暴風雨のあと

文字数 6,165文字

 豪雨が身体に打ち付ける雨の中を僕は自転車で走り続けていた。
 家を自転車に乗って出てきたのは今日の午前中だったが、それから何時間が経過したのかはわからない。ただ一昨日から台風が来るという情報は耳にしていたから、その台風が今日僕のいる地点にやって来たのだろう。時計もスマートフォンも持たずに出て来たから、時間を束縛する物は何もなかった。
 途中、何度か道路脇の標識を見ると、僕が目指す海沿いに近づいているのが分かった。暴風雨の夜で海を見ても何も見えないだろうが、僕は構わなかった。地の果てが海に行きつくのなら、僕はそこで死んでも構わなかった。
 風雨はさらに激しくなり、自分の息遣いさえ聞こえなくなる。地鳴りとも雷鳴とも区別のつかない音が、僕の頭の後ろで鳴り響く。そしてひときわ大きな轟音が鳴り響くと、僕は目の前が真っ暗になった。



 目の前が真っ暗になってどれくらいの時間が経っただろうか。僕は閉じた瞳の中で最初に自分の体温を感じた。その後に肉体の感覚、そして空気の温もりを感じて、自分が横になっている事に気付いた。
 瞼に力を入れて開くと、ぼやけた世界が見えて来た。黄色がかった電気の照明に、木の天井が見える。僕は何処かの部屋で横になっているのだろう。身体を動かそうとすると、身体は反応するのだが、筋肉が粘土になってしまったかのように鈍く重い。厚手の布団をかぶったまま起き上がろうとすると、肌に汗をかいている事に気付いた。
「起きた?」
 すぐ近くで女の声が聞こえた。どこに声の主は居るのだろうかと思って首を回そうとしたが、首と背骨の間に電流のような痛みが走って、僕にうめき声を上げさせた。
「まだ少し横になっていた方がいいよ」
 女は僕の肩を持って身体を支えてくれた。女の手は大きく厚く、そして温かかった。まだはっきりしない意識で女の方を見ると、日焼けした肌と黒い髪の、僕よりも年上の女だった。
「あんた、嵐の中道路に倒れていたんだよ」
 女にゆっくり促されて、僕はゆっくりまた横になった。少し深呼吸をすると、自分の知らない家で感じる、苦いような独特の空気の感触が肺に満たされる。その感触を呼び水にして次第に身体の感覚がよみがえってくる。
「助けてくれたんですか?」
 僕は口を動かして女に質問した。
「そうだよ。あんたは倒れていたから。今はゆっくり休みなさい」
 女は落ち着いて僕にそのままでいるように言った。僕は暫く呆然としていたが、暫くして顔の表面から様々な感情が涙になって溢れてくるのを感じた。

