濁った水に見える物

文字数 1,778文字

 秋葉原で小さな買い物を済ませると、僕はこの界隈を歩いて散策した記憶が無い事に気付き、万世橋を渡って神田方面へと歩き、靖国通りから亀戸方面に向かった。
 靖国通りを亀戸方面に向かってゆくと、中心地から離れる感じになるのか、緩やかな下り坂を歩いているような気分になった。神保町や駿河台周辺はよく出入りするのだが、本屋や大学が近くに多いせいで妙な圧迫感が漂っていたが、そこから離れると知的な印象は和らいで、代わりに妙に庶民的で退廃したような空気が漂ってくる。亀戸や錦糸町が進行方向にあるせいなのだろうか。都市と言うのは中心部に向かえば向かうほど、圧迫感や閉塞感が強まり離れれば緩やかになって行く気がする。その閉塞感の中心部、源泉に近しい場所に居る政治家や高級官僚は、離れて低くなっている場所で生活している人間の気持ちが分からないのかもしれない。
 地下鉄の岩本町の駅を過ぎて、道路沿いに立ち並ぶ、昭和の繁栄の時代に建てられたビル群を眺めなが隅田川手前まで来る。隅田川沿いには僕の興味を引くものがある。という事を僕は本能的に知っているので、隅田川を超えて両国方面には向かわず、手前で曲がって浅草方面へと向かう事にした。
中小のビルの間を通る道を進み、浅草を目指す。駒形にあるどじょう料理で有名な店にもう三年も行っていない事を思い出すと、電柱に張られた妙な張り紙を見つけた。
『あなたを写すものあります。すぐ左のOOビル手前』
 僕はその張り紙の張られた電柱の前に立ち、もう一度張り紙の文字を見た後左を向いた。向いた方向には一人の女がパイプ椅子に座っており、その前には陶器で作られた大きな鉢が置いてあった。
 僕はその女と鉢の前まで行き、鉢の中を覗き込んだ。鉢の中には澱んだ色の水が溜まっており、鉢の底には様々な金額の小銭が沈んでいた。
「この水は隅田川から汲んできた水だよ。人間の色んなものが溶け出している」
 鉢を覗き込んだ僕に、女はそう説明した。女の放った「人間の色んなもの」という言葉に興味を持った僕は、ここに来た他の人間がしたように、鉢の中に小銭を落としたくなった。
「まずは一枚落としてみなよ。あんたの今の姿が見えるよ」
 女に促されるまま、僕は小銭入れから十円玉を一枚取り出し、鉢の中に落とす。心地よい水音が一回響くと、発生した波紋がやんわりと僕の目の中にイメージを作り出してくる。

 僕は一人で電車の席に座っている。窓の外が暗く走行音が籠った感じがしないから、夜の電車だろう。乗客が他に居ないという事は終電なのだろうか。
 誰も居ない電車の中で、僕は宙を見つめていた。何を考えているだろうか。暫くすると、電車の中に居た僕は何かに気付き、席を立ち上がって車両の端の方へと向かってゆく。向かった先には一人の老人が端の席に座って眠りこけており、僕はその老人の手を取って「降りますよ」と言いながら無表情のまま老人を起こそうとしていたが、そのまま老人と共に透明になって行った。


 波紋に浮かんだイメージがそこで消えると、僕は正面の女にこう訊いた。
「これは、人生の終電を表しているのか?」
「それは分からない。このイメージをどう捉えるかは主観の問題で、答えもイメージを見た人間の主観の中にあるよ」
 意地の悪そうな感じで女は答えた。僕はなにか反論したくなったが、適当な言葉が浮かばなかった。
「他に見たいイメージがあるなら、また小銭を落としなよ」
 女は続けたが、今見たイメージと女の言葉で印象が悪くなった僕は断って、その場を離れた。そして再び浅草方面に歩き出したが、浅草の街を冷やかす気分になれず、隅田川の方に向かう事にした。
 隅田川のほとりまで来ると、川を隔てた向こう側に首都高の高架とその下にあるビル群が見えた。隅田川の水面は穏やかだが濁っていて、はしけを引いたタグボートが下流に向かって航行していた。周囲に人の姿は無く、ぼんやりと隅田川を見つめる人間は僕以外に見当たらなかった。
 僕と言う人間も、緩やかに下流へと逃れて小さな存在になるのだろうか?僕は濁った水面に小銭を落として、浮かんできたイメージを確かめたくなったが、目の前にある隅田川の水は鉢の中の水よりも大きくて、何か見せてくれそうな気配は無かった。

                                     (了)
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