河原にいたもの

文字数 3,392文字

 浅草に住んでいる学生時代から好きな作家のインタビューを録音しながらメモしていると、その作家は「この話題は関係ないのだが」と一言断って、こう続けた。
「取材で地元の人に聞いたんだがね、今くらいの季節になると、河原に現れる亡霊の話を多摩地域の人から聞いたんだ」
「どんなお話ですか?」
 僕は仕事のインタビューとして聞いていた思考を、作家の一ファンとしての思考に切り替えて答えた。
「少し前にお盆だっただろう。お盆は先祖が戻ってくる時期だが、実は家に戻れずさまよう霊が居るんだ。いろいろな事情があったせいでね」
「そうですか」
 僕は間抜けな会社員がするような相槌を打った。本当は家に戻りたいのに、憎まれているか他の理由で先祖として振舞えない霊など、考えてみればかなり居そうだ。
「その霊というのはね、帰りたいが帰れないもどかしさを紛らわすために、河原に集まるそうだよ」
「なるほど」
 僕は再び同じ返事を返した。
「そうして恨みを語り合った後、近くに立ち寄った幸せそうな生者を連れて行ってしまうそうだよ。あの世へ」
 作家の先生は少し得意げに語った後、傍らにあったアメリカンスピリットに手を伸ばして、一本加えて火をつけた。一応僕も喫煙者で、高校時代からラッキーストライクを愛用していたが、目上の人の前では吸わない事にしていた。
「ホラー小説のネタになりそうな話題ですね」
「確かにね。でも君は若いのだからホラーより異世界転移が良いんじゃないのかい?」
 その振りに、僕は苦笑いで答えた。確かに今の流行に乗るならば異世界転移系のシチュエーションが受けるだろうが、僕には興味があるジャンルではなかった。

 取材を終えて帰宅し、今日のインタビューを文章にして清書前の段階まで書き上げると、使っているノートパソコンにインストールしたLINEがメッセージの着信を報せた。メッセージを開くと、車検とタイヤ交換に出していたYZF‐R6が仕上がったと、馴染みのバイク屋からのメッセージだった。僕は午後五時に引き取りに行く事、支払いはクレジットでしますと返信を送った。
 余った時間で少しだけ清書らしきものをした後、僕は家に置いてあるアライのフルフェイスヘルメットを手に取り、帰宅ラッシュで混雑するバスに乗ってバイク屋に向かった。
 日が暮れるのが早くなって気温が下がり、吹いてくる風が秋らしくなってきたなと思いながらバイク屋に向かって歩いてゆくと、僕が車検とタイヤ交換に出したYZF‐R6が、預けた時よりもきれいになって作業場の入り口近くに駐車してあった。
 僕は店内に入り「ごめんください」と前置きした後自分の名前を名乗った。
「ああ、○○さん。ありがとうございます」
 答えてくれたのはこのお店に入って二年目のD君だった。
「車検とタイヤ交換は全部終わりました。タイヤはご注文通りのピレリのディアブロロッソⅣにしておきました」
 D君はバイクに行ってくれた施術を一通り説明してくれた。
「ありがとうございます。他に以上とか不具合とかはありませんでしたか?」
「特にないです。ただブレーキパッドはだいぶ減っていたので、いずれ交換は必要かなと思います」
「わかりました。その時はまたよろしくお願いします」
 僕はそう答えて、クレジットカードで掛かった費用を支払った。D君は国道沿いの店の入り口までバイクを押し出してくれた。
「タイヤが新品ですから、一〇〇キロくらい走るまでは無理しないでくださいね」
「わかりました。それじゃあまた」
 僕はフルフェイスを被ってバイクに跨り、キーをオンにしてエンジンを掛けた。ウィンカーを出して国道へと走り出すと、今度の休みはタイヤの皮むきも兼ねてちょっと走りに行こうと決めた。