 布団の上でまた眠りについて目覚めると、先程までの粘土で出来たような身体の感覚が消えて、意識がはっきりしてきた。それと同時に、空腹感と、今までの事を話せるようになる余裕が、僕の心の中で生まれつつあった。また起き上がって周囲を見回すと、僕が寝ていたのは古い日本家屋の寝室らしい。適度に色あせた畳の上の感触が、人間の生活と温もりが直に感じられる。
「もう大丈夫かい?」
 再び目覚めた僕に、女は少し野太い声を掛けた。振り向くと、先程よりも表情が柔らかくなった女がそこには居た。がっちりした身体に、程よく日焼けした肌と艶やかな黒髪。黒の半袖Tシャツにははっきりと判る豊かな乳房の膨らみと、グレーのショートパンツから出た足は筋肉質で硬い印象があった。年齢は恐らく僕よりも十歳は年上だろうが、一人の女として僕を意識させる魅力を十分に持っていた。
「はい、だいぶ良くなりました」
 少し緊張気味に、僕は答えた。女は小さくはにかんだ。
「何か食べる?」
「頂きます」
 反射的に僕はそう答えた。余計な事を考える余裕が無かったのだ。
「待っていてね」
「あの」
 小さく断って僕の元を離れようとした女を僕は呼び止めた。
「助けてくれてありがとうございます。名前は何というんですか?」
 女は僕の言葉に驚いたのか、小さく口を開けて意外そうな顔をした。
「私は井口美咲。あなたは?」
「斎藤健太郎です」
 美咲さんのはっきりした声とは違うぼそぼそとした口調で、僕は自分の名前を名乗った。
「健太郎か、良い名前だね」
 美咲さんは年上の女性らしい余裕と温もりを持って答えて、キッチンの方に消えていった。
 やがて美咲さんはテーブルに入れた食事を持ってきてくれた。鼻先に漂ってくる酸味と糊のような香りから、梅干しの入ったお粥だという事がすぐに分かった。
「梅干しが入っているけれど、大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 僕は美咲さんに礼を述べた。塩味や酸味がある食べ物が口に出来ると思うと、猛烈な食欲を感じた。
 お粥の入った器を受け取り、木のスプーンで口に運ぶ。お粥の甘みと梅干しの酸味と塩味が口の中に広がり、心地よい感触を下から頭に伝えてくる。その心地良さが濡れていた神経を整えて僕の感覚をより鮮明にしてくれる。
「それだけ食欲があれば、大丈夫そうだね」
 美咲さんは満足そうな笑みを浮かべて漏らした。僕は無言で梅干しのお粥を食べ終えると、何か話さなければ唐突に思った。
「ご馳走様です」
「どういたしまして」
 僕の定例文に、美咲さんは小さく微笑んだ。
「今は何時ですか?」
 僕の質問に美咲さんは左腕に巻いたゴツいデジタル時計の文字盤を見た。
「午後十二時七分。ここに来て八時間は眠っていたね」
 美咲さんの言葉を聞いて、僕は自分が助けられた時の記憶がないか思い返してみたが、何も浮かばなかった。
「健太郎君はなんで自転車に乗って倒れていたの?」
 単刀直入に美咲さんが質問してきた。僕は胸の中がつかえて、それまでの和らいだ気分が一気に下がって行くのを感じた。
「学校に行きたくなかったからです」
 僕は気分が落ちていたのに、意外なほど言葉がぬるりと出て来た。普段とは違う空気、何も知らない環境に居るという状態が、僕に本音を語らせるのかもしれない。
「夏休みが終わって学校に生きたくないから、台風の日に逃げ出してきたの?」
 美咲さんの言葉に僕は無言で頷いた。
「今何年生なの?」
「中学三年です」
 美咲さんの言葉に僕は自分の社会的地位を答えた。美咲さんはあきれたようなため息を漏らすのではないのかと僕は身構えたが、美咲さんはそんな事はしなかった。
「そう」
 美咲さんは一言だけ答えた。彼女にも何か辛い過去があるのだろうか。
「学校やご両親には、大丈夫だよって連絡入れようか?」
「しなくて大丈夫です。今はまだ」
 僕は自分の気持ちを素直に口にした。まだ自分が生活している環境に戻りたいという気持ちは無かった。
「とりあえず、健太郎君はここ居るといいよ。気が変わったら、私にいつでも話して」
 美咲さんはそう言った後、空の食器を持って下がっていった。


 再び僕は横になったが、少し眠った後に目覚めてしまった。正確な時間は判らないが、昼と夕方の時間帯らしい。僕は寝ていた部屋を出たくなり、布団から起き上がって部屋からでると、板張りの廊下を歩いて縁側に出た。僕が居た家屋は、築百年近くは経過して古い家のようだ。広い庭と生け垣の向こうからは、風に乗って届く波の音が聞こえる。
「ここから出るのかい?」
 不意に美咲さんの声が響く。驚いた僕は背後に居た美咲さんの方を向いた。彼女の表情は先程よりも固く、何か思いつめているような気がした。
「外の様子が気になっただけです。逃げようなんて思っていませんよ」
「そう。安心したよ」
 美咲さんは固くなっていた表情を緩ませた。何気ない日常の動作に過ぎなかったが、その仕草が僕の心臓の裏をこそばゆくさせた。
「外の様子が気なるくらいに回復したのなら、嬉しいよ」
 美咲さんの言葉に、僕は照れくさくなった。何かの事で年上女性に褒められるという事は初めてだった。
「街じゃもうすぐ盆踊りが始まるんだ。だから外の空気が何時もとは違うのかもしれないね」
「そうなんですか」
 不器用に僕が相槌を打つと、美咲さんはこう続けた。
「あたし、盆踊りの手伝いを地元の人から頼まれているの。音響装置の用意とか準備するのにこれから外に出るんだけれど、健太郎君も良かったら来なさいよ」
 僕は無言で頷いた。

