第92話 沙月の恋の行方

文字数 3,566文字



「沙月さん……」

「ありがとな、信也」

 沙月が微笑む。

「信也くん」

 いつの間にか、早希が隣に立っていた。

「大丈夫?」

「大丈夫って、何が」

「……」

 早希が信也の拳に触れる。

「……早希?」

 信也を見て、早希がほっとした表情を浮かべる。

「よかった。いつもの信也くんだ」

「ははっ、何だよそれ」

 そう言って、早希の涙を指で拭った。

「……信也さん……お疲れ様でした」

「涼音さん……沙月さんを止めてくれて、ありがとうございました」

「私は何も……早希さんが頑張ってくれたから」

「早希もありがとな」

 早希の頭に、信也のぬくもりが伝わる。

「えへへっ」

「しっかし疲れたー」

 信也がそう言って、地面に座り込んだ。

「し、信也くん?」

「大丈夫……ですか?」

「え? ああ、はい、大丈夫です。初めて人を殴ったんで、ちょっと疲れたっていうか」

「そうなんだ。喧嘩、初めてだったんだ」

「俺は痛いことが苦手だからな。人を殴ると、相手も痛いし自分も痛い。こんな無意味なこと、ないだろ」

「なによそれ、ふふっ」

「ふふっ……信也さんらしいです」




「和くん、大丈夫?」

「う……ううっ……」

 沙月が遠藤の元へ駆け寄り、体を起こす。

「和くん……」

「沙月……ちゃん……ひっ……!」

 遠藤が再び尻餅をつき、沙月から後ずさる。

「沙月ちゃん……もう……もう勘弁して! お願いだから許して!」

 その言葉に、信也が大きなため息を吐く。
 沙月がそんな遠藤に微笑む。
 涙が一筋流れた。

「ごめんね……私が死んだせいで、和くんにいっぱい迷惑かけちゃった……私……戻ってきちゃいけなかったんだね……死んでからも和くんに迷惑かけて……苦しませて……」

「……」

「私の望みはひとつだけ、和くんの幸せなんだ……信じてもらえないかもしれないけど、本当なんだ……だから和くん……もう和くんの前に現れないから、安心して」

「沙月さんはそれでいいんですか? 本当にそれで」

「ああ、いいんだ。こんなに和くんのこと、苦しませたんだ。それもこれも、私が死んだせいなんだ。
 そんな和くんが、新しい恋を見つけたんだ。幸せになろうって決意してくれたんだ。だからもういい……それでいいんだ」

 そう言うと沙月は立ち上がり、遠藤に背を向けた。

「ありがとう、和くん……さよなら……」

 大きく息を吐き、沙月は天を仰いだ。




「……待って!」

 そう言って、遠藤がふらふらと立ち上がった。

「……」

「……紀崎さんに怒鳴られて、殴られて……気付いたことがあるんだ。これを言っておかないと、きっと後悔すると思うから……だから聞いてほしい。
 沙月ちゃん、こんな僕を好きになってくれてありがとう!」

「和……くん……」

「勉強教えてくれてありがとう! いつも家に来てくれてありがとう! 結婚を祝ってくれてありがとう! 短冊飾ってくれてありがとう! 死んでからも想ってくれてありがとう!
 僕も沙月ちゃんのこと、大好きでした! ずっとずっと、ずっとずっと一緒にいたいと思ってた!
 あの日、遅刻してごめんなさい! いつも泣き虫でごめんなさい! 頭悪くてごめんなさい! 戻って来てくれたのに、逃げてしまってごめんなさい! お祝いを言ってくれたのに、怖がってごめんなさい! 僕は、僕は……僕は沙月ちゃんのこと、絶対忘れない! だから沙月ちゃんも、幸せになって! 泣かないで、笑ってて! 僕は沙月ちゃんのこと、大好きだからっ!」

 沙月が目を瞑ったまま、静かに遠藤の叫びを聞く。
 そして振り返って微笑むと、愛おしそうに遠藤を見つめた。

「馬鹿……もうすぐ結婚するんでしょ……死んだ人間……ゾンビのことなんか、忘れないと駄目だよ」

「沙月ちゃんはゾンビなんかじゃない! 沙月ちゃんは僕の大切な人なんだ! 好きだ! 愛してる! うわあああああっ!」




「沙月……ちゃん……?」

 涼音の声に、信也と早希が目を見開く。
 沙月の周りに光の渦が現れていた。
 優しくて温かい光。
 沙月がその渦の中に溶け込んでいく。

「沙月さん……」

「嘘……」

 やがて光の中から現れた沙月の姿に、信也も早希も言葉を失った。

 ――ゾンビではなかった。

 長い艶やかな黒髪。憂いを帯びた大きな瞳。真っ白な肌は透き通るようだった。
 沙月が自分の姿に驚き、自分の手を見つめる。
 そして体に触れる。いつもと違う、体温のあるやわらかい感触。

