第112話 ありがとな、姉ちゃん

文字数 2,565文字



「信也」

 地面に座り込む信也に、知美が手を出した。

「なんだよ姉ちゃん、顔ぐちゃぐちゃだぞ」

「うっせえ」

「ずぶ濡れのアライグマみたいだ」

「殴るぞてめえ」

「ははっ」

 知美の手を握り、ゆっくりと立ち上がる。

「一人で帰れるか?」

「ああ。目の前だからな」

「そっか。じゃあ私、今日は帰るわ」

「もう殴らなくていいのか」

「殴られ足りないか?」

「いや、それはもう……十分だよ」

「早希っちの声がしたんだ。信也ならもう大丈夫ってな」

「……そっか」

「ああ。正直言えば、まだ半分ぐらいだったんだけどな。今日はこれで勘弁してやるよ」

「これで半分かよ」

「でも信也。秋葉のこと、真剣に考えてやれ」

「……」

「私が最初に聞いたことだ。この話を聞いて、お前はどうするのか。決めるのはお前だ。そして秋葉だ。私はただ、その背中を押しただけだ」

「ああ、分かってるよ」

「早希っちとも相談するんだな。二人でしっかり考えて、結論を出せ」

「ああ、そうするよ」

 足元がふらつき、倒れそうになった。咄嗟に早希が抱きかかえ、何とか踏みとどまる。

「なんだなんだ情けねえ。あれぐらいで」

「あのなあ……姉ちゃんだって拳、大丈夫なのか」

「ん……まあ大丈夫だろ。お前とは年季が違う」

「学生の頃みたいに、まだ喧嘩しまくってるんじゃないだろうな」

「はははっ、喧嘩はもう引退してるよ。裕司との約束だからな」

「そうだな……そうだった」

「んじゃな。帰ったら傷の手当、ちゃんとするんだぞ。顔は氷で冷やせば、月曜には腫れもひいてるだろうよ」

「姉ちゃん」

「ん?」

 振り返った知美を、信也が抱き締めた。

「なんだなんだ、まだ姉ちゃんに甘えたいのか」

「うっせえ、馬鹿姉」

「全く……いつまでたっても泣き虫だな、お前」

「……ありがとな、姉ちゃん」

「おうっ。またいつでも遊びに来い」




「ほんとにもう……こんなイベントがあるんなら、早く帰ってくるんだったよ」

「いやいや、ててっ……突然の緊急イベントだったんだ」

「動かないの。はい、次こっちね……でもびっくりしちゃったよ。由香里ちゃんなんて、ずっと泣いてたし」

「大丈夫かな。帰る時も元気なかったけど」

「うん……私たちって、信也くんから見れば普通の人間でしょ?」

「そうだな。特に早希は」

「でもね、由香里ちゃんとか涼音さんとか……想い人と会えない人は特になんだけど、感情が動くってことがあまりないの」

「そうなのか?」

「うん、そう。毎日毎日、目標もなくただ生きている。しなくちゃいけないこともないし、目標も何もない。長い時間、そうやって生きているとね、すごく感情が平坦になっていくみたいなの」

「……」

「だから今日みたいに、大きな感情がぶつかり合うのを見ると、びっくりしちゃうみたいなの」

「早希は違うよな」

「どうなんだろう。自分ではよく分からない」

「いやそうだろ。だってお前、何かあったらすぐ俺をボコるし」

「あははははっ、何言ってるのよ信也くん。あんなの可愛いコミュニケーションじゃない」

「お前……あんだけハリセン、ボロボロにしといてよく言うな」

「私、幽霊なので。記憶がたまに消えちゃって」

「よし、泣くまでくすぐろう」

「あははははっ、ごめん、ごめんって。まあ、由香里ちゃんなら大丈夫だよ。私もフォローしておくし」

「悪いな、折角旅行から戻って来たってのに」

「怪我人はそんなこと気にしないの。よし出来た」

「ありがとな、早希」

「明日はゆっくり休んで。ほんと、日曜でよかったよ」

「多分それも、姉ちゃんの計算に入ってるよ」

「そうなの? 知美さん、そこまで考えてたの?」

「そういう人なんだ。それにほら、あれだけボコボコにされたのに、どこも折れてない。加減してくれてたんだよ」

「知美さん、何者?」

「ただの暴力女だよ」

「その顔を見てると、笑えないね」

「だろ?」

「ふふっ」

「ははっ」




 布団に入った信也の髪を、早希が優しく撫でる。

「今日はお疲れ様でした。ゆっくり休むんだよ」

「ああ、ありがとな」

「おやすみ」

 早希が電気を消すと、信也は天井を見つめ、混乱する頭を整理しようとした。



 秋葉の真実。自分自身の歪んだ生き方。
 そして、早希のことを。



 知美が最大の愛情を持って、自分にそれを示してくれた。
 もう逃げる訳にはいかなかった。

「信也くん」

 見ると、早希が信也の顔を覗き込んでいた。

「またぁ。目を離したらすぐ考え込んじゃうんだから」

「あ、いや」

「休んでって言ったでしょ。そんな状態で考えても、いいアイデアなんて出ないよ」

「分かってはいるんだけど」

「会社で私に言ってたこと、覚えてる?」

「……どれだろう」

「信也くんのラインに入ってすぐの頃。ラインの生産が目標値に届かなくて、私がどうしたらいいか考えてた時」

「俺、どう言ってた?」

「問題が大きい時とか難しい時は、一旦その場から離れろって。そして距離を置いて、出来るなら違うことに集中してみるといいって」

「……」

「そうしたら脳味噌に余裕が出来て、頭も冷えて来る。そして離れた距離からもう一度見てみたら、案外いいアイデアが浮かぶって」

「……言った気がする」

「要するに、木じゃなく森を見ろって言ったんだよ」

「木じゃなくて森……」

「ひとつひとつの問題は木で、全体が森。木を見てアイデアが出ないなら、森を見て考えろって」

「俺、いいこと言ってるな」

「何それ、ふふっ」

「いやほんと、確かにそうだ……それぞれは独立した木だけど、人生という森の中では同じ存在……うん、そうだな」

「だーかーらー」

 早希が布団にもぐりこんできた。

「考えちゃうのは分かるけど、今の信也くんの頭はぐちゃぐちゃになってるの。そんな時にいくら考えても一緒、いいアイデアなんて浮かばないよ」

「そう……かな」

「そうなんですー」

 そう言うと、頭を抱きかかえて胸に押し付けた。

「ふがふが……」

「だから、ね……秋葉さんのことも、今は一旦置いておこう? また明日、一緒に考えようよ」

「ふがふが」

「私のことも……ね」

「ぷはあっ……はぁ、はぁ……死ぬかと思った」

「ふふっ……さ、寝よ? 二週間ぶりに添い寝してあげる」

「分かったよ、奥様」

「おやすみ、信也くん」

 そう言って額にキスすると、信也を優しく抱き締めた。




 早希の胸の中、まだ信也はあれこれと考えていた。
 だが、早希の匂いに包まれている内に、いつの間にか眠りに落ちていった。


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