ガイビル

文字数 1,781文字

 連日の大雨もようやく収まったので、部屋に引きこもってばかりいた僕は気晴らしに外に出た。
 雨水に流され表面の埃っぽさが消えた街は何時もよりあか抜けて、差し込んできた日差しが残った水滴を光輝かせている。もうすぐ本格的な夏が始まるだろうと僕は思った。
 僕はそのまま街を進み、住宅街を流れる汚れた小さな川の方へと歩いた。小川にかかる橋の辺りまで来ると、茶色に濁り様々なゴミを浮かばせている川が、水量を増して下流へと流れている。川の側の道路や家の様子を見ると、少し川の水が溢れたのだろうか、住民達が後片付けに追われている。
 その様子を見ていると、とある家の壁に『ガイビルに注意!』と書かれた張り紙があった。何だろうと思って周囲を注意深く見回すと、『ガイビルに注意!』と書かれた同じ張り紙が幾つもあった。
「あの」
 張り紙に書かれた『ガイビル』という言葉に興味を持った僕は、近くの住人の男性に声を掛けた。
「ここに書かれている『ガイビル』って何ですか?」
「ああ、それね」
 住人の男性は間を一つ作ってこう続ける。
「ガイビルって言うのは不幸をもたらす二枚貝みたいな生物だよ。川の奥底に住んでいて、人間に寄生して不幸にするんだ。気を付けなよ」
 男性はそう答えて、後片付けの作業に戻ってしまった。僕は得体の知れない不安と興味を抱きながら、その場を離れた。
 下流に向かって歩いていると、他の場所よりも氾濫が酷かったのか、まだ片付けが始まっていない場所にたどり着いた。川からあふれ出た川底の堆積物の悪臭が周囲に漂い、気分を不快にさせる。すると、黒光りするアスファルトの上で、親指の爪ほどの大きさの二枚貝のようなものが、舌のような物を出して死にかけている姿が見えた。先程の住人が言っていたガイビルとかいう生物だろうか。僕は近付いて、その不幸をもたらすという小さな生物の事を覗き込もうと、身体を屈めて顔を近づけると、その二枚貝は突然飛び上がって僕の顔面に飛びこんできた。
 僕は小さく悲鳴を上げて、その飛びついた二枚貝を払い落とそうした。だが二枚貝はそれよりも早く僕の中に寄生して、僕の中に入り込んでしまった。僕は半ば呆然としながら、自分の中で小さな不幸が蠢く感覚を味わった。
 僕は来た道を戻り、先程の男性が居た所まで戻った。男性はまだ片づけの途中だったが、僕の姿を見つけるなり、やらかしたなと言った表情を見せた。
「ガイビルにやられたんだね」
「はい。何か対処法とかはありますか」
 力なく僕は男性に質問する。
「ないよ。ガイビルにやられたら、もう手の打ちようはない。ポジティブに生きる事を心がけるんだ」
 男性はそう言い捨てて作業に戻った。僕は打ちのめされたようになって、部屋に戻る事にした。


 それから僕の日々は暗く嫌な事が続いた。
 バスと電車を乗り継ぎ仕事に行く事も、彼女と一緒に出掛けて何かをする事も、友人達との飲み会も、何一つ楽しいと思えなくなってしまった。以前だったら何でもないと思っていた事、楽しいと思えた事が、すべての意味を消失してしまったかのように、虚しく実態のない物として捉えるようになった。そうして僕の心は川底の堆積物の様に重く濁っていった。
 空虚で抜け殻のようになった僕は、また部屋を出てガイビルに寄生された小川のある方へと向かった。今度は真夏の日差しが容赦なく照り付けて、生きる物から水分を奪い不快な熱を与え続ける嫌な陽気の日だった。
 僕は例のガイビルが住むという小川まで来た、川を覗き込むと、そこには水草が繁茂し下流へと水が流れ続けるだけの、生産性があるようで本質的には生産性のない光景が広がっていた。
「ガイビルに毒された人じゃないか」
 背後で男の声がする。振り向くとそこにはこの前の住人の男性が立っていた。
「あんたはガイビルに毒されてガイビルになりつつあるんだ。ここから川に入って何もかもガイビルになったらどうだい。俺は生まれてからそんな人間を三人程見て来た。あんたで四人目だ」
 住人の男性に言われるまま、僕は川の中に飛びこんだ。そして冷たく濁った川に身体が解けて行くのを感じて、やがて小さな二枚貝のような存在になった。そして僕は川底の堆積物の中に埋もれて、いずれ誰かに寄生してやろうと思った。

                                     (了)
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