柿の実が落ちるまで。

文字数 6,247文字

 今年一番の寒気が流れ込み、各地で冬の到来を告げるでしょうと気象予報キャスターが語った日曜日の朝、僕はハーレーダビッドソンのダイナストリートボブの後ろに奥さんとなった綾香を乗せて、埼玉にある実家に向かった。住んでいる家の上空は青空が無く灰色に覆われていて、気象予報キャスターが言っていたように空気が寒かった。
 国道一二二号に掛かる新荒川大橋を渡りながら空を見上げると、北の方にはたっぷりと冷気と水分を含んだ雲が、山々の方を覆っていた。僕の実家がある地域は大丈夫だろうが、栃木や群馬の山の方では雪が舞うかもしれない。そうなったらバイクで行ける場所も限られて、都内や下道で行ける範囲に限られるだろう。
「やっぱり冷えるね」
 埼玉の川口に入る手前の信号で、僕の後ろに乗る綾香が呟いた。彼女も僕と同じハーレーダビッドソンに乗る人間だから、冬場に身体一つでバイクに乗る過酷さは理解していた。だからこそ、バイクでの実家訪問に反対はしなかったのだ。
「まあしょうがないよ、冬がなくなってしまう方が問題さ。途中寒かったらコンビニでも立ち寄ろうか?」
「大丈夫。目的地まで走っても平気よ」
 綾香はそう答えてくれたので、僕は構わず進む事にした。川口市街を抜け、十二月田の交差点を超えて、外環や首都高が交差する川口ジャンクションに差し掛かる。もうすぐ浦和の料金所が近いなと思って、道路上に設置された高速道路情報の掲示板を見ると「浦和から岩槻、事故のため通行止め」という文字が、熟した柿の実と同じ色で表示されている。通行止めになったという事は、死亡事故が発生して現場検証を行っているという証拠だ。事実を知った僕は気が重くなった。
 そのまま国道一二二号線を進み、混雑する浦和の料金所を近くの道路を超えると脇道にそれて、田畑や中古車販売店などが立ち並ぶ地域を進む。農作業を終えた車両が残した乾いた泥が、舗装のアスファルトのあちこちに残っていた。トラクターのタイヤの形に残った泥の後を見ると、地元に帰って来たのだという実感が湧いた。
「すっかり秋だね」
 実家に通じる道路の最後の信号待ちで、また綾香が呟いた。彼女は生まれも育ちも東京二十三区内の人間だから、自分の周囲にある草木や土が季節によって様々な表情を見せるのが新鮮に映るのかもしれない。
「ガキの頃は、水たまりの氷とか霜柱をよく踏みつけたりとか、カマキリの卵や蝶の蛹をよく見つけたものだよ」
 僕は子どもの頃の小さな記憶の断片をつぎはぎした言葉を返した。もう決して戻る事の出来ない時期の記憶だった。
「そうなんだ。あそこの木になっている柿の実とか食べたりしたの?」
 綾香は交差点近くの自動車を解体して使える部品を取り出す工場の、いくつもの赤い実をつけた柿の木を指さした。赤く色づいた柿の実は、何も汚れた事を知らない子どもの笑顔のように無邪気で可憐だった。綾香からすれば食べ物を宿した木にしか見えないだろうが、僕には郷愁を誘う情景の一部だった。
「ああいうのは勝手に食べたりしないよ。他人様の物だから」
 僕は簡単に答えておいた。
 農耕車が付けた泥が残る道路を少し進み、東北自動車道近くに建つ平屋が見えてきた。僕が専門学校を卒業して就職するまで過ごした。まぎれもない実家だった。
 生垣をバイクで潜り、玄関先のスペースに入る。かつては茣蓙を引いて季節に応じた農作業をやったと、祖父母が白黒写真を見せながら説明してくれた場所だ。そんな歴代の家族の思い出が残っている場所に、外国製のオートバイで乗り付ける僕は、一族で一番チャラチャラした都会かぶれの人間かもしれない。
 サイドスタンドを出してエンジンを切ると、引き戸になっている玄関に人影が移った。ガラガラという音がして、ガラス戸から人が現れる。義理の妹である杏奈だった。
「ああ、慎太郎さんに綾香さん。いらっしゃい」