 僕は生乾きの自分のスニーカーを履いて、美咲さんと共に家を出た。美咲さんの家を出ると、家の前の道路から四〇〇メートル先に海が見えた。水平線の向こうはもう夜になっているのだろうか、海は墨色に染まりつつあり、波も昨日の台風の影響なのか荒れていた。吹き付ける潮風によるものなのだろうか、道路脇の街路灯は表面が色あせてすぐに錆び、コンクリート製の建物などは表面がくすんでいる。
「海が近い街は初めて」
 道路を歩きながら美咲さんが僕に訊いた。
「はい。旅行とかでも泊った経験がなくて」
 僕はぼそぼそと事実を述べた。
「この街の印象はどう?」
「空が広くて、余計な物が無くていい感じです」
 僕は見た光景から連想した物を言葉にした。
「何もない場所で生きていると、私は時々寂しくなるよ」
 美咲さんが物憂げな様子で呟くと、僕は自分が非礼な事をしてしまったのではないかと思い、思わす「すいません」と漏らしてしまった。
「いいよ。色んな事を受け入れるのが大切だから。それに私がここに居るのは地元が好きで残っているんだから」
 美咲さんの言葉に僕は無言で頷くしかなかった。
 約二十分歩くと、盆踊りの会場となる広場が見えて来た。周囲には自治体の白いテントが立てられ、中央にはアルミパイプを組み合わせて作られた櫓が立っていた。
「工藤さん、こんにちは」
 美咲さんは近くにいた中年男性に声をかけた。
「やあ美咲ちゃん。来てくれたんだ」
 中年男性は朗らかに答えた。襟にタオルを巻いているあたり、先程まで作業をしていたらしい。
「はい。お手伝いすると約束しましたので」
「いやいや、こちらこそありがとうだよ。そちらの少年は?」
 工藤と言う中年男性は僕の事を質問してきた。
「私の甥っ子の健太郎君です。学校が休みなのを利用して、この盆踊りに参加したいと。折角なので手伝いに来させました」
 美咲さんは僕がここに居る理由を偽造してくれたが、ついでに何の打ち合わせもしていない事を同時に言った。僕は戸惑ったが、拒否する気にはなれなかった。
「何を手伝えばいいですか?」
 僕は場の空気に流されて、そんな言葉を口にした。
「これからスピーカーの配線を行うんだ。配線用のコードリールを持って手伝ってくれるとありがたい」
「わかりました」
 工藤さんの言葉に僕は即答した。
 僕は答えた後、工藤さんの後をついて広場の倉庫に向かった。倉庫の中には街のイベントや防災訓練等で使う機材が整理されて保管されており、独特の匂いのする空気が溜っていた。工藤さんは段ボールの箱からコードリールを取り出し、僕に持つよう促した。
「まずは各部のスピーカーから配線するから、最後に事務局のテントの放送機材につなぐ。一緒に来てくれ」
「はい」
 僕は普段よりも素直に頷いた。通常とは異なる環境が僕をはやし立てていたのだ。
 配線はまず、事務局のテントから遠い場所に設置したスピーカーから配線を始めた。僕はコードリールを持つだけの仕事だったが、大きなイベントの準備を手伝っているという実感を覚えると、数日前まで鬱々としていた胸の中が軽くなるのを感じた。
 そして四か所のスピーカーへの配線を終えて、事務局のテントにある放送機材への配線を終えると、工藤さんはテント脇にあった発電機を動かして放送機材の電源を入れて、マイクが作動するか確認した。
「大丈夫だな。この後は入り口に盆踊り会場の看板を立てるから、また倉庫に行って入り口に立ててくれ」
「わかりました」
 僕は素直に答えた。意地も意見も通用しない環境に居るという事が、僕を素直な中学三年生に変化させていた。
 僕は倉庫から盆踊り大会の看板を運び出し、会場の入り口に設置した。設置が終って工藤さんに報告を済ませると、心地よい疲労感と共に爽快感のような感触が胸の中に生まれた。
「ありがとう。君に頼む事はこれ位だね」
「こちらこそ、ありがとうございます」
 僕は工藤さんにはっきりと感謝の言葉を伝えた。普段ならば「どうも」などと短い言葉でごまかす様に答えるのだが、今回ははっきりと自分の言葉で答える事が出来た。
 僕は工藤さんの元を離れて、会場の何処かに居る美咲さんを探した。美咲さんはこの盆踊りに参加する地元の人と談笑していた。
「ああ健太郎君。手伝いは終わったの?」
「はい」
「それは良かった。夕飯のソース焼きそばを貰ったから帰ろうか」
 美咲さんは屈託のない声で言った。僕はその言葉に従うしかなかった。
 
