僕は目が悪い。

文字数 1,713文字

 僕は目が悪い。
 健康診断によると両目の裸眼視力は〇・一程度。眼鏡をかけてようやく運転が許される〇・七五だから、裸眼状態では殆ど何も見えない事になる。だが眼鏡をかけていないからと言って、視界が奪われる訳ではない。自動車の運転や、細かい作業をしなければ生活は何とかできるし、景色も判るので徒歩で道に迷う事もない。それに眼鏡をかけていたら見つけられないものを見つける事も出来る。


 去年の春先、僕は雨上がりの河川敷を散歩していた。川の水は雨で濁っていたが、土手の芝と雑草の花は瑞々しく、青空からの光を浴びて美しく輝いていた。雨の匂いを少し残した爽やかな風も、厚着をしなくなった季節には心地よい物だった。周囲に人の数は少なく、美しい空間を独占しているような満足感が僕を満たしている。
 河川敷を五〇〇メートルほど歩くと、僕はかけていた眼鏡を外して、輪郭がぼやけた春の光景を見た。空と地面、川や草木という世界を構成する物の輪郭線がぼやけて、存在の区別が曖昧になる。ミレーが描いた作品よりも、さらにぼやけた光景が目の前に広がっていた。
 するとその光景の中に、一つだけはっきりとした輪郭線で存在する物がある事に気付いた。何だと思って視線を合わせると、川沿いで何かを探すモンペ姿の女性だった。何者だろうかと思って眼鏡を一旦掛けると、その女性は消えてしまった。もう一度眼鏡を外すと、他の景色よりも明らかにはっきりとした輪郭線で女性の姿が見える。僕は眼鏡を外した時に映る女性の存在に興味を持ち、女性の方に近づいた。僕が近付くと女性は気付いて僕の方を振り向いた。
「あの」
 先に声を漏らしたのは僕の方だった。
「ああ、私に気付かれたのですね」
 女性は申し訳ないと言った様子で答えた。顔立ちはかなり古風な日本女性のそれで、名前と住所が書かれた名札を服に縫い付けている。もしかして戦時中の女性の亡霊だろうか。
「空襲の時にこの川ではぐれた、一歳になる娘を探しております。お騒がせしてすみません」
「いや……」
「この川でもう何年も娘の事を探しているのですが、痕跡すら見つけられないのです」
 僕は返す言葉も呻く声すらも出なかった。
「私の事は平気ですから」
 女性の態度があまりにも恭しい態度で接してくるので、僕は恐れ入ってその場を去った。少し離れてまた眼鏡をかけると、やはり女性は空襲ではぐれた娘の痕跡を探していた。


 次の出来事はそれから一か月半ほど経った土曜日の夜だ。次の日曜日には何も予定が入っていなかったので、僕は近所にある飲み屋街に行って、麦焼酎の水割りとつまみを三品頼んでほどほどに酔った。上機嫌になった僕は徒歩で帰宅の途に就いたが、ほろ酔い状態で、夜に眼鏡を外しても家に帰れるだろうかと思って、眼鏡を外してみた。すると街灯に照らされた黒いアスファルトの上に、仰向けに横たわっている人間の姿が見えた。酔いつぶれた人間が横になっているのだろうかと思った僕は、近づいて横たわっている人間を覗き込んだ。倒れているのは十歳前後の少年で、今の季節には肌寒いTシャツとハーフパンツ姿だった。
「何をしているんだい?」
 僕は横たわる少年に声を掛けた。
「両親を待っているんです。僕はここで車にはねられて死んだんです」
 少年は淡々とした口調で僕の質問に答えた。
「君は亡霊なの?」
 酔っていたからだろうか、僕は当たり前の出来事であるように少年に訊き返した。
「はい。僕は両親に愛されていなかったので。葬式もせずに火葬されました」
「両親を待っているのかい?」
「それもあります。でも、自分だけ不幸なままでいるのは嫌だから誰かを呪い殺してやろうと待ち構えているんです」
「そうか」
 僕は一言答えて、その場から離れた。亡霊と化した少年に呪い殺されるかもしれないと一瞬思ったが、少年から僕に対する憎悪や敵意は感じられなかった。


 そうやって眼鏡を外して見る世界は、眼鏡をかけてみる世界とは違う物を僕に見せてくれる。むしろ眼鏡と言う矯正装置のせいで、僕の見る世界は醜いものがフィルタリングされて映らないようになっているのかもしれない。だから今でも僕は、時々眼鏡を外して街を歩くようにしている。

(了)
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