 杏奈は朗らかな様子で僕と綾香を出迎えてくれた。弟の伸志とは二年前に結婚したが、まだまだ子どもはいなかった。
「久しぶり、伸志さんは居る?」
 最初に声を掛けたのは綾香だった。こういう時は同性同士の方がフレンドリーに会話できるという事を僕は経験から知っていた。
「いま、買い物に出かけています。バイクで来たから寒かったでしょう、部屋は温かくなっていますよ」
「ありがとう。早速上がらせてもらうよ。親父に線香も上げたいし」
 僕はそう答えて、実家の敷居をまたぐ事にした。
 家に上がって廊下を進むと、僕は父の位牌がある仏壇に手を合わせて線香を上げた。次に綾香が手を合わせると、綾香は小さくこう語った。
「初めまして、慎太郎さんの伴侶になりました綾香と言います。これから私たちをお空から見守ってください」
 綾香が小さく語った言葉は可愛らしく、ファンタジー作品に登場する見習い魔法使いの言葉を思わせた。父が生きていて目の前で同じ口調で話したら、僕の伴侶にしてはちょっと頼りない相手かもしれないと思ったかもしれないだろう。
 父への挨拶が終わると、僕たちは電気炬燵に足を突っ込んだ。畳敷きの部屋の中で、電気炬燵に足を突っ込んで暖を取る。秋から冬に変わる日本の原風景だ。炬燵の上の籠には蜜柑の代わりに四角い柿が置かれて、その原風景に彩りを添えている。
 炬燵に足を突っ込んだ綾香が物珍しそうに周囲を見回して、窓の外に何かを見つけた後、再び炬燵の中心に視線を落とした。
「これはあの柿の木の実なの?」
 綾香は炬燵の上の籠に入った柿を見て何気なく呟いた。僕たちがいる居間からは、家の敷地にある畑全部が見渡せ、その端、ちょうどこの家から最も遠くなる場所に柿の木が立っていた。その事実に気づかれた杏奈と僕は、ちょっと気まずくなった。
「いいえ、これはスーパーで特売だった栃木産の柿よ」
 少し上ずった声で杏奈が答えた。
「あそこの木のじゃないの?」
「あの柿の木の実は食べてもおいしくないんだ。それに、あの木は元々は土地の境界線用に植えられた物で、食用とは別なんだ」
 僕は義理の妹である杏奈に助けを出すべく、簡単な事実を説明して納得させた。僕の言葉を聞いた綾香は「なあんだ」とつまらなそうな言葉を漏らした。
「そういえば今日二人はバイクで来たけれど、なんで?」
 話題を変えるべく杏奈が急に切り出した。
「本当はそれぞれのバイクで来るはずだったんだけれど、綾香のバイクは今修理に出ているんだ」
「綾香さんもバイク乗っていらっしゃるんですか?」
 意外そうな様子で杏奈が訊いた。
「ええ、慎太郎と同じハーレーダビッドソン。私のはスポーツスターの一二〇〇CXロードスターっていう、ちょっと新しめのやつですけれど」
「でも大型バイクの免許を持っているなんて憧れちゃう。それも二人そろってなんて」
「まあ、知り合ったきっかけがハーレーだからね」
 僕は照れ臭く答えた。ぎこちない和やかな空気に周囲が包まれると、家の玄関が開く音が聞こえた。
「帰って来たかな?」
 あえて僕は声に出して、弟の伸志の帰宅を感じ取った。そして居間の襖が開くのを期待して待っていると、襖が開いて買い物用のマイバッグを持った伸志が姿を現した。
「ああ、兄貴に綾香さんも。いらっしゃい」
「ただいま」
 僕は伸志の目を見て小さく答えた。実家に帰ってきたから「ただいま」という表現を使ったが、どこか違和感があった。
「お昼の買い物に行ってきたんだ。近所の直売所で産直野菜の安売りをやっていたから。兄さんたちにご馳走する分の材料とか買って来たんだ」
「何を買って来たんだ?」
 僕は伸志に質問した。
「今年の相撲が終わったから、鶏の塩ちゃんこ鍋とサンマのから揚げもあるよ」
「すごい、豪華」
 綾香が少し驚いたように答えた。僕は炬燵から立ち上がって「手伝おうか?」と伸志に訊いた。
