底の見えない水たまり

文字数 1,193文字

 私は底の見えない水たまりが怖い。
 その理由は簡単だ。底の見えない水たまりは自分達の住む世界とは別の世界と繋がっていて、人間を別の世界に引きずり込んでしまうからだ。事実として私は底の見ない水たまりから人が連れ込まれる光景を見たことがある。


 最初にその光景を目撃したのは、私が四歳の頃だ。雨が止み近くの公園に一人で行った時、近所に住むコウジ君が、公園の地面に出来た水たまりを踏んで、バシャバシャと水たまりを踏んで遊んでいた。コウジ君は私の姿を見ると、こっちに来て一緒に遊ぼうよと手招きしてくれた。私は彼の元に駆け寄ったが、コウジ君は水たまりから現れた人間の手のような物に掴まれ、水たまりの中に引き込まれてしまった。私は彼の名前を叫んで後を追い、水たまりの中を覗き込んだが、まるでコウジ君が最初から存在しない人間であったかのように、何もなかった。私は家に帰ってコウジ君が水たまりの中に引き込まれた事を家族に話したが、家族のだれもコウジ君と言う人間は知らないと言って、取り合ってくれなかった。

 次に見たのは、中学三年生の修学旅行で京都に行った時だ。雨上がりのあと、曇り空に映る金閣寺を砂利の敷かれた庭園から見ていると、クラス公認のカップルであった加藤と芝崎の二人が、背後にあった横長の底の見えない水たまりから現れた触手なようなものに掴まれて、悲鳴を上げる事無く水たまりの中に消えてしまったのだ。私は二人の名前を叫んで、水たまりに駆け寄ったが、波紋一つない水たまりは私の顔と銀色の空を映すだけで、何の変化も無かった。異変に気付いた一人の男子生徒が私の傍らに駆け寄って来たので、私は引き込まれた加藤と柴崎の事を話したが、彼はそんな光景は見ていないし、加藤と柴崎という生徒などいないと答えた。姿だけでなく存在すら消し去ってしまう水たまりの恐怖に、私は正気で入れられなくなった。

 それ以来、私は雨の日に出来た水たまりを直視できない人間になってしまった。水たまりが出来ると、必要以上の恐怖を抱く私は社会の和を乱す存在とみなされ、高校を一年で辞めさせられて何処かの施設に入れられた。施設の窓からは、外で雨が降っている様子は確認できるが、水たまりを覗き込む事は出来なくなっていた。しかし水たまりが視界に入らない空間に居るだけで、私の住む世界に底の見えない水たまりは確実に存在するし、その向こう側にある世界を覗いてみたいという思いも少なからずある。四歳だったコウジ君はどう成長しているだろうか、加藤と柴崎の関係はどうなっているのかなど。
 心苦しいのは、底の見えない水たまりに引き込まれる光景を二回も見たのに、私が水たまりに引き込まれない事だ。もし引き込んでくれたら、こんな不自由で制約の多い施設から抜け出せるのに、底の見えない水たまりの方から歩み寄ってはくれない。私の方から引き込まれないと駄目なのだろうか?
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