 休日、僕は車検を取りタイヤも新しくなったYZF‐R6に跨り、多摩方面に出掛ける事にした。何か行ってみたい場所が有るわけでも、欲しいものが売っているお店が有るわけでもない。ただ新しくなったバイクと一緒に出掛けたくなっただけだ。
 空は雲が多かったが青空が見える晴れだった。僕は首都高から中央道に入り、八王子インターで下道に降りる。国道四一一号線を進むと、地方都市のような建物が大きくて空が広い光景から、山の隙間から青空と雲が見える東京とは思えない光景になってゆく。その変化が僕にとっては楽しいし、面白かった。
 本格的な山坂道に入る途中のフルサービスのガソリンスタンドで、ハイオクガソリンを一〇〇〇円分だけ入れた。昨今のガソリン高騰を踏まえての金額だったが、高速を走っていたせいかほぼ満タンになった。
「これから山の方に行くのですか?」
「はい。そうですが」
 不意に質問してきた初老の店主に、僕は素直に返事をした。店主の顔をフルフェイスのスクリーン越しに見たが、何か言いたげな事をすぐに引っ込めた様子だった。
「なにかあるのですか?」
「いいえ、このシーズンはまだ川遊びの家族連れの車とか多いですから、気を付けてくださいね」
「どうも」
 僕と店主は歯切れの悪い会話をした後、料金を支払って再び走り出した。
 スタンドで交わした店主の言葉通り、山の間をつなぐ細い道路は家族連れのファミリーカーや、友達同士で川遊びに来た「わ」ナンバーのレンタカーなどで込み合っており、タイヤの皮むきをするために積極的にバンクさせるような道路状況ではなかった。
 なんとも言えないもどかしさを感じた僕は、どこか適当な場所に立ち寄って小休止し、SNSにアップする写真でも撮る事を思いついた。
 僕は車で混雑する二車線の山道を逸れて、地元の人たちが利用するであろう、ひび割れた舗装の狭い道に入った。道路は全幅一八〇〇ミリの車が辛うじて通れる程度の道幅しかなく、両脇にはガードレールも設置されていない。こういう所で事故を起こすと、救急車が駆けつけるのに一時間以上かかってしまうから、無謀な運転はできなかった。
 五分ほど走ると、清流が道路と並行して走る場所に入った。集合管から出る排気音越しに、澄んだ音が聞こえて来る。僕は通行の邪魔にならない場所にバイクを寄せて停め、エンジンを切った。
 バイクを降りてヘルメットを脱ぐと、ひんやりと湿った森の空気が僕の頬を撫でた。考えてみれば途中ガソリンスタンドに立ち寄った以外、ほぼノンストップでここまで来てしまった。心地よい空気に触れる肌の面積が増えると、程よい疲労感と共に力が抜けてゆく感じが合わさって、自分の肉体がニュートラルなってゆく気がした。
 僕はバイクから離れ、石が敷き詰められた河原に向かって歩いた。丸く大小様々な河原の石はライディングシューズで歩く場所には向かなかったが、しょっちゅう訪れる場所ではないので構わなかった。
 僕は水辺まで近づき、清らかな音を立てて流れてゆく川面を見た。川の水は澄んでいたが、木々の影になっているところは仄暗く、潜れば別の世界につながっているような気がした。その瞬間、先日話した老作家の話が僕の中に浮かんだ。お盆を過ぎた時期、先祖として戻れなかった霊が河原に集まり、幸せな人間を不幸にするという話を。
 小さな戸惑いを感じた僕は周囲を見回したが、特に変化は無かった。
 くだらない話を思い出して怖くなり、周囲を見回してしまうなんて馬鹿じゃないのかと、僕は思うと、河原から離れて再びバイクに跨った。
 狭い道を進むと、中央線が走る道路にぶつかる小さな交差点に出た。僕はそこを左折して、埼玉方面に向かった。
 埼玉方面に向かう山道は比較的車の数が少なく、舗装も良かった。ハイペースで走ってバンクさせられるなと判断した僕は、アクセルを少し強めに開けて加速し、先ほどよりも早い速度で侵入し、後輪から前輪の順番でブレーキをかけてバイクをバンクさせた、バンク角が深くついて、ステップのバンクセンサーに路面が接触するかと思った瞬間、後輪のグリップが抜ける感触が僕の尻に伝わり、逆らえない物理法則の力によって僕は滑るように転倒した。そして気が付くと、僕の乗っていたYZF‐R6は、横倒しになって反対車線にいた。
「タイヤの慣らしが不十分だったか」
 僕は引き取ったバイク店のD君の言葉を思い出して、恥ずかしさと自分への怒りが込み上げてきた。そして何とか起き上がろうとすると、僕の背後に一台の国産乗用車が速いスピードで迫ってくる気配があった。

(了)
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