ウソナマ

文字数 1,908文字

 それは突然目の前で起こった。
 夏の暑い昼過ぎ、用があって東京から埼玉の加須に向かう途中、目の前を走っている一台の軽自動車が、突然蛇行運転を始めたかと思うと歩道に乗り上げて、そのまま電柱にぶつかってしまった。目の前で事故が起きた僕は素通りしようと一瞬考えたが、見過ごしたら後味が悪いなと思い、事故車の手前でハザードランプを点け乗っていた車を停めると、降りて事故車の元へと駆け寄った。
 事故を起こした運転手は高齢の男性だった。だが奇妙なのは事故を起こした人間がもうすでに死んでおり、そして死後何年も経っているかのようにミイラ化していた事だ。ミイラ化した死体はもう死臭を発する事すらなく干からびており、どうしてこんな状態の人間が車を運転出来たのか不思議に思った。
 すると反対車線を走っていた車が止まって、運転手の男性とその奥さんが降りて来た。僕は救われたような気分になって一瞬気が緩んだその瞬間、車内から巨大な何かが蠢いて飛び出してきた。
 僕はそれを間一髪のところでかわし、飛び出した物体を目で追った。それは白くブヨブヨとしたオタマジャクシ状のもので、草むらに入るとそのままガサガサと音を立てて何処かに消えてしまった。
「ああ、やっぱり」
 反対車線から歩み寄って来た男性が諦めたように漏らす。
「やっぱりって、何がです?」
 僕は半ば呆然としたまま、男性に訊き返す。
「この車の運転手はもうとっくの昔に死んでいたんだ。でもウソナマに取りつかれていたから、表向きは生きていたんだよ」
「何ですか?ウソナマって」
 全く状況が理解できない僕の質問に、男性はこう答える。
「ウソナマって言うのは、死んでも誰も困らないような人間にとりつく生き物さ。とりつかれた人間は実は死んでいるんだが、ウソナマによって『嘘の生』を与えられて普通に暮らしている。そいつが出て行ったら、『嘘の生』も無くなってこの世から消えちまったのさ」
「ウソナマ……」
 僕は奇妙なその響きの固有名詞を、口の中で言葉にしてみた。暑くも無く冷たくも無い奇妙な感触が、僕の頭の中で妙な心地良さに変わって行く。
「ウソナマは信念や目的の無い人間に好んでとりつくっていう話だよ。私も取りつかれるのが怖いから、最近になって人生を豊かにするべく短歌のワークショップに通い始めたけれど」
 男性の奥さんが注意書きの様に言葉を添える。僕は表現できない虚無感を覚え、何も言えなかった。
 その後と男性は警察を呼んで後始末を頼んだ。やって来た警官たちもウソナマという物の正体を知っているらしく、淡々と処理を終えて僕は返された。




 次にウソナマに出会ったのは一週間後、仕事で霞が関の中央合同庁舎の第四号館に行った時だ。僕は上司と共に第四号館のある内閣府のオフィスに行き、頼まれていた資料を届けて簡単な説明を行った後の帰りだ。担当官のオフィスを出た後、オンラインで送れば済むことなのに、わざわざ持ってこさせるなど古いなと疑問に思っていると、同じ階で何かの騒ぎが起きている事に気付いた。気になった僕と上司は何が起きているのか確かめようと、騒ぎの起きている方へと向かった。すると、埼玉で見たのと同種の白くてブヨブヨしたウソナマが、逃げる様にして僕の足元を通り抜けて何処かへと消えていった。僕は恐ろしい不安感を抱いて騒ぎの中心に向かうと、四十代半ばの官僚が持っていた果物ナイフで喉を掻き切り、大量の血を流して死んでいる光景に出くわした。
 そのあとすぐ警察が来て現場検証と事情聴取が行われたが、内閣府が入る霞が関の庁舎で官僚の自殺という事もあり、大騒ぎになってしまった。帰宅してニュースを見ると、自殺した官僚は以前にも仕事上の問題で自殺未遂を起こしており、救急搬送され一命をとりとめた経験があると説明されていた。仕事内容に絶望し生きる意味を失い、生きていても仕方ないと思って自殺を試みたが、ウソナマに取りつかれて本当に死ぬことが出来なかったのだろう。そしてウソナマが出て行ったから、彼は『嘘の生』を終わらせたのだ。


 二回もウソナマがもたらす『嘘の生』の終わりを目にした僕には、どんな結末が待っているのだろうか。あるいはある日突然生きる意味を失い、ウソナマがとりついて空虚な『嘘の生』を生きたあと死ぬのだろうか。それともウソナマに取りつかれないような生きる目的を持つべきだろうか。色々考えると自分と言う存在は何者なのだろうか、もしかしたら事実でも嘘でもない、存在しないものなのではないかと思うようになってしまった。僕は嘘なのか真実のどちらだろう?

                                  (了)
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