第100話 追懐

文字数 2,109文字



 扉付近に立ち、秋葉は流れる景色を眺めていた。
 私が電車で座らなくなったのも、信也の影響だよね。そう思いながら。

 信也は昔から、電車やバスで座ろうとしなかった。
 口癖のように「俺より疲れてる人優先」、そう言っていた。
 そのくせ、秋葉には座るように促す。そういう所もまた、信也らしいと思っていた。

 信也の笑顔を思い出すと、胸が締め付けられた。
 眼鏡を手にし、懐かしそうに話す眼差しに動悸は高鳴った。

 どうしてこうなんだろうな、私。

 知美の部屋で、信也と久しぶりに話をしたあの日。
 去年の5月。
 私の止まっていた時間は、あの時から動き出したんだ。
 そう思い、小さく息を吐いた。




 5月26日。
 家で一緒に飲みたい。そう知美ちゃんに誘われ、私は紀崎家に来ていた。

「知美ちゃん、信也が来るなんて聞いてない……」

 知美ちゃんは大袈裟に笑い、信也を部屋に入れて去っていった。
 心臓が止まるかと思った。
 これまでも鉢合わせたことはあったけど、部屋で二人きりなんて久しぶりで戸惑った。
 信也も落ち着かない感じで、私の様子をうかがっている。
 視線が気になって顔を上げて……信也と目が合ってしまった。

 ――胸の鼓動が収まらなかった。

 少しだけ言葉を交わしたけど、何を話したのか覚えていない。
 家を出ると、知美ちゃんが外にまでついてきた。

「待った待った秋葉。悪かったって」

「知美ちゃん、その……気持ちは嬉しいよ、本当……でもごめん、無理だから」

「無理って何だよ。いいか、私にとってお前らは、可愛い弟と妹なんだ。二人にどうこうなってほしいとか、そんなんじゃない。ただ……今のままじゃ辛いんだよ。昔みたいに仲良くしてほしいだけなんだ」

「そんな顔しないで。分かってるから」

 そう言って、うつむく知美ちゃんの頭を撫でた。

「でも……今日はごめんね。また今度、誘ってね」

「……分かった。絶対だぞ、秋葉」

「うん……じゃあ、おやすみなさい……」

 あの時の私は、突然のことに戸惑って、何が何だか分からなくなっていた。
 知美ちゃんにあんな顔をさせて、本当に悪いと思った。
 でもね、知美ちゃん。信也と話すには、私も覚悟を決めてないと無理なの。
 私たちの関係は、何年も前に終わってしまったの。
 私が終わらせてしまったんだから……




 7月1日。
 駅前の喫茶店で、初めて早希さんと会った。
 本当は会いたくなかった。怖かった。
 もし、思ってる以上にいい人だったらどうしよう。
 その時私は、早希さんを応援出来るのだろうか。

 私が信也にしたことは、決して許されるものじゃない。
 どんな理由であれ、私は信也の前から姿を消した。

 信也をいない者にした。
 その事実は変わらない。

 なのに……私はまだ、心のどこかで許しを求めていた。
 この前久しぶりに会ってから、また信也と共に生きる、そんな未来を思い描いてしまった。
 妄想はどんどんと広がって。
 気が付くと恥ずかしくなって。枕に顔をうずめた。
 まだこんなにも、信也のことが好きなんだ。そう思った。

 でもこの日、私の幻想は打ち砕かれた。
 知美ちゃんから、

「信也のことが好きな子がいるんだけど、秋葉に会いたいって頼まれてさ。悪いんだけど、会ってやってくれないか」

 そう言われて、目の前が真っ暗になった。
 知美ちゃんは、会ったことがあるって言ってた。とてもいい子だとも言っていた。
 信也も少なからず、その人に好意を持ってる。そう思うと、会いたくなかった。




 知美ちゃんから聞いていた通りの、可愛い人だった。
 今、信也はこの人のことが気になってるんだ……そう思うと、胸が痛かった。

「私、信也くんのことが好きなんです」

 その言葉に、心臓が止まりそうになった。
 分かっていたのに。

 早希さんは、私の知らない信也をたくさん話してくれた。
 朝が弱いのは相変わらずなんだ、そう思って笑うと、早希さんも一緒に笑ってくれた。

 うん……やっぱり笑顔、可愛いな。

 早希さんが語る今の信也。
 止まっていた信也との時間が、どれだけ長かったのかを思い知らされるようだった。
 今の信也はもう、私だけが知っている信也じゃないんだ。
 そして今、信也が見ているのはこの人なんだ。
 そう思うと、今すぐ逃げ出したくなった。

 私には、信也を愛する資格がない。

 早希さんが信也への想いを語る。
 それを聞くことが私の役目。それが私の犯した罪への罰。そう思った。

 早希さんは想像以上にいい人だった。
 こんな私のことを思って、そして心配してくれた。
 私の罪。それを罪じゃない、きっと理由があるはずだ、そう言ってくれた。
 動揺していることを気付かれたくなくて、私は必死だった。
 何度も何度もグラスの氷をかきまぜ、意識を集中させた。

「秋葉さん、信也くんの為に身を引こうとしてる。そんな強さ、私にはない……私は信也くんに愛されたいだけ。そしてそんな風にしか考えていない醜い自分を、信也くんに知られたくない……」

 早希さん。誠実な人だな。
 その言葉を聞いて私は、この人だったら信也を諦められる、そう思った。

 私がここに来る時に思っていたこと。
 いい人だったらどうしよう。
 その不安は当たってしまった。


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