「お願いします。女性陣にはテーブルセッティングをお願いしようかな」
「私がやるわ」
 伸志の言葉に応えたのは杏奈だった。兄弟である僕と伸志にはともかく、完全な他人である綾香の手を煩わせる訳にはいかないと思ったのだろう。
「じゃあ、さっそく始めようか」
 作業開始の号令をかけたのは伸志だった。僕は伸志と共に台所に向かった。
 台所に入った僕たちは、伸志が買ってきた食材を作業台の上に並べた。ちゃんこ鍋の食材として伸志が買ってきたのは、白菜、タマネギ、大根、ニンジン等の野菜類に、エノキと里芋という季節の素材に、油揚げ。メインの鶏肉は冷蔵庫にあるのだろう。伸志は台所のガス台の上に置かれた土鍋に火をつけた。中に出汁を取るための昆布が入っているのだろう。僕がこの家に住んでいた子ども時代は、この鍋で様々な鍋を食べるのが冬の小さな楽しみだったのを覚えている。
「母さんの様子はどう?」
 僕は伸志に質問した。
「グループホームではうまくやっているようだよ。時々差し入れを持ってゆくと喜んでくれるよ」
「そうか、それなら安心したよ」
 僕は小さく呟いた。僕と伸志を育てた母も、父が死んでから急に弱々しくなり、「迷惑がかかるから」と言って自分からグループホームに入ってしまったのだった。
「兄貴は野菜の皮むきを頼むよ」
「ああ」
 伸志に促されて、僕はニンジンと大根の皮をむくべく、皮むき器を手に取った。皮むき器の歯を大根に当てて手前に引くと、シャッという心地よい音と共に皮がむけた。むいた大根の表面からは瑞々しい香りが鼻先に漂ってくる。
「そういえば、今日はバイクで来たんだよね。大丈夫だった?」
「だいじょうぶさ」
 心配そうに質問してきた伸志に、僕は余裕を持って答えた。
「途中何か事件とかは無かった?」
 思いつめたような口調で伸志がまた質問してきた。僕は余計なごまかしはしたくないと思い、遭遇した事実を正直に話そうと思った。
「来る地中、東北自動車道で死亡事故があったよ。それくらいかな」
「そうか。じゃあ、今日あたり柿の木の下に来るだろうな」
 どこか諦めたように、伸志は呟いた。
「どんな人間が出てくるだろうね?」
「偏屈な老人ではない事を祈るよ。最近はそういう人間が良く死んで、呻くような不満を漏らすから」
 伸志は苦笑い混じりに答えたが、その本心が笑っていない事に僕は気づいていた。僕は皮をむき終えた大根の先端部と葉の部分を包丁で切り落とした。切り落とした葉の部分は削り節と一緒にゴマ油で炒めるのに使うから残しておくのが我が家の習わしだった。
「あまり偏屈な人間じゃないといいな」
「そうでもないよ、事故で死んだ人間というのは未練を残しているから」
「そうやっておかしくなってしまう人間の魂を慰めてやるのが、お前の務めだろう」
 僕は伸志に与えられた使命の事を端的に語った。

伸志が五歳の時、家の敷地の端にある落ちた柿の実を取って食べてしまったのだ。そうしたら当時生きていた祖母が血相を変えて僕達に大声でこう言った。
「この柿の木はね、あの世とこの世の境界線になっている気なんだよ。この近くで死んだ人間は木にやってきて、未練を柿の実に託してこの世とお別れをするんだよ」
 幼い伸志は祖母が言っていた事を理解できない様子だったが、祖母はすごい剣幕でこう続けた。
「お前は未練が詰まった柿の実を食べてしまったから、この世に未練を残さないようにするお手伝いをしないといけないんだよ。柿の実が落ちるまで、お前は死んだ人の相手をするんだよ」
 いつもとは違う様子の祖母に伸志は事の重大さをようやく察したのか、次第に表情が歪んで涙を流し始めた。
 その次の日から、伸志は敷地内に立つ柿の木にやってくる死者の魂が見えるようになってしまった。まだ五歳の幼子だった伸志にはあまりにも辛く、過酷な現実だった。