「沙月ちゃん……」

「和くん……ありがとう、私を見てくれて……これで十分……私の恋は今、報われました……」

 信也と早希に視線を移す。

「信也さん……早希さん、涼音さん……ありがとう……今、とっても幸せです……私は早希さんみたいに、想い人と結ばれることが出来なかった……でも、これで満足です……私、戻って来てよかった……」

「沙月さん……」

「早希さん、涼音さん。私の分まで、この世界でいっぱい幸せになって下さい……純子さんと由香里さんにも、ありがとうって伝えて下さい」

「……沙月ちゃん、何を言ってるの……一緒に帰ろ?」

 沙月が無言で首を振る。

「私の想いは報われました……そして終わりました……だからもう、私がこの世界に残る理由はありません」

「そんな……嫌だ、嫌だよ沙月さん」

「早希さん……私の為に泣いてくれるんですね。ありがとう……早希さんに出会えて、本当によかった」

「沙月さん……」

「信也さん……私たち比翼は、みんな苦しんでいます……みんな哀しんでいます……でもあなたならきっと、私たちを救ってくれる、そんな気がします……だから信也さん……後のこと、純子さんたちのこと、よろしくお願いします」

「……分かりました。まかせてください、沙月さん」

「ありがとう……」

「沙月ちゃん……」

「和くん……和くんは真面目で優しい、素敵な男の子だよ。だから自信もって、彼女さんと幸せになるんだよ」

「うん……うん……」

「ふふっ、全く……泣き虫さんなんだから……でもあれだよ。怖がり屋さんなのは頑張って克服してね。でないと彼女さんのこと、守れないよ」

「うん……うん……分かった、頑張る……」

「頑張ってね」

 そう言ってにっこり微笑むと、光り輝く沙月の体が宙に浮いた。

「ありがとう……みんな、本当にありがとう……私、この世界に生まれてきて……そして戻って来て……本当に……よかった……」

「沙月さああああんっ!」

 早希の叫びと同時に、沙月は光の渦と同化し、まるで花火の様に夜空ではじけた。
 まばゆいばかりの光が舞う。
 信也たちが再び目を開けると、そこにはもう、沙月の姿はなかった。

 漆黒の空が静寂に包まれる。

「沙月さん……」

 早希が信也の胸に顔をうずめる。
 信也は早希を抱き締め、

「大丈夫……大丈夫だよ、早希……」

 そう囁いた。




「ここですか」

「はい。近場で助かってます」

 遠藤と共に訪れた場所。
 それは公園から歩いて10分ほどのところにある、沙月の墓だった。

「いててっ……」

「あ、その……俺が言えたことじゃないんですが、大丈夫ですか」

「ははっ、大丈夫です。僕も喧嘩なんて初めてだったんですけど、不思議とすっきりした気分なんです」

「……面目ないです」

「いえいえ、本当に気にしないでください。それより紀崎さん、沙月ちゃんに手、合わせてもらえますか」

「はい。じゃあ失礼して」

 信也が沙月の墓の前で腰を下ろし、手を合わせた。
 隣には早希もいる。

「沙月さん……色々と、本当にありがとうございました。沙月さんの想い、しっかりと受け止めました。これからは俺、もっともっと、比翼荘の為に頑張ります」

「比翼荘……さっき沙月ちゃんが言ってた」

「ええ。そこには沙月さんのように、想い人の為に戻って来た人たちが暮らしているんです」

「そうなんですね……と言うか、紀崎さんって何者なんですか」

「ただの工場作業員ですけど」

「沙月ちゃんだけでなく、他の人たちのことも見えていて、そしてお世話してるなんて……と言うか、今も紀崎さんの隣にいるんですよね、その……奥さんが」

「はーい、ここにいますよー」

 早希が信也の腕にしがみつき、にっこりと微笑んだ。

「あ、いや、だから……遠藤さんには見えてないから」

「はははっ。僕には見えませんけど、でもきっと、お綺麗な方なんでしょうね」

「やだもぉーっ、遠藤さんったら、いくら本当のことだからって、そんな直球でっ!」

「いってぇーっ、だから早希、何かあるたびに叩かないでくれと何度も」

「はははっ、仲がいいようで何よりです」

「遠藤さん、いい顔されてますよ」

「そうですか?」

「ええ。ちょっと痣が出来てますけど……でも本当、いい顔です。それとよければ俺のこと、名前で呼んでください」

「じゃあ僕も……会社のみんなは僕のこと、カズって呼んでくれてます」

「分かりました。じゃあカズさん」

「はい、信也さん」

 そう言って二人、沙月の墓の前で固く手を握り合った。


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