気付かぬ自分の闇。

文字数 2,023文字

 都内で熱中症注意報が出た日、私は車で板橋に住んでいる高校時代の友人Pの家を訪ねた。彼は貿易会社の役員である私と同じように世界中を飛び回り、各地にある民話や伝承を収集しそれをアーカイブ化する団体の日本人スタッフとして活動している。だが昨今の世界情勢等もあり、三月半ばには帰国し、それ以降はインターネットで団体が収集した世界の民話や伝承を日本語に翻訳して公開する作業を行っていた。私はPなりのやり方で多くの人々に貢献している彼を激励しようと、彼の自宅を訪問したのだった。
「お前が集めた話は俺も時々ネットで見ているよ。目障りな広告も無いし」
「昔話や伝承はその土地の歴史の一部だからな。商業利用の為に用いたら俺は帝国主義者になる」
 Pの書斎で会話していた私とPは小さく笑った。私は海外で様々な製品を買い付けて日本に輸入するのが仕事であり、早い話が帝国主義を職業にしている人間で本来ならば笑う立場にある人間ではないのかもしれない。だがPの言っている事は事実であるし、原価が安い歴史や伝承を元に商売をするのは利益が高いビジネスなのは知っていた。
 私がPの背後に視線を移すと、フィールドワークによって記録された資料が大量にあった。あの中に様々な伝承や昔話が記録されているのだろうと思うと、ある思いが頭をかすめた。
「公開できないような話もあるのか」
 それをきっかけにPはそれまでの笑顔を消して、かしこまった表情で「あるよ」と答えた。
「どんな内容だ?恐ろしく卑猥な内容とか暴力的な内容とかの話か?」
「実害が出るような話だ。それこそ死人が出るような類の」
 Pはほんの少し前の柔らかさと楽しさすべて消し去って、闇の中で鈍い光を放つ刃のような冷たさをその顔に浮かべた。
「どんな類の話だ」
 私が彼と同じようにいい加減な気持ちを捨てると、Pは淡々とした口調でこう語りだした。



 それは人間の闇が具現化した存在で、目に見えず人の意識に入り込む。冬の寒い日から、今日の様に焼けつくような日差しが降り注ぐ日にも現れるという。そして入り込まれたら最後。感覚や思考を支配して、その人間を破滅させてしまうという。しかもそれは特定の地域に存在し伝承されているものではなく、ほぼ世界各地に分布しているという。



「随分と広範囲に伝わっている伝承だな。何かの宗教が伝来する時に伝わったのか?」
 私は自分の中にある不十分な民俗学及び民間伝承に伝わる知識を動員して質問した。
「そうでもない。アマゾン奥地の先住民や、中央アジアの遊牧民。ベトナムの農村にも類似する伝承がある。範囲から見て、宗教や外部地域との交流が生んだ内容とは思えない」
 落ち着いた様子で語るPの表情は先程の親しい友人の表情から問題に直面し解決しようとする人間の表情に変化していた。彼の中では非常に大きな関心を持つ伝承なのかもしれない。
「その疑問は、この社会情勢が落ち着いたら調べに行くのか?」
「ああ。何時になるかはわからないが調べに行くよ。伝承に由来するような実例があったのかも知りたいしね」
 Pはそう答えた。


 私はPの家を後にして車に乗り込んだ。熱中症注意報が発令中と言う事もあり、炎天下に晒したままの車の車内はオーブンの様に暑く、窓を開けてエアコンを入れないと熱中症を通り越しローストされそうな感じになる。私は車を走らせ、住んでいるマンションのある臨海方面へと車を走らせた。
 Pが言っていた人間の闇が具現化した存在とはどのような物だろう?と私は考えた。人間の闇とは、普段気付かない自分の弱点ではないだろうか。私は自分の闇に隠れた弱点を考えてみたが、思いつかなかった。このご時世に十分な収入があり都心の一等地に建つマンションに住んでいる身分の人間だ。しばらくは大丈夫だろう。
 そんな自画自賛に酔いしれながら、私は近道の為に首都高速に乗った。新板橋から首都高に乗り、池袋線から環状線経由でお台場方面に向かう。休日とは言え首都高は過密状態で、自分が想像するようなペースで走れないため不満が溜まった。何とか環状線にたどり着くと、先程よりは車の流れが速くなった。私はスピードを出そうとシフトレバーをスポーツモードに入れて、ギアを一速落としアクセルを踏み込む。エンジンが一気に唸り声をあげて車速が時速一五〇キロを超える。加速Gと共に周囲の景色の流れが遅くなると、目の前のトラックが車線変更をして前を塞ぐのが見えた、私はそれを避けようとウィンカーを出さずに右に車線変更しようとすると、周囲と同じ速度で走っていたバイクに接触してしまった。
 私が悲鳴を上げる暇もなくバイクは崩れ、乗っていたライダーは私の車を乗り越えて高速の道路に叩きつけられた。後ろのミニバンが慌ててブレーキを踏んだが、間に合わずライダーはミニバンの下敷きになった。
 私は急ブレーキを踏み。ハザードを点灯させて車を停めた。気付かない自分の闇に飲まれたのだった。

       (了)
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