 秋が深まり、柿の実が色づく頃に集まってくる死者の大半は、物分かりが良く幼い伸志にも優しく接してくれる人間が殆どだったが、中には意地悪な人間もいた。
「何だよ、最後に話すのはお前みたいなガキかよ」
 飲酒運転で原付バイクに乗ってガードレールに衝突し、首が切断して死んでしまった七十過ぎの老人は、赤ら顔でまだ幼い伸志に罵声を浴びせていた。亡霊となり、首が取れかかった状態で幼い伸志にいろいろと語るのは、恐ろしくもあり、また滑稽でもあった。
 中には伸志がまだ幼い子どもであったからか、この世から離れる前に自分が生きてきた経験や、一人の人間として今後起こる事を、〝全身を強く打った〟状態の中間管理職の人間が語った事もある。
「君はこれから勉強や仕事、他人との関わり合いについて壁にぶつかり、つまずく事もあるだろう。私はこんな状態になってしまったが、去り行く者の最後の言葉だと思って聞いて欲しい」
 その中間管理職の男性は〝全身を強く打った〟状態で伸志に語った。バラバラの人間が大切な事を話すのはギャグ漫画の一コマを思わせるが、話す方も聞く方も集中していたので、奇妙な真剣味があったのを覚えている。

 それから二十年間、伸志は柿の実がなって地面に落ちるまで、この地域一帯で死ぬ人間の未練の聞き手を引き受け続けている。伴侶となってくれた杏奈もその事を理解してくれていて、伸志が柿の木の元で死者と話す行為に対して何も気にかけてはいない。というか、この柿の木がなる家に住む人間には、やってくる死者が見えるようになってしまうのだ。
 大根とニンジン、里芋の皮をむき終えると、僕は近くにあった小さな鍋を手に取り、里芋と水を入れて火にかけた。里芋は灰汁が強いから、下茹でしておく必要があった。
 隣で作業する伸志は野菜を切り終えて、手に入ったサンマのから揚げの準備に取り掛かる様子だった。ぶつ切りにして下味をつけたサンマに衣を付ける。後は中華鍋に油を張って温め、こんがりと揚げれば完成だった。

 サンマのから揚げが上がり、そのあと塩ちゃんこ鍋の準備が終わると、僕と伸志は作った料理を灯油ストーブで暖かくなった居間に持って行った。食器や橋を並べ終えた綾香と杏奈の二人の表情は緩んでおり、義理の姉妹同士で親交を深められたのだろう。香ばしく上がったから揚げと塩ちゃんこ鍋の匂いが二人の鼻先に漂ってくると、二人は小さく嬌声を上げた。
 それから僕たちは塩ちゃんこ鍋とサンマのから揚げを食べながら、楽しい時間を過ごした。僕と綾香がバイクで来たことを配慮したのか、伸志は今日のために買った瓶入りのノンアルコールビールを振舞ってくれた。
 食事が終わると、僕は外の空気が吸いたくなり部屋を出た。綾香は伸志や杏奈と会話をして「普段から伸志さんは料理するの?」などと質問していた。
 僕は家の外に出て、広がる実家の畑に出た。僕が祖父母と一緒に住んでいた頃とほとんど変わらない光景が広がっていたが、その光景を眺める僕という人間は大きく変化してしまっていた。
 歩いて実をつけた柿の木の近くまで来ると、小さい男の子を連れた母親が柿の木の下に佇んでいた。
「あなたたちは……」
 僕が声を掛けると、気づいた母親は僕を見て申し訳なさそうこう答えた。
「はい、先程浦和と岩槻の間で…とりあえず、柿の実が落ちるまでここに居ろと言われてきました。あなたこの家の住人ですか?」
「いえ、僕の弟が住人です。柿の実が落ちるまでのお相手は、弟がします」
 僕が素っ気なく事実を話すと、母親は物憂げに俯いた。境界線に立つ柿の木は赤い実をつけ、うなだれたようにその枝を寒空に垂らしている。自然に落ちるまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。

(了)
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