‟顔だけ”

文字数 1,598文字

 休日の朝、スマートフォンで気象情報を調べると今日は前日よりも暑さが和らぐとの内容が書いてあったので、僕は中古で買った二五〇CCのバイクに乗って少し出掛ける事にした。目的地も特に定めず、欲しい物や見たい光景がある訳でもなかったが、暑さを理由に部屋に引きこもっているのもいい加減うんざりしていたので、出掛ける事にした。
 国道を郊外に向かって進んでいると、遠くの方に山が見えて来た。夏の暑さと都市から出る排気ガスによって霞んだその姿は、温暖化と人間活動に対しての思いを仏頂面で眺めているようだ。折角外に出たのはいいが、僕の気持ちは晴れやかにならなかった。
 さらに国道を進むと、目の前に道の駅が見えて来た。道の駅と言っても観光客が目的地として利用するものではなく、長距離ドライバーの為の休憩所に地域の魅力を発信する要素を追加した程度の物に過ぎない。立ち寄って自販機の飲み物を買ってしまったら、それ以外の魅力は消え失せてしまう建物だ。
 僕はバイクを専用の駐車スペースに停めて、自販機に向かって冷たい炭酸飲料を買った。ふたを開けて一口飲み、チリチリした感覚を舌で味わっていると、何かの出展ブース用に用意されたスペースで奇妙な物が展示してある事に気付いた。
 それは観光地などで見かける、記念撮影の為に顔をはめて取る、子ども騙しのような形をした衝立のようなものだった。だが面白いのは、その衝立が表ではなく反対側を向いていた事、そして人間が一人収まる程度のサイズしかなかった事だ。
 興味を持った僕はその衝立におもむろに近づき、頭の部分に開いた穴に顔を入れた。何か奇妙な物が見えるのかと思ったが、変化は何も起こらなかった。何もないじゃないかと思って顔を外した瞬間、背後で声が聞こえた。
「それにご興味がありますか」
 声を掛けられた方向に振り向くと、そこにはマスクをした中年の男が立っていた。興味があると声をかけて来たという事は、この衝立は何かの商品なのだろう。
「反対側を向いて設置してあったから覗いてみたんです」
 僕は理由を素直に述べた。
「そうですか、それはポストコロナの時代を見据えて〝顔だけ〟が映る衝立です」
「なんですか、それは」
 僕は思った疑問を口にした。確かにコロナの時代は人間が誰もが顔を隠す時代だが、その後を見据えて顔だけを映す衝立などあるのだろうか。多少和らいだとはいえ、炎天下の日に付き合う話としてはいい物ではない。
「今鏡でお姿を映しますのでもう一度穴に顔をはめてください」
 中年の男はマスクの下に気味の悪い笑みを浮かべながら鏡を取り出し、正面に向かった。僕は顔をもう一度穴に嵌めて、男が持っている鏡を覗き込む。そこには僕の顔だけが浮かびあがった世界が映り、それ以外は僕の背後の光景しか存在しない世界が広がっていた。僕と言う人間の〝顔だけ〟が映り、後は普通の日常のみが広がる世界。映画のデジタル処理や特殊効果でしか見られないような光景が、僕の目に映っていた。
「面白いでしょう、今度は私がお見せしますね」
 中年の男は僕に衝立から頭を話すように促すと、僕は促されるまま顔を衝立から外し、男と場所を入れ替わった。入れ替わると、そこには男の〝顔だけ〟が浮かびあがった奇妙な光景が広がっていた。
「面白いでしょう。顔を隠す必要が無くなったポストコロナの世界を見越して〝顔だけ〟でコミュニケーションが取れるようにと、地元の商工会が知恵を出し合って生み出したものです」
 中年の男は、世界に顔だけを浮かび上がらせて答えた。確かに顔だけが浮かびあがった世界と言うのは、匿名性とは無縁の世界だろう。顔だけが浮かびあがた匿名性と無縁の世界と言うのは、民族や人種、宗教に性別さえ超越する物かもしれない。
「いずれはこの街から、世界に向けて発信したいと思っております」
 中年の男は顔だけを世界に浮かび上がらせて笑顔で語った。

(了)
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