第14話 信也の過去

文字数 2,292文字

 

「中学3年の時、親父が出ていった」

「え……」

 信也の言葉に、早希が思わず声を漏らした。

「高校受験を控えた1月のことだった。突然親父がいなくなった」

「どうして」

「浮気らしいよ。朝起きたら、自分の欄に署名捺印した離婚届が置いてあったらしい」

「……」

「母ちゃん泣いてたよ。元々親父はだらしない人間だったんだけど、まさか受験生の息子と、結婚を間近に控えた娘を紙切れ一枚で捨てるとはね。慰謝料も養育費もなし。それどころか、家の貯金まで持っていってた」

「ひどい……」

「まあ、それっきり親父とは会ってないし、俺の中でも親父はいないことになってる。でもあの時、俺の中で何かが壊れた。
 一生あなたを愛します、そんな歯の浮いたことを言って結婚する訳だろ? でも、その誓いを守ってるやつがこの世界にどれだけいる? 守れてないやつの方が多いんじゃないかな。
 ましてや親父みたいに、子供まで捨てるやつもいる。そう思ったら、今まで自分の中にあった価値観や幸福像、全部が吹っ飛んだ気がした。思春期だったしな。
 親父がいなくなった家で、母ちゃんも姉ちゃんもふさぎ込んで。お通夜みたいだったよ。そしたら俺、急に子供の頃を思い出して。
 親父も優しくて、母ちゃんも姉ちゃんもみんな笑ってて……この家にも、そんな幸せな時間が確かにあった。そう思ったら、急に寂しくなって泣いてしまった。
 親父に裏切られただけでもショックなのに、思い出のせいで寂しさまで出てきた。こんな思いをするんなら、初めから幸せじゃない方がよかった、そう思った。
 幸せがあるから不幸を感じる。なら、幸せを感じなければいい。人と別れて寂しいのは、その人と親しくなるから。なら、親しくならなければいい」

「それは違うよ」

 そう言った早希の言葉を制し、信也が続ける。

「金もないし高校受験をやめるって言ったら、大学生だった姉ちゃんに殴り飛ばされた。あんたの学費ぐらい、姉ちゃんが払ってやるって泣きながら言われた。
 姉ちゃん、ずっとバイトしてて、それを結婚資金として貯めてたんだ。その金を俺のために使ってくれた。おかげで姉ちゃん、結婚が3年も後になったんだ」

「……」

「で、高校に入ってしばらくして。飼ってた犬が死んだ。俺たちにとってその犬、カイは大切な家族だった。だからかなりこたえた。
 悲しくて、泣きまくったのはよく覚えてる。そして思ったんだ。出会わなければよかったって」

「でも、そう思えるほどカイちゃんと、楽しい日々を過ごしたんだよね。それも否定するの?」

「極端な言い方になるけどね。でも、本質的な部分ではそう。
 思い出も否定してしまったら、カイが悲しむ。確かにそう思う。でも俺にとって、それぐらい大切なやつだったんだ。親父がいなくなってやさぐれてた時も、カイだけは俺の心を癒してくれた。
 だから俺はもう、誰も好きにならないと決めた。流石に母ちゃんと姉ちゃん、それから姉ちゃんの子供のことは好きだけど、それ以外の人とは深く付き合わないって決めた。
 ――俺を裏切るのは、カイで最後にしたいんだ」

「カイちゃんは信也くんのこと、裏切ってないじゃない」

「俺にとって、俺より先に死ぬことは裏切りなんだ。だって辛いから、寂しいから。
 もう誰も、俺の前からいなくならないでほしいんだ。母ちゃんも姉ちゃんも、勇太も……」

「……」

 早希が小さく息を吐く。

「ありがとう、辛い話を聞かせてくれて……ごめんね」

「いや、俺の方こそごめん。せっかくいい気分だったのに、ぶち壊してしまった」

「信也くんと過ごす時間は、私にとって全部宝物だよ。今日、私は信也くんのことをもっと深く知れた。だから嬉しい。
 でもね、信也くん。今の話を聞いたからって、私が諦めると思う?」

 そう言って早希が、真顔で信也の目を見つめる。

「信也くんはこの3日、人を信じないって私に言い続けてきたんだけど、気づいてるかな」

「何に?」

「信也くん、名前に『信』って入ってるんだよ。名前の力ってすごいんだよ。信也くんがいくら信じないって言っても、信也くんはこれからも、きっと人を信じ続ける。だってそれが、お父さんとお母さんの思いなんだから」

「……」

 そんな風に考えたことはなかった。
 早希の言葉に、無意識に頷いていた。

「それに私、信也くんより先に死んだりしないから。信也くんより健康的な生活をしてるし、何より、お母さんが丈夫な体に産んでくれたから」

 そう言って笑う早希に、信也もつられて笑った。

「参ったな……」

「私の信也くんへの想いは、また大きくなったよ」

「そっか」

 苦笑しながら、信也がリュックの中から小さな石を取り出した。

「あやめちゃんと昼寝する前に、たまたま目についたやつ。結構いいと思ったんだけど、どう?」

 それは早希が握れるほどの大きさの、平たく丸い石だった。

「かわいい……」

「よかった、気に入ってもらえて」

「え?」

「結局昨日、何もあげられなかったからな。そんなので悪いけど、一日遅れの誕生日プレゼントってことで。受け取ってもらえるかな」

 早希は石を両手で握り締め、愛おしそうに微笑んだ。

「しまった……最後の最後にやられちゃったよ、信也くん」




 今、早希に対して生まれつつあるこの感情。これは本当なんだろうか。
 俺がこれまで貫いてきた生き方を、この子は笑顔で吹き飛ばしてくれる。

 彼女といると楽しい。
 それは間違いない。
 でも……
 信也の脳裏に秋葉がよぎる。

「……」

 信也の顔が少し強張ったことに、早希は気づいた。
 まだ知らない闇を感じた早希だったが、今はあえてそのことに触れず、

「ていっ!」

 おどけて信也の額を小突いた。


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