第21話 姉、襲来

文字数 1,929文字

 

 信也と早希が、雨の神崎川を眺めていた。

「信也くん、雨は好き?」

「んー、好きと嫌い、どっちもかな。仕事に出る時の雨には殺意すら覚える。でもこうやって、ぼんやりと雨の景色を眺めるのは好きだ」

「じゃあ今って、信也くんにとっては楽しい時間?」

「だな」

「そんな時間、隣に私がいることは?」

「大切な時間だよ」

「あら、随分正直な」

「だって今更だろ。泣き顔見られた後で、見栄を張ってもしょうがない」

「私は嬉しいけど」

「ははっ」

 穏やかな時間だった。
 雨の休日のせいか、道路を走る車も少ない。
 時折聞こえるタイヤの水切り音が、耳に心地よかった。




 その時、古びた金属製の階段を駆け上がる足音が聞こえた。
 その足音は近付くと、家の前で止まった。

「信也―っ、開けてくれーっ」

「え?」

 突然の来訪者。しかも女の声に、早希が思わず声を漏らした。

「おーい信也―、いるんでしょー」

「信也……くん?」

「ええっと……何かな早希さん、そんな怖い顔して」

「誰が来たのか、説明してくれるかな」

「とりあえず落ち着こう。はい深呼吸深呼吸」

「誤魔化さないで。信也くんてば、私以外にも女の人、入れてるんだ」

「だからちょっと落ち着こう、早希さん」

「おーい信也―、お姉ちゃん寒いー」

「え……お姉ちゃん?」

「うん、姉ちゃん。今日こっちの方に用事あるって言ってたから、ひょっとしたら来るかもって思ってたんだ。にしても随分早いな」

 信也が玄関に向かう。その信也の袖をつかみ、早希が不安そうに言った。

「今更なんだけど……私がここにいるの、大丈夫かな」

「何が?」

 こいつは何を言ってるんだ? そんな顔の信也に、早希の方が緊張してきた。
 慌てて髪を手で直し、玄関の前で姿勢を正す。

「いらっしゃい、姉ちゃん」

 扉を開けると同時に、知美が信也に抱きついてきた。

「おーっ! 愛しい弟よ、元気だったか」

「元気だよ」

 知美のつむじを見下ろしながら、信也が笑った。

「こんな時間ってことは、フリマはやっぱ駄目だった?」

「そうだよ、ちょっと聞いてって。こっちが一か月かけて準備したってのに、雨だよ雨。それでもお客は来てくれたけど、やっぱ全然売れなくて。なんか気分も落ちてきたから、早めに切り上げた」

「屋外のフリマで雨はきついよな」

「で、愛しい弟に会いに来たって訳だ。弟よ、もっと抱き着かせろ、匂い嗅がせろ」

「勇太は?」

「雨だし今日は家に置いてきた。一緒に行くって泣いてたけど、母ちゃんがおもちゃ買いに行こうって言ったら喜んでついてった」

「そっか」

「で、私は弟エキスを補充しに来た訳よ」

 そう言って信也の首に手を回すと、ヘッドロックをしてきた。

「ててててっ、痛い痛い」

「会いたかったぞ、可愛いやつめ……って、え?」

 知美が動きを止めた。
 知美の目に、ようやく早希が映る。

「は、初めまして! 私は三島早希、信也さんの職場の部下で……今日は遊びに来ています!」

 全力のおじぎ。口の中がからからに乾いていた。

「……」

 知美がヘッドロックのまま固まった。

「姉ちゃん、痛い、痛いから離してくれって」

「あ……ああ、ごめん……」

 信也のタップにそう言って、知美が力なく手をほどく。
 早希はまだ頭を下げていた。

「信也……これって、どういうこと?」

「どうって、早希が言った通りだけど」

「……早希だぁ?」

「やばっ、しまった」

 信也の声と同時に、再び知美がヘッドロックをきめる。力はさっきのニ倍増し。

「お前、いつから女連れ込む身分になったんだ、ええっ? しかも今、早希って言ったな、言ったよな。あんたが女を呼び捨てにするってことは」

「ギ、ギブギブギブギブ」

「何言ってんだよこのエロ眼鏡、これでも姉ちゃん、力抜いてやってるんだ。本当ならもう一段上げたいのを我慢してるんだから感謝しろ! あ、早希ちゃんだっけ、こちらこそよろしくね。頭、もういいから上げて。私は早川知美、32歳子持ちのシンママ。不肖の弟の姉です」

「はい、よろしくお願いします」

「早希ちゃんって、どこに住んでるの?」

「枚方です」

「おおっ、枚方かよ、いい所に住んでるなぁ。あ、私はこいつの実家、高槻なんだ」

「お隣さんですね」

「だね。それで早希ちゃん、年いくつ?」

「先週で23歳になりました」

「わっかーい!」

「だーかーらー!」

 普通に話し始めた二人に、信也が訴える。

「この手を放してくれって。話は中でいいだろ」

「ああそうだった、あんたのこと忘れてたわ」

 そう言って、知美が無造作に手を放した。

「信也くん、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。こんなの、どこの家庭にもあるスキンシップだから」

「んな訳あるか」

 おおらかな姉、突っ込みを入れる弟。その当たり前のように繰り広げられる姉弟劇に、早希は紀崎家の温かさを感じた。


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