 帰り道の空は来た時よりも薄暗くなっていた。東の空は先程よりも闇が増して、夜の気配をより強くしている。海から吹く風は冷たさを増して、半袖Tシャツから露出させた肌をひんやりさせる。その冷たい風に乗って流れてくる、草むらの虫たちの音色が、もう夏が終わる事を報せている様だった。
 家に戻ると、僕と美咲さんはプラスチックの容器に入ったソース焼きそばを食べた。何の変哲もない、良く知っているソース焼きそばの味だったが、今回ばかりは少し特殊な味がするような気がした。
「呆気なく一日が終わったね」
 美咲さんの言葉に、僕は答える事が出来なかった。
「何か話す気にはなれた?」
 間髪を入れずに、美咲さんは続けて質問してくる。美咲さんに連れられて外に出て、何かを手伝ったのに具体的な言葉が出てこない。一体なぜだろう。両手に持ったソース焼きそばの空の容器の様に、形だけはあるのに色も中身も何もない。僕は美咲さんの視線を肌で感じながらただ黙る事しか出来なかった。
「暫くここに居るのかい?」
「はい」
 僕は空の容器をみつめたまま小さく答えた。
「それなら、明日の夕方にある盆踊りに参加して、それが条件だよ」
 美咲さんの言葉に僕は無言で頷き、新しいTシャツを貰って眠りに就く事にした。


 次の日の夕方、僕は太鼓と音楽が鳴り響く盆踊り会場に向かった。盆踊りに参加している人達は浴衣姿の人間も居れば、普段の服装の人間も居る。僕と美咲さんはTシャツにズボンと言う素っ気ない姿だったが、普通の人間が居るなら特に引け目を感じる事もなさそうだった。
 僕は盆踊りの列に参加し、見よう見まねで踊った。輪になって踊るなんて小学校低学年の時以来だったが、恥ずかしさのような物は感じなかった。
「踊れたね」
 美咲さんは踊り終えた僕に声をかけてくれた。すると美咲さんは僕を抱き寄せた。突然の事に僕は驚くと同時に、成熟した女の肉体に初めて触れた事の喜びを覚えた
美咲さんは背中を撫でながらこう続ける。
「もう未練はなくなったね。これで安心して向こう側に行けるよ」
 どういう意味だろうと思って美咲さんに抱かれたまま横を見ると、先程まで存在していたはずの盆踊り会場は消えて、真っ暗な世界が広がっている。僕は小さく悲鳴を上げたが、声は聞こえなかった。前を向くと、抱きしめられていたはずの美咲さんの肉体は勿論、僕の肉体も消えていた。
「あんたはもう死んでいたんだよ。あの台風の夜に。私に外に出た理由を話せば生き返られたのに、言わなかったからもう戻れないよ」
 その言葉が身体を失った僕の中に反響して、消えていった。
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