第90話 和くん
文字数 2,877文字
「大丈夫ですか?」
道の真ん中でうずくまる遠藤に、信也が声をかけた。
「あ……ああああっ! お願いです! 助けて、助けてくださいっ!」
遠藤が信也の腕をつかんで叫ぶ。
「……とにかく落ち着きましょうか」
「どうぞ」
「あ、ど、どうも……すいません」
公園のベンチに座った二人。
信也が手渡した缶コーヒーを受け取ると、遠藤は恐縮しながら口をつけた。
「んっ……」
「あ、コーヒー駄目でしたか?」
「は、はい、実は……」
「別のやつ、買ってきましょうか」
「いえ、大丈夫です……というか、実は今、コーヒーの練習中でして」
「練習……ですか」
「はい……実は僕、もうすぐ結婚するんです……相手の人は格好いい人で、なんていうかその……女の人なのに、男前っていうか……朝起きたらまず、ブラックコーヒーを飲むような人なんです。僕は昔から、コーヒーとかお酒とか、苦い物が苦手なんですけど、彼女を見てたらその……これを飲めたら、自分も強くなれるんじゃないかと思って」
「苦手なものに挑戦するのは、いいことだと思いますよ」
「僕、その……こんな感じなので、周りにいつも馬鹿にされてるんです。仕事も営業なんですけど、全然駄目で。このままだと、いつか彼女にも愛想をつかされてしまう。だから頑張ろうって思って……あ、失礼しました。お礼も言わずにこんな話を。
僕は遠藤和弘です。先程は助けていただき、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、笑顔を見せた遠藤。
この人は自分と違い、根っからの善人に違いない。そう信也は思った。
「紀崎信也です。よろしく」
「紀崎さん……本当に助かりました」
「それで、何があったんですか? 道に座り込んで泣いてる人なんて、俺、初めて見ました」
「そうですよね、ははっ……実はちょっと、怖いことがありまして」
「聞かせてもらえますか」
「でも……こんな話、信じてもらえるかどうか」
「大丈夫です。俺も最近色々あって、少々のことじゃ驚かなくなりましたから」
「……さっき僕、結婚するって言いましたよね」
「ええ」
「実は僕には昔、他に好きな人がいたんです」
「……」
「その人……沙月ちゃんって言うんですけど、彼女は幼馴染で、僕たちは子供の頃から家族ぐるみの付き合いをしてたんです。
沙月ちゃんは頭がよくて、可愛くておしとやかで、園芸の大好きな女の子でした。高校に入って僕、いじめにあって学校に行かなくなったんですけど、沙月ちゃんだけは毎日僕の家に来てくれたんです」
「……」
遠藤が話す沙月の話。
今の沙月とは真逆のイメージだったが、不思議と信也は、それを素直に受け入れていた。
最初に出会った時、自分が抱いた印象と似ていたからだ。
「そうしているうちに僕、沙月ちゃんのことをだんだんと意識していって……この人とずっと一緒にいたい、そう思うようになっていったんです」
――信也の脳裏に秋葉が浮かんだ。
そうか……俺が沙月さんと出会った時、他人のような気がしなかったのは、秋葉の姿が重なったからなのか……
遠藤の話は、自分と秋葉の関係に似ている。そう思った。
「それで僕、沙月ちゃんに告白したんです。ずっと一緒にいてほしいって」
「沙月さんはなんて」
「はい、その……喜んでくれました」
遠藤がそう言って、灯りがともった街灯を見つめ、微笑んだ。
「あ……なんかすいません、初めて会った人にこんな話を」
「いえ、こういうのって誰かに言いたくなる時、あると思います。少なくとも遠藤さんにとって、沙月さんは大切な人なんでしょう。ただ、沙月さんのことを話せる人はあまりいない。違いますか」
「そうですね。今の彼女にこんな話、出来る訳ないですし」
「なら今、俺にこうして話してるのは必然なのかもしれません。気にせず話してください」
「ありがとうございます、紀崎さん……沙月ちゃんのおかげで、僕は何とか大学にも行けました。同じところには行けませんでしたけど、でも沙月ちゃん、いつも僕と会ってくれて……毎日が本当に楽しかったです。
こんな日がずっと続く、そう思ってました……あの日までは……」
信也の胸の奥が痛んだ。まるで自分の過去をなぞっているかのようだった。
「あの日……沙月ちゃんとのデートの日、僕、寝坊して遅刻したんです。慌てて待ち合わせ場所に向かったんですけど、そこに沙月ちゃんはいなくて……警察の人がいてて、人がたくさん集まってて……沙月ちゃん、待ち合わせ場所で車にひかれて、亡くなったんです」
「……」
「僕のせいなんです。僕が遅刻さえしなければ、沙月ちゃんが死ぬことはなかったんです。
僕は泣きました。お通夜でもお葬式でも、沙月ちゃんの傍から離れず泣きました。こんな形で沙月ちゃんと別れることになるなんて……そう思ったら、泣くことしか出来ませんでした」
「お気の毒に……」
「……でも沙月ちゃん、僕を許してくれなかった」
「え……」
「ある日、僕の前に沙月ちゃんが現れたんです」
「……」
「怖かった、本当に怖かったです……沙月ちゃん、映画のゾンビみたいになってて……僕を睨んで追いかけてきたんです」
「ゾンビ、ですか」
「はい、ゾンビです……沙月ちゃん、僕のせいで死んだこと、恨んでるんだと思います……それから僕は、いつも沙月ちゃんの気配に怯えるようになって」
信也の中で、様々な感情が生まれては消えていった。
怒り、哀しみ、後悔……それはどれも、自分自身にも通じるものだった。
「だから僕、会社に遅くまで残るようになったんです。少しでも人がいる場所にいたくて」
「でもそれって、帰る時間が遅くなるから、逆効果なんじゃ」
「そうなんです。暗くなった道を歩いていると、余計に怖くなっちゃって。ははっ」
「それじゃ、それからも沙月さんと」
「はい……でも回数は減っていったと思います。なぜだかは分からないんですけど……それで毎日残業している内に今の彼女、上司と親しくなっていって」
「なるほど」
「でも沙月ちゃん、そのことも許せないみたいで。さっき、また僕の前に現れたんです。『私以外の女と、結婚するのか』って」
「……」
「あの顔、そしてあの声……沙月ちゃんは、自分を裏切った僕を許せないんだと思います。紀崎さんが来てくれなかったら僕、彼女に殺されてたかも」
「それで遠藤さん、これからどうするんですか」
「え?」
「いえ、今の話を聞いて思ったんです。あなたは自分が遅刻したせいで、沙月さんを失ってしまった。そして今、沙月さんではない別の人と結婚しようとしている」
「……はい」
「このままでいいと思いますか?」
「……沙月ちゃん、もしかしたら彼女のところに」
「確証はないです。でも今の話を聞いていると、逃げているだけじゃ駄目だと思うんです」
「僕、どうしたら」
「手伝いましょうか」
「え? 紀崎さん、何かいい方法でもあるんですか」
「実は俺も、半年ほど前に妻を亡くしてるんです」
「え……」
「今の遠藤さんの話を聞いていて、まるで自分のことを言われているような気がしてました。自分の不甲斐なさ、そして無力さをね」
「信也くん……」
物陰から見ている早希が、口に手を当てて涙ぐんだ。