第101話 恋慕

文字数 2,669文字



 7月6日。
 今度は信也からの呼び出しだった。

 早希さんに会ってからの一週間。私は信也への想いを消し去る、そのことに必死になっていた。
 でもそう思えば思うほど、自分の中で信也が大きくなっていった。

 辛かった。

 信也が想いを注ぐ人。それは私じゃない、早希さんなんだ。
 頭では分かっていた。でも、心がそれを拒んでいた。
 信也と一緒にいたい。言葉をかけてもらいたい。
 抱き締められたい。愛されたい。
 考えれば考えるほどに、その想いが強くなっていった。
 手に入らないと分かったから、そう思うのだろうか。
 私のエゴじゃないのか、そう思った。
 でも……止められなかった。

「秋葉。俺ともう一度、やり直さないか」

 そう言われる妄想を何度したか。何度願ったか。




 信也は相変わらず、煙草を吸っていた。
 間が持たないのは分かるけど、それでどうして煙草になるのかな。
 他の物でもいいじゃない。
 私は信也に、健康でいてほしいんだよ。
 なんで分かってくれないのかな。
 そんな思いが口から出てしまった。
 でもおかげで、ぎこちなかった空気が自然になった。
 まるで昔の、私たちみたいに。

「俺な、多分好きな人がいてる」

 信也らしい言い方に、思わず笑ってしまった。

「ふふっ。多分って、何それ」

 でもそれは、私の恋が終わった瞬間だった。
 口の中が乾いて、息が出来なくなった。
 手の震えを隠すのに、必死になった。

 私はもう、信也の隣に立てないんだ。

 体中から力が抜けていくのが分かった。
 甘い幻想が打ち砕かれた私は、その後何を話したのか、よく覚えていない。




「お疲れ」

 信也が帰ってしばらくして、煙草をくわえた知美ちゃんが入ってきた。

「……知美ちゃん、また煙草」

「今日は許してくれって。それで……大丈夫か、秋葉」

「何が?」

「何がって……ああもうっ! 秋葉、もう我慢しなくていいから。信也は帰った、ここにいるのは私だけだ」

「煙草……駄目だって言ってるのに……信也も知美ちゃんも、みんな私の言うこと、全然聞いてくれないんだから……」

「悪かった、悪かったって」

「本当、みんな馬鹿だよ……駄目だって分かってるのに、みんな間違ってばっかりで……」

「そうだな」

「でも……私が一番馬鹿だ……ねえ知美ちゃん、なんで私、あんなことしちゃったんだろうね」

「それはお前」

「違うの。そうじゃなくて……もっと違うやり方、あったと思うの」

「……」

「……やり直したいなぁ……あの頃に戻って、もう一度やり直したいなぁ……」

「秋葉……」

「そうしたら今、信也の笑顔は私だけの物だったかもしれない……ねえ知美ちゃん、お願い、あの頃に戻してよ」

「お前……馬鹿野郎」

「なんで……なんで知美ちゃんが泣くのよ」

「うっせぇよ馬鹿。今日は一緒に泣いてやる」

「知美ちゃん……私……」

「お前も泣いていいんだぞ」

「……私、信也と一緒に……ずっとずっと、信也と……」

「……ああ」

「信也と二人……二人で……」

「秋葉……」

「……うわああああああっ! うわああああああっ!」

「泣け泣けっ! 今日はとことん付き合ってやるっ! 足腰立たなくなるまで、一緒に飲んでやるっ!」

「うわあああああああっ!」




 それから私は、抜け殻のようになった。
 何をしても気持ちが入らず、職場でもみんなに迷惑をかけたと思う。
 時折、フラッシュバックのように信也との別れが蘇り、その度に足が震え、立てなくなった。
 ご飯も喉を通らなくなった。

 そしてある日。私の体は限界を迎え、倒れてしまった。
 お医者さんは、ストレスと栄養失調から来る貧血だと言っていた。
 私は二週間ほどの入院を余儀なくされた。

 その間、知美ちゃんは毎日お見舞いに来てくれた。
 知美ちゃんにはよく、車椅子で散歩に連れていってもらった。

 外に出ると風が気持ちよかった。
 慌ただしい毎日から切り離されたこの場所で。
 私は久しぶりに色んなものを感じることが出来た。

 空の青さ。雲の白さ。
 太陽のぬくもり。
 時間がゆっくりと流れていた。

 病院内の公園で。
 知美ちゃんの肩にもたれかかって昼寝した。
 時折聞こえる子供の笑い声も、心地よかった。

 私は少しずつ、元気になっていった。
 食事も摂れるようになっていった。
 信也のことを思い出す回数も減っていった。
 そして思い出しても、心の痛みが少しずつ、小さくなっていくのが分かった。




 ある時、知美ちゃんが笑いながら言ってくれた。

「結局こういうのって、時間しか解決してくれないんだ。私もそうだった。裕司が死んでしばらくは、今の秋葉みたいになってたと思う」

「私と知美ちゃんじゃ、起こったことが違い過ぎるよ」

「同じだよ、同じ。大好きな人を失うことに、大きいも小さいもないさ。
 私の場合は勇太がいたからな、裕司のことを考える時間も少なくて済んだ。育児に必死になって、夜にやっと考える時間が出来て。ちょっと泣いて。でも疲れてるからすぐに寝て……そんなことを繰り返しているうちに、裕司との別れが過去になっていったんだと思う」

「時間かぁ……でも、そうだよね。私も信也のことを思い出すと、息が出来なくなってたけど……今はそこまで苦しくなくなったと思う」

「だろ? こういうのは考えても無駄、時間しかないんだよ」

「そうだね……」

「秋葉、その……悪かったな、色々と」

「何が?」

「信也のことだよ。私はその……恋ってのは、自分で何とかするもんだって思ってる。だから私は、秋葉にも早希っちにも肩入れしないって決めてた。
 選ぶのも行動するのも自分次第。私に出来るのはちょっとした手伝いだけ、そう思ってた。でも……秋葉、お前は私の大事な妹で、そのお前をこんなに苦しめて……悪かったって思ってる」

「そんなことないよ。その通りだと思う。結局私は、信也に対して何もしなかった。待ってただけの臆病者……頑張った早希さんに勝てる訳ないよ」

「……早く退院してくれよ。お前と飲むのが、私の一番の楽しみなんだからな」

「それで、その……信也と早希さんは」

「ああ、この前引っ越しが終わったみたいだ。今度顔を出す予定だよ」

「婚約したんだよね」

「そうなんだよ。あの馬鹿、くっつくまではウダウダしてやがったくせに、いざ付き合ったら速攻で結婚決めやがった。童貞のテンプレみたいなやつだよ」

「ふふっ」

「入院のことは言ってないから、心配しなくていいぞ」

「うん……ありがとう……」

「あいつら、来年の6月に式を挙げるらしい。早希っちの誕生日なんだってさ。その時は一緒に、信也のタキシード姿見て笑ってやろうな」

「何それ、酷い。ふふっ」

「はははっ」


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