黒い触手

文字数 1,877文字

 僕には黒い触手が生えている。
 その触手がいつ頃、僕から生えて来たのかは正直よく覚えていない。ただ知っている事は、僕が孤独に打ちひしがれていた時期に生えて来たと言う事。触手は僕の友人や家族と言った人には見えない事、そして僕以外にも様々な人間が生やしていて、触手を生やした者同士でしか見ることが出来ないと言う事だ。
 この黒い触手は実に便利なもので、自分の感覚と常に一体なのだ。触れた物の質感や温度を知る事が出来たし、目を閉じて意識を集中させれば視覚情報まで手に入る。最初の事は伸ばすのに苦労したが、意識して遠くに伸ばすようにすると遠くまで伸ばすことが出来るようになり、最終的に埼玉の鳩ケ谷あたりまで伸ばす事が出来るようになった。
 ある日、僕が触手を遠くまで伸ばしていると、同じように触手を伸ばして外の様子を伺っている触手を見つけた。僕はその触手に自分の触手を触れさせた。
「こんにちは。あなたも触手をお持ちなんですね」
 僕は礼儀正しく挨拶をした。同じ触手を持っている相手とは言え、知らない相手なので礼節を弁える必要があった。
「こんにちは。私も触手を伸ばして自分と似たような存在を探しておりました。ご丁寧にありがとうございます」
 触手の相手も丁寧に返してくれた。僕と同じくらいの年齢の男だ。
「こうして出会えた事を嬉しく思います。私は✕✕と申します。よろしくお願い致します」
「こちらこそ。私は区役所に勤めております△▽と言う者です。よろしくお願い致します」
 僕達二人は丁寧にあいさつを交わして別れた。触手以外に共有できる事が少なかったのだ。


 その後も僕は様々な所に触手を伸ばし、様々な相手とあいさつをして会話を楽しんだりした。触手と言うのは言葉ではなく意志でコミュニケーションが取れるので、触手さえ生えていれば外国人とも会話をする事が出来た。会話を交わしたのはパキスタンからやって来た技能実習生の青年の苦労や、中国の福建省から商売に来た初老男性が話す近現代中国の歴史や今後の日中両国の未来図など。普段なら言葉の壁に遮られてしまうが、触手を使って思いを伝えるので色々な事が話せるし勉強にもなった。また大学教授の触手は、何人かの触手を集めて互いの触手に絡み合わせて、大学の講義と同じ内容の事を伝えて、触手を持つ若者たちを勉強させていたし、選挙に出ようとしている少し頭のおかしい年増女は、あちこちに触手を伸ばして支持と意見、現在の日本政治に対する不満を集めていた。僕は触手を持つ人間は様々な志向や目的を持っていて、それで様々な快楽を得ているのだなと思った。

 快楽と言えば、僕も一つ実例があった。土曜日の昼前に触手を伸ばしていると、薄汚れた公営団地の一室で、弱々しい触手を生やして泣いている女子中学生を見つけた。僕は彼女の触手に触れて、こう質問した。
「僕は通りすがりの人間だが、どうかしたのかい?」
「学校で好きな人に裏切られて泣いているんです」
 触手越しに彼女は答えた。少し事情を聞いてみると、自分に生えた触手を意識するようになったら他人との関係が上手く行かなくなり、片思いの男子生徒に降られてしまったという。
「つらいね」
「自分はこの触手が憎いです。これが無かったら普通でいられたのに」
「でも、触手が無ければ、こうして君を見つける事が出来なかったよ」
 僕は優しく囁いた。すると弱くなっていた彼女の触手が、少しだけ元気を取り戻した。
「触手を持っていない人間と繋がる事は難しいけれど、持つもの同士なら繋がりを持てるよ」
 僕は彼女に優しく囁き、彼女の触手を自分の触手でからめとった。その行動に嬉しさを感じた彼女は僕の触手を絡めて来た。僕はさらに触手を絡ませて彼女の肉体に絡みつくまで触手を伸ばした。彼女も僕の触手に必死に絡んでくる。僕は自分の触手で、まだ弱い彼女が欲している物を満たしてやった。
 やがて彼女は自分から触手を伸ばし、近づいた僕や他の触手を求めるようになった。彼女と絡んだ別の人間の触手によると、弱い人間はこうして触手を伸ばし見境なく触手を求める事があるらしい。僕は触手だからまあいいかと頷き、同じような触手を探したりした。

 その後も僕は触手を使って政治家のたわごとを聞いたり、インテリの講義に出席したり、外国人と交流し、飢えた触手に絡んで欲を満たしたりした。普段は何気ない小市民として生活している僕だが、こうやって触手を使って色々な交流や関係を持てるのは楽しいし、やめるつもりはない。


                                    (了)
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