」
 英司は眠たそうな声で微笑みながら答えた、さっきより気分が良くなったのか顔色が少しだけ明るくなっている。岡谷はその反応に小さな安堵を覚えると、今度は綾美に向かってこう口を開いた。
「君もここまでよく頑張った。色々と大変だっただろう」
「はい」
 綾美が照れくさそうに答えると、キャビンの反対側に居た政彦が担架の英司に向かって、こう言った。
「お帰り、英司」
「派手なデートになったけれど、無事でよかったぜ」
 続けて房人も声を掛けた。
「そういえば、さっき言いたい事があるって言ってたけれど、何よ?」
 最後に美鈴が声を掛けると、英司はあふれ出しそうな気持ちを胸に抱きしめて、笑いながらこう答えた。
「ごめん、ど忘れした」
 その言葉を口にした瞬間、血と消毒液の臭いに満ちた機内に、一面の花を散りばめたような笑い声が響いた。
「ごめんねみんな、折角話しに付き合ってもらっていたのに」
 英司が漏らすと、房人が笑いながら答えた。
「構いやしないさ、どうせ大した事じゃなかったんだろう?」
「そうだった、大した話じゃなかったんだ」
 英司は苦笑いを漏らした。そうだ、本当は話したいことなんて無い。ただ誰かと繋がっている証拠が欲しかっただけなのだ。
「そうしたら、また今度は別の話を聞かせてよ、相手になるからさ」
 美鈴が弾んだ声で呟く。
「分かった、そうする」
「それまでは、寝ながら話しのネタでも考えておくんだな」
 政彦が添えると、英司は小さく頷いた。そして英司は力を抜いて楽になっていると、最後に綾美が彼の手に自分の手を添えて、優しく包み込むように英司に話しかけた。
「良かったね、みんなが居て」
「うん、本当に良かった」
 英司が喜びを心全体で受け止めながら、静かに答えた、彼の受け止めた喜びは目元に涙という形になって現れて、そのまま機内の床に落ちた。落ちた涙の粒は窓から差し込む黄緑がかった春の日差しに照らされて、宝石の原石のような光を放っていた。
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